第五章 少女は聖なる樹を欲す -3-

 バラバラになったパーツを、再び一つの機能する塊に復元する。

 部品は無秩序に置かれているように見えたが、復元者にとっては違うらしい。床に敷いたシートの上で胡坐を組み、周囲に散らばる部品を迷うことなく正しい順序で拾い上げていく。

 熟練した手つきで一つ組み込んでは、次の一つに手を伸ばす。瞬く間に、全ての部品があるべきところに収まった。

 それは丹念に磨き上げられ、手の中で鈍い光を放っていた。大きさは掌一つ半ほどか。威力は小さいが、使用者の技量うでなら少々距離があっても確実に獲物を仕留められる。

 長年使い込まれたグリップを握ると、全ての感覚が研ぎ澄まされていく。頭の中は霧が晴れたように冴え、目に映るものが鮮明さを増す。肌を撫でる空気さえも、氷の刃を当てられているように感じられた。

 と同時に、胸の奥から言い知れぬ歓喜と衝動が湧き起こってくる。トリガーを引き絞る瞬間が待ち遠しい。

 彼女は逸る気持ちを抑えつけ、組みあがったものをじっくりと検分した。誤作動は許されない。それは即ち己の死を意味する。

 いや、死など恐れてはいない。だが奴を仕留めるより先にたおれるわけにはいかないのだ。

 自分の成すべきことを胸に刻みながら、弾を込める。そして三回深呼吸し、手入れの終わった拳銃をホルスターにしまった。

 これで狩りを始める前の儀式は終わりだ。

 リディアは普段と変わらぬ姿で、〈楽しき郷マグ・メル〉の我家を後にした。


 温室内は樹々の息吹に満たされていた。

 肢体を包み込む空気は清らかで芳しく、一呼吸ごとに身体中の細胞が活性化するようだ。

 ハズリットは〈ヴァルハラ大植物園〉の展示温室を、樹々の呼吸を感じながら見学していた。

 案内役はレンツ夫妻だ。植物学者である彼らの説明は専門的であったが、天才と呼ばれる少女には充分理解できたし、とても興味深かった。

 これから植物学を学ぼうと考えている少女は、博士たちの解説を一字一句洩らさずに記憶しようと努めた。意識のすべてを、博士の言葉や説明の対象に向けようとする。

 なのに、気づくと違うことばかり考えていた。

 昨夜の出来事である。

 新たに示された道――。

 それは一大決心をして〈ディムナ・フィン〉を選んだハズリットの気持ちを、大きく揺さぶった。自分たち母子とレンツ一家の関係のことなど、一瞬忘れてしまったほどに。

 博士から直接学ぶなど、思いもしなかった。確かにこの一週間、彼の話を聞いていて「この状態がずっと続けばいい」と思ったことはある。しかしそのために天王星へ行くという考えは、微塵も頭をかすめたことはない。クラウスから提案されて、初めて気づいたのだ。

 もしそれが叶うなら、〈ディムナ・フィン〉で学ぶ以上の知識と経験が手に入るはずだ。

 だが天王星は、他惑星から気軽に行き来できるようなところではない。行くだけでも数ヶ月はかかるのだ。一旦行ってしまえば、次に木星に戻って来られるのは恐らく十数年後になるだろう。

 経験を積みその世界で認められた者が「長年の研究の集大成を天王星で」と思うのなら、それもいい。しかし、これから研究者としての人生を歩んでいく少女の出発点とするには、あまりにも過酷だ。

 それにリディアのこともある。彼女は確かに〈ディムナ・フィン〉へ進むことは認めてくれた。が、天王星行きまで認めてくれるとは思えなかった。「天王星」という言葉は、少女の父親の話題同様に、ラムレイ家では禁句となっている。そんな曰くつきの惑星ほしへ行きたいなど、どうして言えようか。

「ふぅ……」

 樹々の枝を見上げていたハズリットは、知らず溜息をついていた。

 それをレンツ夫人が耳聡く聞きつけた。穏やかな顔を曇らせて少女に訊く。

「あらあらハズリットちゃん、疲れたの? それとも私たちのお話が退屈だったのかしら。ごめんなさいね、こんなところに付き合わせたりして。やっぱりヴィンツブラウト大佐たちと一緒にテーマパークに行った方が、楽しかったかもしれないわね」

 不安げな夫人に、ハズリットは首を振った。

「〈植物園〉がいいと思ったのは、私だから」

 パーティは明日の夜だった。「どうせ〈ヴァルハラ〉に行くのなら、それなりに楽しもう」と、ウィルが余裕を持ったスケジュールを組んだため、今日一日が自由行動となったのだ。

