第五章 少女は聖なる樹を欲す

第五章 少女は聖なる樹を欲す -1-

 〈森の精〉ヴァルトガイストに夜明けが近づいていた。

 とはいえ、陽の光が直接基地に届くにはまだ八時間ほど早い。しかし一週間に渡って〈森の精〉ヴァルトガイストの空を覆っていた星空は、数時間前から始まっていた明けの〈逢魔がとき〉によって、徐々に蒼穹へと塗り替えられようとしている。

 〈望〉となるいまが一番明るい木星は、相変わらずクレーターの西側にあり、連なる稜線にその雄大な姿を半分隠されていてもなお、煌々と〈森の精〉ヴァルトガイストを照らしていた。

 木星のすぐ近くには、沈みゆく恒星に逆らって昇るガニメデと、一旦は昇りつめ再び降りてこようとするエウロパが、足早に駆け抜けてゆこうとしている。カリストの自転に合わせた恒星たちの蟻の歩みのような動きとは対照に、衛星たちの動きは素早く目まぐるしい。

 そんな星々の動きに比べるとちっぽけなものだが、〈森の精〉ヴァルトガイストにおいても、隊員たちが午前のフライトに備えて忙しなく駆け回っていた。

 交差する二本の滑走路のうち、東西に伸びるA滑走路では、訓練飛行隊〈花組〉の各機が次々と離陸していく。

 一方、南北に走るB滑走路の北端に敷設された大型機専用駐機場では、〈アッシェンブレーデル〉型の小型輸送機〈回転する鍋〉ミス・ロールパンが白い機体を横たえ、グランドクルーたちの手によって目覚めようとしていた。

 〈回転する鍋〉は〈無限の森〉エーヴィヒヴァルトへの定期便である。〈ラプンツェル〉型の大型輸送機〈空飛ぶ鍋〉ミスター・フライパンとともに、〈森の精〉ヴァルトガイストへの補給物資を運ぶのが主な任務だ。だが今日の「彼女」は、その任務に加え、ガニメデへ旅立とうとする兵站群司令官父子を宇宙港〈ムニン〉へ送り届けるという大役を仰せつかっていた。

「ふぁぁ」

 輸送機専用格納庫の二階にある休憩室で、ミルフィーユ少年が大きなあくびをした。〈回転する鍋〉の出発準備が整うまでの時間を待っている彼は、庫内を展望できる窓際に陣取って、目をショボつかせながら明日のフライトを控えた〈空飛ぶ鍋〉の整備風景を眺めていた。

 タイミングよくその瞬間を目撃したヴァルトラントは、思わず失笑を洩らした。笑いを堪えながら、部屋の隅に置かれたワゴンから調達してきた飲み物を差し出して声をかける。

「眠そうだな」

「夕べ寝たの遅かったからね」

 そう答えたミルフィーユは、受け取ったカップの熱さに顔をしかめた。だがカップの中身を一口含むと、満足そうに口元を緩めた。親友の作ったカプチーノは、彼好みに甘かった。

 一方ヴァルトラントは、幸せそうに息を吐く相棒の返事に眉を顰めた。翌朝が早いと判っていたはずなのに、どうして夜更かしなんかしたのだろう。

「なんでまた?」

 単刀直入に聞き返す。

 すると、金髪の少年は覗き込むようにしていた大きなカップから顔を上げ、ヴァルトラントにもっと近づくよう手招きした。と同時に素早く首を巡らし、周囲の様子を確かめる。

 部屋の主である整備士たちは〈空飛ぶ鍋〉の整備に出払い、部屋にいるのは二組の父子だけだ。中央にあるテーブルでは、父親のイザークがまだ眠っている弟を抱えて、見送りに来たウィルと話し込んでいる。二人とも難しい顔をしているところを見ると、なにやら深刻な会話なのだろう。しばらくこちらに注意が向くことはなさそうだ。