 ヴィンツブラウト親子は、〈ヴォーセグス〉近郊にある巨大テーマパーク〈ヴンダーヴェルト〉にハズリットも誘ってくれた。しかし少女はそれを断わり、博士たちを選んだのである。

「そう? なんならいまからでも、大佐たちのところへ行ってもいいのよ?」

 ハズリットの機嫌を損ねることを恐れているのか、夫人は必要以上に気を遣う。それが却って少女に負担を強いているのだとは気づいていないようだ。

 ハズリットは「大丈夫」と首を振りつづけた。

 そこへ、二人のやりとりを見守っていた博士が口を開いた。

「というか、ワシの方が疲れたよ。ハズリット、カロリーネ、お茶にしようよ」

 博士は呑気な口調で言うと、さっさと喫茶エリアへと歩き出した。

 植物園らしく、森の中にカフェテリアはあった。少女と老夫婦は木陰のテーブルに座り、紅茶と軽い焼き菓子を摘みながら周囲の樹々を眺めた。端から見れば、祖父母が孫と一緒に寛いでいるように見えるだろう。

「やはり、本物の木に囲まれていると落ち着くな」

 うっとりと目を細めて、博士は呟いた。

「だからでしょうね。人々が本物そっくりの人工樹木ではなく、生きている木を求めてしまうのは」

 夫人が静かに肯く。

 彼らの樹々を見つめる目は、優しく愛しげだった。彼らにとって、木星の植物は我が子のようなものだ。少しでもその姿を目に焼きつけておこうとしているのだろうか。

〈森の精〉ヴァルトガイストの実験は順調だ。あと数十年もすれば、〈ヴァルハラ〉の人工森林も本物の木に置き換わるだろう。それを見届けられんのは、ちと残念だが、ここまでやれただけでも良しとせねばな」

 ほっとしたように博士は言う。その顔は急に老け込んだように見えた。

 いつになく消極的な博士の物言いに、ハズリットは顔を曇らせた。軽い胸騒ぎを感じ、じっと博士の顔を見つめた。

 不安そうな少女の目に気づいた老博士は、穏やかな笑みを浮かべた。

「ワシにはもう、そんな時間は残されていないよ。恐らく木星を間近に見るのは、これが最後だろう」

 人生の半ばを過ぎ、自分に与えられた時間はいままでほどもないと知っているのだろう。博士は悟りを得た者のような目で少女を見つめ、静かに語る。

「ワシは長年、自然の森をこの手で創り出すことに躍起になっていた。それは自分だけでなく、先人から受け継いだ夢であり、〈地球〉を離れて暮らす人々の希望でもあったからだ。だが我々の理論値どおりには進化してくれない『彼ら』と格闘するうちに、『人が自然を生み出すことなど、無理なのではないか』と思いはじめていたのだよ」

「でも博士は、カリストの大地に木を根づかせたわ。もうすぐ、失われた〈地球テラファーマ〉の森が、カリストに蘇る」

 少女はみどりの瞳で老いた博士を見つめて言った。

「我ながら、とてつもないことをやってのけたような気がするよ」

 苦笑しながら、博士はうなづいた。

「しかしさて、天王星ではどこまでできるか」

 植物遺伝子学の権威モーリッツ・レンツ博士は、周囲の樹々に目を向けて小さな溜息を洩らした。

 もちろん温度や光量が調節できる温室内で育つ植物なら、いくらでも作り出せる。しかし博士の研究は、自然――地球にあったように、大地に根づく植物を作り出すことだ。太陽から遠く離れた極寒の惑星系に緑を根づかせるのは、困難の極みどころか不可能に近い。

 だが、その人間性はともかく植物学という分野においては博士を認め、崇拝している少女は、小首を傾げて言う。

「博士なら、すぐできるでしょう?」

「それはちと買い被り過ぎだな」

 幼い信者の言葉に、モーリッツは思わず笑い声をあげた。

「植物の品種改良は、時間がかかるのだよ。世代交代の早い品種なら、数年で目的にあったものが作り出せるだろう。だが数十年、数百年生きるものを創り出すには、それに見合った時間が必要なのだ。命を育むことのできない大地では特にな。まず、根づかせるための土から作りはじめねばならんのだから。まあ、向こうでワシができるのは、後に続く者たちのために下準備をしてやることぐらいだな。そう、先人たちがワシら――いまの研究者たちに、研究資料を残してくれたように」