 そう判断したミルフィーユは、声を潜めると、顔を寄せてきた親友に囁いた。

「ハズのアパートのプロキシサーバに〈蜘蛛スパイダー〉と〈木馬トロイ〉を仕込んで、ハズんちの端末がホントに〈機構軍〉システムに繋がるのか調べてたんだ」

「――!」

 ヴァルトラントは大きな杏仁形の目を見開き、五年来の相棒をまじまじと見つめた。ミルフィーユはミルフィーユなりに、リディアに対して何か引っかかるものがあったようだ。

 たっぷりの間をおき、ようやくヴァルトラントは言葉を返す。

「で、どうだった?」

「それがさ――」

 ミルフィーユは真顔で報告を始める。

「スパイ映画見すぎのヴァルの妄想どおり、ハズんちの端末は〈機構軍〉システムに繋がるようになってたよ」

「妄想って……」

 自分なりに大真面目に行った推理を妄想と言われ、ヴァルトラントは傷ついて肩を落とした。だがミルフィーユは彼の反応を無視して報告を続ける

「つまり、彼女のアパートにあるプロキシサーバで、住人のIDが選別フィルタリングされてたんだ。そこで選別された特定のIDだけが、いくつかの偽装サーバを経由して〈機構軍〉システムの回線に繋がるようになってるってわけ」

「そうなんだ」

 ヴァルトラントは感嘆の声をあげた。しかし内心では、さほど驚いていない。

 さもあらん。リディアは〈機構軍〉の一員だ。その事実を知ってしまったいま、彼女の端末が〈機構軍〉システムに繋がるのは、もはや不思議でも何でもない。

「で、何でIDのフィルタリングなんかされてるか、なんだけど……」

 ミルフィーユは一旦言葉を切ると、探るようにヴァルトラントの目を覗き込んだ。しかし親友の反応を待たずに続ける。

「アパートの住人に、〈機構軍〉関係者――それも素性を隠す必要のある人がいるんじゃないかな。で、たぶんハズは、その人のIDを偶然だか故意にだかは知らないけど手に入れて、〈機構軍〉システムにアクセスしたんだよ」

「勿体ぶるなよ。どの部屋の端末なのか判ってんだろ」

 セピアの髪の少年が軽く口の端をもたげて言うと、金髪の少年は「まあね」と自嘲めいた笑みを返した。

 ヴァルトラントは、一昨日の夜の〈インプラント〉を持つ者だけの密かなやりとりと、そしてそこから導き出した彼の推理を、まだ相棒に話していなかった。だがミルフィーユは自力で同じ考えに至ったようだ。

 それを確認するため、ヴァルトラントはもう一度訊く。

「どこだと思う?」

 部屋のことではない。そのIDが発行された部署だ。

 ヴァルトラントはわざとぼかしたが、ミルフィーユはちゃんと理解してくれた。少し表情を硬くして答える。

「〈オーディンの鴉〉かな」

 オーディンの二羽の大鴉は、世界中を飛び回り、見聞きしたことを逐一主人に報告する。相棒はリディアの所属するであろう部署をそれになぞらえた。

 我が意を得たとばかりに、ヴァルトラントはうなづく。

 親友の答えと一致したと判り、ミルフィーユもほっとしたようにうなづき返した。

「例のファイルの残りを見れば、はっきり判るんだろうけど」

「僕もそれは思ったんだよ。でも、夕べは端末攻略で手一杯だったからなぁ」

 ミルフィーユは昨夜の苦労を思い出し、苦々しく口元を歪めた。

「なんせその端末、壁が頑丈なんだもん。入れそうなところを探すんだけど、全然隙がなくてさ。どうしようか頭を悩ませてるところへ、ちょうどぽっかり穴が開いたんだ。『ラッキー!』とばかりに飛び込んだのはいいんだけど、入ってみてビックリ。知らない〈木馬トロイ〉がいるんだもん」

「マジかよ!?」

 ヴァルトラントが眉を跳ね上げた。その〈木馬トロイ〉が〈ユニバーサルネットワーク〉に蔓延する不正プログラムマルウェアのことなら、相棒は「知らない〈木馬トロイ〉」などと表現すまい。

「どうやら、たまたまそいつが押さえていた〈裏口〉が開いたみたいでさ」

 ミルフィーユは苦笑した。

「で、どこかに向けて端末のデータを送ってるようなんで、ちょっと追跡してみたんだ。ところが、途中で撒かれちゃったんだよね。で、その撒き方がなんていうか……」

 言いにくそうに、ミルフィーユは口ごもった。しかし親友に無言で続きを促されると、一つ深呼吸してから思い切って吐き出す。

「あの例の〈ワーム〉の動きに似てるんだよねぇ」

 ヴァルトラント頬から赤味が失せた。眉間に険しいしわが刻まれる。だが、彼はわずかに首を傾げただけで、この件についてのコメントは控えた。動きが似ているというだけで判断するのは危険だ。それを承知していたから、相棒もためらったのだろう。

「プログラム自体をコピってあるから、それを分析すればある程度は判ると思うよ。ハズんちに潜んでるやつは、どんな仕掛けがあるのかよく判らなかったので、微妙に違う情報を吐き出すようにだけしといたんだけど……まずかったかなぁ」

「いや、それでいいと思うよ」

 正しいという自信はなかったが、ヴァルトラントはミルフィーユのとった処置を支持した。リディアが何か行動を起こそうとしているいま、怪しげなプログラムを駆除してしまうのも放置しておくのもよくない気がした。

「分析できたら連絡するね」

 ヴァルトラントの不安をよそに、ミルフィーユが言う。わずかに声が弾んでいるのは、気のせいではあるまい。衛星の位置関係によって航宙時間は変わるが、今日出発するとガニメデまでは一日半だ。丁度いい暇つぶしのタネができたと、ミルフィーユは内心ほくほくなのだろう。

「楽しみにしてるよ」

 手強いパズルに挑戦するのが楽しそうな少年に、ヴァルトラントは苦笑しながらうなづいた。

「失礼します」

 そこへ、若い整備士が戸口から顔を覗かせた。彼はウィルたちのそばへ歩み寄ると、出発の準備が整ったことを告げた。

「ミルフィー、行くぞ」

 イザークが息子に声をかける。

「はーい」

 〈グレムリン〉たちは、それぞれの親のもとへと駆け寄った。

 イザークはいそいそと立ち上がり、荷物と一緒に置いてあった防寒着を拾い上げている。一方ウィルは座ったままだ。

 基地司令官はふて腐れた顔で同僚の様子を眺めていたが、やがて堪えきれなくなったようにボソリと洩らした。

「本当に行くのか、薄情者」

「俺は基地の平穏より、家族の団欒の方が大事だ!」

 ぐずるバルケットに防寒着を着せながら、イザークはウィルの非難を撥ねつけた。

「どしたの?」

 ただならぬ様子の父親たちに、〈グレムリン〉たちは眉を顰めた。突っつくと暴発しそうなウィルではなく、イザークに説明を求める。

「俺たちが揃って基地を空けるのが心配なんだとさ。明日から数日、経理部長と総務主任の天下だからな」

「そ、それは……」

「確かに怖いね」

 父親たちの危惧を知って、息子たちも顔をひきつらせた。

 この〈森の精〉ヴァルトガイストにおいて、影の支配者と言えるブライアー中佐とバーバラ大尉を抑えられる者など、いないに等しい。ウィルやイザークは、司令官という立場によってなんとか彼らに睨みを利かせることができているに過ぎず、その彼らが不在となれば、影の支配者たちはここぞとばかりに基地の「改革」を実行してくれるだろう。

 この〈森の精〉ヴァルトガイストを、〈機構軍〉の模範たらんとする「勤勉で秩序ある基地」に。

 そう願う彼らの気持ちは理解わからなくもない。だが大半をいわゆる「規格外」の隊員で構成されている〈森の精〉ヴァルトガイストにとって、彼らのやる気を殺ぐような「改革」は逆効果であるとウィルは考えていた。

「しかも、今回はロメスが総務部長代理として加わったからな。連中にとって大幅な戦力アップだ。帰ってきたとき、〈森の精〉ヴァルトガイスト航空隊は無くなってるかもしれんぞ」

 忌々しげにウィルが吐き出す。そんな父にヴァルトラントは言った。

「でもロメス少佐は、こっちの足は引っ張らないって約束したじゃん」

「あの保身に必死な小心の口先男が、そんなことをきちんと守ると思ってるのか?」

「……思いません」

 ウィルの個人的感情を考慮してもなお的確な評価に、ヴァルトラントは何も言い返せなかった。何しろ赴任してきたロメスの初仕事は、経理部長へのおべっかと総務部主任ミス・バーバラの懐柔だったのだから。

 バーバラ大尉は微妙だが、影の支配者であるブライアー中佐は曲がったことが嫌いなため、ロメスのような根性の捩じれた人間は相手にしないだろう。だが自分の利になることにだけは知恵の働くロメスは、中佐たちの望む改革を自分のいいように利用しかねない。