 天王星の若き研究者たちは、将来モーリッツ・レンツ博士の遺産を受け継ぎ、新しい森を創るのだろう。

 ハズリットは不意に、自分がその一人でありたいという衝動に駈られた。恐らく彼女の代でも研究は完成しないだろう。だからこそ、博士の成そうとしていることを正しく理解し、次世代の研究者たちに伝える者が必要だ。

 自分がその役目を果たしたい。

 そんな思いに、少女は駈られた。

 もちろん〈旧市街〉を造り変えるという野望を捨てるつもりはない。両立できるかどうかなど判らなかったが、いまの衝動を抑えることができなかった。

 ハズリットは身を乗り出して、決意の言葉を放った。

「私……私が続けたい。続けさせて!」

「ハズリット?」

 驚いたように、レンツ夫妻が目を瞬かせる。

「私、〈ディムナ・フィン〉に進学するから一緒には行けないけど、卒業したら博士のところへ行く。足手まといにならないよう、必要な知識を全部身につけて行くから!」

 少女の宣言に、博士は目を和ませた。そして静かに言った。

「では、長生きせねばいかんな」

「うん!」

 ハズリットは席を蹴って博士のそばへ走り寄ると、彼の首にすがりついた。


 暖かなハフナー家の居間には、穏やかな時が流れていた。

 イブの晩餐を終えた者たちは、いまは絨毯の上に座り込み、それぞれゲームやおしゃべりに興じている。

 ハフナー中将のただ一人残された娘は、母親とお茶を飲みながら、中将とウィルによるチェスの勝負を観戦していた。また、彼女の息子であり中将の孫になる幼年学校と士官学校に通う二人の少年たちは、かつて〈竜の英雄〉と呼ばれたウィルの話を聞こうと、目を輝かせてその両脇を固めている。ただ一人、娘婿となるエルマン中佐だけが、当直とあって不在だった。

 ヴァルトラントも中将の傍らに寝そべり、勝負の行方を見守っていた。しかしその瞼はいまにもくっつきそうだ。

 昼間はテーマパークで思い切りはしゃぎ、夜は中将宅でハフナー家伝統の料理を頬張った上に、デザートのプディングを二つも食べたのだ。ほどよい疲れと満腹感が、少年を夢の国へと誘う。

「で、敵機に後ろをとられてどうなったの?」

 ウィルの披露する武勇伝に、中将の孫たちは興奮で頬を紅潮させて続きを急かした。

「そこで俺は――」

「こらっウィルっ! 真面目にやらんかっ」

 駒を放り出し手振りを使って説明しようとするウィルを、中将が叱咤する。

「真剣にやらんというのなら、エビネ准尉を儂の副官見習いにするっ」

「って、どーいう理屈だよ」

 唐突にチェスとは何の脈略もない話を持ち出す中将に、ウィルが口の中――といっても、充分他の者にも聞こえる声で、悪態をつく。中将を除く全員が、心の中でウィルに同意した。

 〈ワーム〉騒動の一件以来、エビネ准尉は中将のお気に入りだった。何かにつけて、彼は「エビネを自分の副官にしたい」とウィルや家族に洩らしている。今回のエビネ随行も、中将の意向によるものだ。

 まあ、ウィルもエビネ随行に関しては、別に構わなかった。ちょうど副官たちに休暇をとらせたいと思っていたところだ。エビネは本来、ロメスの副官見習いになるはずだった。隊付教育でも経験しているので、副官の仕事に関する最低限の知識もある。数日だけなら代わりをさせても問題はない。

 しかしホルヴァース曹長から彼謹製の「ヴィンツブラウト大佐副官の心得・全三巻」を授けられ、それを頭に叩き込むのに苦労していた准尉には、突然の代役は荷が重かったようだが。

「ウィル、准尉は実に有望な若者だと思わんか? だから、彼を〈森の精〉ヴァルトガイストの広報部で埋もれさすのは実に惜しい。彼ならいずれ統合作戦本部エウロパ入りも可能だろう。そのときカリスト司令本部副司令官の副官を務めていた経歴があれば、かなり優遇されるのだよ」