「支援群司令のハーマン大佐は経理部長に頭が上がらないし、広報部長マックス一人ではあしらい切れんだろう。やっぱアダルがいないのは痛いな」

 横目でウィルを窺いながら、髭の男は呟いた。発言以上の意味が込められた視線に、基地司令官は精悍な顔を歪めて唸るのみ。

 そんな司令官の苦悩を知ってか知らずか、イザーク父子を迎えにきた整備士が呑気な声をあげた。

「少佐なら、さきほど〈ティターニア〉の格納庫ハンガーにいらっしゃいましたよ?」

「何っ!?」

 司令官たちは俄かに顔色を変えると、一斉に発言者を振り返った。睨まれた下っぱ整備士は、何かまずいことでも言ったかと震え上がる。だがウィルたちはただ反射的に声の主を確認しただけであり、それ以上何も言わず、転がるように部屋を飛び出していった。

「あのー、〈回転する鍋〉が待ってるんですけどぉ」

 上官たちの消えた入口に向かって、整備士は力なく呟いた。そんな彼に、〈グレムリン〉は助言する。

「伍長、出発はちょっと遅らせた方がいいかもよ」

「う、ブリューワー大尉に殺される」

 半泣きになって伍長は言った。時間にうるさい機長を思い浮かべた少年たちは、苦笑しながら震えている伍長の背中を叩く。

「とりあえず、追っかけよう」

 バルケットを含むイザークの残していった荷物を手に、〈グレムリン〉と伍長は司令官たちの後を追った。

 休憩室を出てすぐ右手にある階段を下りる。階段の中ほど、折返しとなる踊り場に差しかかったとき、父親たちの声に混じって階下から聞き慣れたテノールが聞こえてきた。少佐の声だ。

 一週間ぶりの少佐に、少年たちは顔を輝かせた。早く顔を見ようと、一気に駆け下りようとする。が――。

「結局、別れることになりました」

 唐突に飛び込んできた台詞に、足を止めた。目を丸くして顔を見合わせる。

「そうか」

 重い声でウィルが応えた。階段に背を向けているため顔は見えなかったが、苦い表情なのは間違いないだろう。

「充分に話し合った結果というなら、俺はもう口出ししない」

「ご心配をおかけしました。もう任務に支障を来たすことはありません」

 静かだが、力強い声でアダルは言った。

 ヴァルトラントは彼らが何について話しているのかを悟り、言葉を失った。愕然と師匠の顔を見下ろす。その気配に気づいたのか、アダルがつと視線を上げた。

 少年の姿を認めたアダルの目に動揺が走る。だが、それはすぐに穏やかな笑みにかき消された。

「やあ、ヴァルティ。このあいだは本当にごめん」

 真摯な目を幼い愛弟子に据えたまま、師匠は詫びた。それに対して、弟子は大きく頭を振った。

 アダルが自分を殴ったこと、そんなことはどうでもよかった。彼の選んだ答えが納得できないだけだ。

「どうして――」

 かすれた呟きが少年の口から洩れる。次の瞬間、放たれた矢のようにヴァルトラントは残りの階段を飛び降りていた。ウィルを押し退け、アダルの前に立つ。ぐいと顔を上げると、抑えのきかなくなった苛立ちを師匠にぶつけた。

「どうしてっ? マリーアが他の男の人といたから?」

「――!」

 ヴァルトラントの指摘に、アダルの端整な顔が強張る。いやアダルだけでなく、その場にいる者の目が驚きに見開かれた。〈グレムリン〉たちには、アダルの家庭事情は知らされていないはずだ。