 したたかに飲んだワインのせいか、中将は管巻きモードに入ったようだ。据わった目でウィルを睨みつけ、自説を強調するように人差し指を振り回す。

「それはそうでしょうが」

 ウィルは困った顔で言葉を濁した。ハフナー家の面々も「わがままおじいちゃん」に苦笑いだ。

 酔い覚ましのコーヒーでも淹れに行ったのだろうか、さり気なくキッチンへ立ったハフナー夫人を横目で見遣ったウィルは、小さな溜息をついてから答える。

「実は、クローチェ軍曹に士官候補課程を受けさせたいと思ってまして。で、彼が抜けた後を、エビネ准尉に任せようかと考えています。まあ『准尉が望めば』の話ですが」

「准尉が父ちゃんの副官になるの?」

 思わずヴァルトラントは顔を上げた。眠気が一気に吹き飛ぶ。そんな話は初耳だ。聞き逃すわけにはいかない。

「すぐと言うわけじゃないけどな。准尉がいまの仕事に慣れてからだ」

 ウィルは息子に目をやると、軽く肯いた。〈森の精〉ヴァルトガイストだけでなく、軍の動きを俯瞰的に把握できる広報部にいることは、エビネにとってマイナスにはならないはずだ。突拍子もない「事故」が、却っていい結果になったといえる。

「それだと、ホルヴァースを首席に置くわけにはいかなくなるぞ。准尉の方が上官になる」

 中将が上官の顔になって意見する。

「ええ。しかし、これは曹長自身の提案です。クローチェを下士官のまま終わらせるのは惜しいし、立派な士官を育てるためなら自分はいまの地位にはこだわらない、と――」

 ホルヴァース曹長は〈森の精〉ヴァルトガイストへ来る前、士官学校の進路指導教官をしていた。冷静な判断力と人の資質を見抜く目に優れていた彼は、進路に迷う多くの生徒たちを適所へと導いた。

 ところが、皮肉にもその「目」が彼の人生を狂わせてしまったのである。

 教官だった四年前、彼はある有望な士官候補を期待で追い詰め、潰してしまった。別に「期待」といってもそう過剰なものでもなく、他の生徒たちに向けていたのとそう変わらないものだ。だが、その生徒はプレッシャーに耐えられなかった。

 そもそも肉体的には無論、精神的に弱い者に、軍人という職業は向いていない。その生徒にとって、その時点で退学したのは正解だった。だから上層部もそれを理解し、曹長を咎めることはなかった。

 しかしその生真面目さゆえに責任を感じた曹長は、士官学校の職を辞任してしまった。

 そして曹長の処遇に困った上層部は、とりあえず〈森の精〉ヴァルトガイストに彼を放り込んだのである。

 もし彼が教官を続けていたら、さらに多くの優秀な士官を世に送り出していたことだろう。

 その顛末を思い出し、ハフナー中将は呟いた。

「ホルヴァースこそ、下士官で終わらせるには惜しいな」

「だから曹長が准尉へ昇進できるよう、上に働きかけてはいるんですがね」

 とウィルは応えるが、なかなか思うようには取り計らってもらえないらしく、溜息とともに鼻にしわを寄せた。それに呼応して、中将も自嘲気味に口元を歪める。

「儂からも推挙してみよう。とはいえ、あまり当てにされても困るがな」

「ありがとうございます」

 ウィルは軽く頭を下げた。そこへ、会話の途切れる隙を見計らっていたヴァルトラントが呟く。

「でも曹長が昇進したら司令部付きになるから、〈森の精〉ヴァルトガイストにはいられなくなるんでしょ? それはやだな。曹長は怖いけど、〈森の精〉ヴァルトガイストには必要な人だよ」

 〈森の精〉ヴァルトガイストの行末を案じる息子に、ウィルが表情を和らげる。だが返す言葉は厳しい。

「だからって、曹長の働きに報いないわけにはいかないだろう?」

「そうだけどさー」

 納得いかないとばかりに、ヴァルトラントは口を尖らせる。そしてなおも反論しようと口を開きかけたとき、彼の携帯端末がメールの着信を告げた。

「もうっ!」

 出鼻をくじかれた少年は、軽く舌打ちすると手許に置いていた携帯端末を覗き込んだ。差出人の名前と件名を見て、ピクリと眉を動かす。

 ミルフィーユからのメールだった。タイトルには「例のアレ」とある。きっとラムレイ家の端末で見つかった〈木馬トロイ〉についてのことだろう。相棒は出発前に約束したことを忘れていなかったらしい。

 さっそくメールを開いてみる。

 予想どおり、ガニメデにおけるディスクリート一家の様子に続いて、〈木馬トロイ〉の分析結果が記されていた。

 少年は興味深くそのレポートを読み進めた。ところが進むにつれ、少年の目は驚きに見開かれていく。

「そんな――」

 最後の一文まで読み終えたヴァルトラントは、うわ言のようにひとこと呟き、そのまま茫然と画面を見つめた。

「ヴァルトラント、どーした?」

 息子の変化に気づいたウィルが、怪訝な顔をする。

「父ちゃん……」

 ヴァルトラントは我に返ると、硬い表情をウィルに向け端末を差し出した。

「――?」

 軽く首を傾げながら、ウィルは端末を受け取った。しかしざっと目を通すと、息子と同じく顔を強張らせた。

「これは――」

 絶句したウィルは、戸惑ったように視線を数秒宙に彷徨わせる。そしてもう一度端末を覗き込むと、誤読を恐れるかのように一文一文を念入りに読み返した。何度読んでも間違いでないと納得できて、ようやく端末から目を離す。

「中将」

 〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は険しい表情で、中将に目配せした。

「場所を変えよう」

 中将は肯くと、おもむろに立ち上がった。何がヴィンツブラウト親子を驚愕させたのか彼には判らなかったが、ただならぬ事態が起こったのだということは判った。ウィルとヴァルトラントを自分の書斎へ招く。

「どうやら例の〈ワーム〉は、まだ完全に駆除できていないようです」

 書斎の扉が閉まるなり、ウィルが切り出した。

「どういうことだ? 亜種でも出たのか?」

 ヴィンツブラウト父子を交互に見ながら、カリスト司令本部副司令官は眉を顰めた。

「まあ手っ取り早く言うと、そーいうことかな。でも、もっと性質たちが悪いよ」

 父親に代わって、ヴァルトラントが答えた。事の発端を知る者の務めだ。

 少年はまず簡単に、この〈木馬トロイ〉を発見した経緯を説明した。どこで発見したのかを明かすのは少しためらわれたが、事が事だけに知ってることは洗いざらいぶちまけた。もちろん少女の秘密だけは、なんとか伏せた。もし、ウィルがすでにレンツ少佐から少女の秘密を聞いていたと知っていたら話はもっと早かったのだが、少年には知る由もない。

「というわけで、まあ――たまたまミルフィーが見つけたこの〈木馬トロイ〉は、特定の〈鍵〉を与えると、〈機構軍〉システムと〈ユニバーサルネットワーク〉の基幹サーバにばら撒かれた〈亜種ワーム〉の起爆スイッチになるらしいんだよ」

 スイッチを入れられた〈亜種ワーム〉は、論理爆弾と化して各システムの基幹サーバを一斉に襲う。基幹サーバが同時に落ちると、生命維持機構を含む全ての機能が止まり、カリストは壊滅の危機に瀕する。いや感染の具合によっては、時間差はあれ、被害は〈機構〉世界全域に及ぶだろう。

「ようやく駆除したと思えば、早々に再感染かよ。こちらがいくら対策を練っても、後手後手ということか」

 終わりなきイタチごっこに、ウィルは口元を歪めた。

「だが、放っておくわけにもいくまい。とにかく発見されたものだけでも封じないと」

 そう言うと同時に、中将は動いていた。ヴィンツブラウト親子も中将に従って書斎を出る。これからカリスト司令本部へ赴き、対策に取りかからなくてはならない。

 上着を取りに居間へ戻る途中、ヴァルトラントはウィルを見上げて訊いた。

「それはそうと、ハズのお母さん、ロメス少佐のときみたいに、犯人だと疑われたりしないかなぁ?」

 それだけが心配だった。母親が拘束されるようなことになれば、少女はどれだけ傷つくだろう。そしてシステムを守るためだとはいえ、そうなる原因をもたらしたのは自分だ。きっと口もきいてくれなくなるに違いない。せっかく話ができるようになったのに、そうなるのは悲しかった。

 ウィルは息子の胸の痛みに気づいているのか、優しくヴァルトラントを見つめ返した。だが、やはり気休めを言うことはない。

「それはなんとも言えんな。全ての事態を想定しておく必要があるのは理解わかるだろう、ヴァルトラント?」

「……うん」

 ヴァルトラントは力なく肯いた。

 〈機構軍〉内に敵が紛れ込んでいるらしいことは、先の〈ワーム〉騒動で明らかになったばかりだ。そして内通者はまだ発見されていない。その身が潔白であるという証拠が見つからないうちは、少女の母親は査問と監視の対象になるだろう。

 だが内偵は確かに、そして慎重に行われているという。少年は、警務隊が間違わずにきちんと任務を果たしてくれることを祈った。

 と、唐突に――。

「いてっ!」

 不安げに眉根を寄せるヴァルトラントの頭を、ウィルが小突いた。声の調子をお茶らけたものに変えて言う。

「ったく、とんでもない〈聖夜〉の贈物をしてくれたな、この〈グレムリン〉!」

 これ以上自分が落ち込まないよう、ウィルは気を遣ってくれているのだ。それを感じとったヴァルトラントは、苦虫を噛み潰したような顔の父に、硬さは残っていたが、なんとか笑顔を返した。

 イブの夜は更け、まもなく〈聖なる夜〉の一日が始まろうとしていた。


 自室で横になっていたレイは、端末の発した警告音で身体を起こした。朝のシステムチェックには一時間ほど早い。何か不具合でも起こしたのか。

 素早く端末に取りつき、モニタをスリープモードから復帰させる。すると瞬時にモニタがエラー表示で埋めつくされた。警告文は、読み取るのも困難な速さで流れていく。

 青年は反射的にモニタの自動スクロールを止めた。読み取れるようになった画面を見て、ようやく端末が悲鳴をあげた理由を知った。

 カリストにある各ネットワークの基幹サーバには、改良型の〈ワーム〉を潜ませている。その〈ワーム〉からの反応が、次々途絶えていくところだった。どうやらまた〈機構軍〉に嗅ぎつけられたらしい。

「ちっ、見つかったか!」

 レイは舌打ちすると、即座にキーを叩きはじめた。踏み台として使っている端末に潜伏させている〈木馬トロイ〉を、一切の痕跡なく消去しなくてはならない。

 この〈木馬トロイ〉は、定期的に〈ワーム〉の動きをチェックしている。そう簡単には追跡されることはないはずだが、念を入れておくに越したことはない。もし〈木馬トロイ〉を潜伏させた端末が特定されると、芋蔓式に「生きた〈木馬トロイ〉」まで暴かれかねない。それは〈機構〉に敵対する勢力である彼らにとって、大きな痛手となる。

 レイが活動停止と消滅プロセスの実行を命令すると、〈木馬トロイ〉は順に自爆していった。全ての〈木馬トロイ〉は、ものの数秒で消え失せる――はずだった。なのに。

 一つだけ活動を止めない〈木馬トロイ〉がいた。何度かコマンドを打ち込むが、それには全く反応せず、相変わらず収集したデータを送って寄越す。

「これか」

 どうやら自分は、相手を見くびっていたようだ。それなりに用心し、巧く姿を隠していたつもりだったが、まんまとしてやられた。

 もちろん〈木馬トロイ〉に気づいたのは、端末の持ち主である「彼女」ではないだろう。彼女はそれほどコンピュータには精通していないはずだ。そしてその娘も同じく。

 となると、この母子に近い人間でコンピュータに詳しい者といえば、彼女の同僚か、もしくは娘の級友たちぐらいか。

 そこまで考えてレイは悟った。

 〈グレムリン〉だ。もし彼女の同僚たちなら、〈ワーム〉を片づけるより先に「我々を」片づけにくるはずだ。

 それに少年たちには、一ヶ月前に〈ワーム〉と〈分裂する惑星間通信パケット〉を発見されている。今回もこちらの想像を越える方法で、〈木馬トロイ〉を見つけたのかもしれない。そしてこちらの目をかいくぐって、〈木馬トロイ〉を自分の支配下に置けるよう細工した。さらにデータを分析して〈ワーム〉を発見し、〈機構軍〉に対策をとらせたのだろう。

「潮時か――」

 レイは唇を噛んだ。何にせよ、自分と張り合えるスキルを持った者が〈機構軍〉にいるのだ。この隠れ家を突き止められるのも、時間の問題だろう。複数の踏み台を経由させてはいるが、〈木馬トロイ〉が乗っ取られてしまえば無意味である。

 少女を手に入れることは難しくなったが、まずは自分たちの安全が第一だ。少女は、居所さえ把握しておけばどうとでもなるし、〈教授〉側が何か手を打つだろう。今回は相棒の集めてきた子供たちだけで良しとするしかない。

 決断は早かった。レイは端末をネットワークから遮断し、蓄積されたデータのバックアップを自分の携帯端末に落とした。そして記憶装置を消去して筐体から取りはずす。さらにそれも分解すると記憶媒体を剥き出しにし、腐食スプレーをかけた。敵にデータは渡せない。復元されないよう、読み取れない状態にしておかなくてはならなかった。

 そして携帯端末と溶けかかった記憶媒体を手に、部屋を出る。

「マルコ!」

 隣のリビングのソファでは、いつものようにマルコ少年がだらしなく寝そべっていた。

 マルコはレイの声に目を覚ますと、寝起きのとろんとした目を彼に向けた。

「起きろ!」

 レイは反応の鈍いマルコの胸倉を掴むと、乱暴に引っ張り起こした。

「いますぐ〈フェンガー〉を捜しにいくんだ。そして『撤退する』と伝えろ」

「え、なんで?」

 呆けた顔で聞き返すマルコに、レイは鋭く言う。

「怖い連中が俺たちを捕まえに来る。だからその前に逃げるんだ。死にたくないだろうっ!?」

 マルコが事態を把握するのに数秒かかった。それでも自分の身が危ういのだと理解すると、行動は早い。拾われる前は、〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトの下町で毎日のように警官と鬼ごっこをしていたのだ。官憲に捕まれば酷い目に遭う――それは身をもって知っている。

 必要なものを引っ掴んで玄関へ向かったマルコは、ドアを開ける前に振り返った。

「あんたはどうするんだよ、レイ?」

「いろいろ後始末しなきゃならないことがある。後から追いかける」

 レイは答えると、追い払うように手を振った。少年が飛び出していく。それを確認して、自分も身支度を整える。といっても各地を転々としている彼だ。荷物らしい荷物は、ほとんどない。

 荷物を作り終えると、部屋に踏み込んできた連中を混乱させるための簡単なトラップを仕掛ける。そして最後の仕上げに、腐食させた記憶媒体の残骸をレンジに放り込み、スイッチを入れた。ここまでやれば、執念深い〈機構軍〉の鑑識もそう簡単には復元はできまい。

 レンジの中で、融けた金属片がバチバチと火花を散らす。このまま放っておけば、ほどなく火災になるだろう。平日ならば、周辺の住民は仕事や学校に出かけている時間だ。だが〈聖夜〉の今日、人々は家族とともに我家で過ごしている。多くの死傷者が出るだろうことは、容易に想像できた。

 だがそれがどうした。もともと衛星規模のテロを行うつもりだったのだ。地方の、さらに小さな地区が焼けるぐらい、どうってことは――ない。

 レイは自分にそう言い聞かせ、半年過ごしたアパートを後にした。

 周囲に怪しい姿がないことを確認して歩きはじめる。目指すは〈旧市街〉の小さなアパート。待ち伏せされている危険は充分にある。

 だが、残った〈木馬トロイ〉は始末しなければならなかった。


 一方先に逃げ出したマルコは、〈フェンガー〉を捜して〈ヴァルトマイスター〉を駆け回っていた。心当たりをしらみつぶしに当たっていくが、なかなか〈フェンガー〉は見つからない。とうとう〈北部〉までやってきたが、それでも見つけることはできなかった。

 〈フェンガー〉の行動範囲は広い。そういえば一昨日から姿が見えなかったので、〈ヴァルトマイスター〉にいない可能性もある。

 マルコは途方に暮れた。彼がいなければ、自分はどこへ向かえばいいのか分からない。

 見捨てられたくはなかった。以前のゴミを漁るような生活に戻るのは嫌だ。

 自分には盗みしかできることはない。頭も悪いし、他のことは何をやってもヘマばかりだ。それは自覚している。だからこそ、新天地で違う自分になりたい。

 何としてでも、見つけ出さなくてはならない。見つけ出してやる。絶対に彼らから離れるものか。〈フェンガー〉は自分に「変えてやる」と言った。その言葉を反故にはさせない。

 拾われてからも変わらなかった自分は顧みず、マルコはただ一つの思いに憑かれた。

 彼は物陰に入ると、ポケットから自分の携帯端末を取り出した。ジャンク屋でくすねた〈JEC〉社の古い製品だ。壊れかけているが、ネットワークへの接続といくつかの機能だけはなんとか使える。

 少年は端末を見つめて逡巡した。〈フェンガー〉はこちらから連絡をとることを極端に嫌う。迂闊に呼び出せば、また殴られるかもしれない。

 いや、しかしいまは非常事態だ。危険を知らせてくれた者を、彼もそんなには怒らないだろう。

 いいわけじみた考えで自分をごまかし、マルコは履歴を呼び出した。無視されるかもしれないメールではなく、通話モードにしてアクセスする。

 呼び出し中の表示が出る。が、〈フェンガー〉は出ない。それどころか、そのまま切られた。

 無視されたマルコはムキになった。すぐさま端末を「追跡モード」に切り替える。このモデルの売りは、相手の居場所が特定できるというものだ。いわゆる、小さな子供や少々方向感覚が覚束なくなった老人のいる家庭の御用達アイテムである。普通は子機の在り処しか探し出せないが、レイがプログラムを弄って他の携帯端末もスキャンできるようにしてくれた。

 端末はカリストGPSに接続し、さっき呼び出した端末をスキャンする。

 ものの数秒で場所は特定された。

 画面には〈南部〉の地図が映し出され、ある一角がポイントされている。その辺りは歓楽街で、安宿が密集している地域だ。

「なんだ、朝からお楽しみの最中かよ」

 下卑た笑いを浮かべながら、マルコは物陰を出た。そして駅へと歩きはじめる。彼の十数メートル後を、目つきの鋭い男が尾けているのにも気づかずに。


 リディアは〈南部〉近郊に用意した部屋で待機していた。その彼女のもとに「〈笛吹き男〉ラッテンフェンガーを捜し回っている少年がいる」という情報が入ったのは、朝の九時ごろだ。現在少年には、ジェイクの部下が張りついている。

 またそれと同時に、マルティネス地区で火災が発生したという情報も入った。

 マルティネス地区に近い〈南駅〉周辺は、爆発を伴う火災にちょっとした恐慌状態になっているという。

 延焼を防ぐために、火災の発生した付近の地下街は閉鎖される。また地上でも通行規制が行われるため、地下から逃げようとする者と野次馬で一帯はごった返す。その混乱が、人で賑わう駅にまで及んだのだ。

 さらにパニックに陥った人々は、広い場所を求めて普段足を踏み入れることのない〈旧市街〉まで入り込んだ。救急隊や警察も、慌てて彼らを追って〈旧市街〉へと走った。

 騒動の引き金を引いたのは、ジェイクのチームだった。

 〈機構軍〉の情報分析官たちは、苦労の末、〈分裂する惑星間通信パケット〉に含まれていたメールの一つがマルティネス地区に辿り着くことを掴んだ。そこが、奴や〈笛吹き男〉ラッテンフェンガーの根城になっている可能性は高い。

 その情報をもとに、ジェイクたちは動いた。そして――。

「部下が踏み込んだときには、部屋の一角がもう燃えていたようだ。消火活動しながら、なんとか手がかりになりそうなものを探していると、突然端末の残骸が爆発したんだ」

 現場から撤収してきたジェイクが、リディアに告げた。

「ロベルトを死なせちまった……」

 部下の一人を失い、リディアの同僚は悔しさに唇を噛んだ。

 リディアは慰めるように、軽くジェイクの肩を叩く。

「悲しむのは逃げた奴らを捜し出し、始末してからだよ。逃げられでもしたら、ロベルトに祟られちまうよ」

「そうだな……」

 軽口を叩いて発破をかけるリディアに、ジェイクはわずかに笑みを返した。

「しかし、カリスト司令本部の連中も、タイミングが悪いったらないね。もうちょい〈害虫駆除〉を待ってくれればよかったのに」

 リディアは憎々しげに悪態をついた。司令本部が〈亜種ワーム〉に手を出さなければ、奴にこちらの動きを感づかれることもなかったのだ。まあ司令本部にしてみれば、独自で作戦を展開するリディアたちの動きなど知らなかったのだから、そんなことを言われても困るのだが。

「それでも連中の仲間らしい小僧が見つかったんだ。そいつを追ってれば、本命に辿り着けるさ」

 今度はジェイクがリディアを励ました。そこへ彼の部下が声をかける。

「〈イェーガー〉、小僧がどこかへ連絡しようとしたようです」

追跡トレース!」

 〈狩人〉イェーガーと呼ばれたジェイクは、ひとこと鋭く叫んだ。部下はすぐさま端末に向き直る。

 数分後、彼は上官を振り返って報告した。

「相手は〈南部〉の〈魔笛〉というホテルにいるようです」

「花街だね。まあ、呑気なことで」

 ジェイクより早くリディアが応える。そして「行くよ」と自分の部下に声をかけ、部屋を飛び出した。ジェイクも無傷の部下とともにその後を追う。

 〈魔笛〉は、ここからだと駅を挟んだ向こうになる。急がなければ、また逃げられる。

 リディアはじわじわと押し寄せる焦りを払いながら、混乱する〈南部〉の街を駆けた。

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