「ヴァルティ、何で……」

 狼狽を隠し切れないのか、アダルの声が震えた。

 息を呑む者たちに、ヴァルトラントは発言の根拠を説明する。

「ハズを初めて送っていった夜、たまたま見ちゃったんだ。マリーアが知らない男の人とレストランから出てくるのを」

「……ああ」

 ヴァルトラントの言葉を数十秒かけて呑み込んだアダルは、ふっと全身の力を抜いた。弟子が妻の浮気を知ったのは誰のせいでもない。しいていえば、神のいたずらか。

 そう理解したアダルは元の穏やかな表情を取り戻し、わずかに愁いを帯びた笑みを浮かべた。

 だがヴァルトラントの表情は厳しいままだ。少年は容赦なく師匠を糾弾する。

「アダルは、マリーアが嫌いになっちゃったの? だから、だから……」

 ヴァルトラントは最後まで言うのを恐れた。それは子供にとって軽々しく口にしていい言葉ではない。

「嫌いになったわけじゃないよ」

 アダルはゆっくりと首を横に振る。

「じゃあ、マリーアがアダルを嫌いになったの?」

「それもちょっと違う。僕が彼女に気持ちを押しつけ過ぎたから、彼女は息が詰まってしまったんだ。彼女は息の継げるところを求めただけ」

「……よく理解わからないよ」

 ヴァルトラントは顔をしかめた。好きだと思われることが、どうして負担になるのだろう。

 巧く説明できず、アダルは困った顔になる。そこへウィルが助け舟を出した。よく通るバリトンの声で、息子に語りかける。

「人とのつきあいは、バランス――飛行機の翼と同じだ。一方に負荷がかかれば真っ直ぐ飛ばないだろう? そしてそのまま負荷をかけ続ければ、やがて失速し、墜落する」

 父親の言葉に耳を傾けていた少年は、その意味をじっくりと考えてから答えた。

「つまり、マリーアの方の翼に負荷がかかりすぎたので、失速してしまったってこと?」

「そうなるな」

 飛行機を愛する少年はようやく納得いったようにうなづいた。が、ふと首を傾げた。

「計器が見えないのに、どうやって姿勢が傾いてるって判るの?」

 子供らしい質問に、ウィルの目が和んだ。

「それはまあ、経験と勘だな。たくさんの人とつきあって、いろんな失敗を重ねていくうちに、どうすればバランスを保てるのか判るようになる」

「僕はまだまだ経験不足だったってわけだね」

 苦い顔でアダルが肩をすくめた。まだ完全に「以前の彼」というわけではなかったが、それなりに吹っ切れたような瞳の色に、ヴァルトラントは少し安堵した。

「それを言うと、俺んとこは安泰だな。はははっ」

 重い空気を入れ替えようとしてか、イザークが能天気に笑い飛ばす。だが息子の方は、父ほど楽観していなかった。

「でも、もう出発しないとヤバいと思うよ!」

「なぬっ!?」

 ミルフィーユの悲鳴に、イザークは頬をひきつらせた。さらに手許の時計を確認して血相を変える。

 〈回転する鍋〉は待ってくれても、ガニメデ行きの定期便は待ってくれない。乗り遅れるようなことになれば、向こうで待つコリーンの頭に角が生えるだろう。

「すまんっ、安泰じゃなくなりそうだっ」

 そう言うと、イザークはバルケットを抱えた伍長とミルフィーユを引き連れ、バタバタと駐機場へ駆け去っていった。

 後に残った者たちは、苦笑でもって彼らの慌しい出発を見送った。


 夜明けは〈森の精〉ヴァルトガイストより一足早く、〈ヴァルトマイスター〉に訪れていた。

 東の空が黄金色に輝きはじめると、〈夜〉のあいだ締め切られていた地上部の扉が開閉を許される。それに伴い、地下に籠っていた人々は、少しでも早く太陽の顔を拝まんと、こぞって地上へと這い出した。

 気温は下がりきっていたが、誰もがしっかりと防寒着を着込み、身を切るような冷気の中を喜びに満ちた表情で行き交っている。

 普段はまとまりのない雑踏のざわめきも、軽快な〈聖夜〉の音楽に合わせてリズムをとっているようだ。

 子供は〈聖なる子供〉にお願いした贈物の確認のため、大人はそんな子供たちの過剰な期待と財布との折り合いに頭を悩ませながら、色彩溢れるショーウィンドウを覗き込む。

 そんな人々の中に、ハズリットの姿があった。〈南部〉で一番大きな百貨店の入口の片隅に立ち、人の出入りを瞬きも惜しんで見つめている。

 彼女は母親を待っていた。リディアの提案で〈ヴァルハラ〉行きの準備をすることになったのだ。

 いくら「着の身着のまま」と言われても、さすがに繕いだらけのコートはまずいだろう。招待してくれたミス・オーツや、目的地までエスコートしてくれるヴィンツブラウト大佐の面子を潰さないためにも、最低限の準備は整えておくべきだ。

 一昨日の夜、少年たちを見送ったリディアは、ハズリットを振り返ってそう言った。

 母のこの発言に、ハズリットはどれだけ度肝を抜かれたことか。これまで「ただ飯は食わなきゃ損」と言い放っていた母が、他人の面子を気にしたのだ。いつもは地平線の下に隠れている木星が、〈ヴァルトマイスター〉クレーターのリムからひょっこり顔を出しても、これほど驚くことはなかっただろう。

 そしてその驚きは、一夜明けて喜びと期待に変わった。

 リディアと一緒に買い物をした記憶は、基幹学校に入ってからは数えるほどしかない。入学直前にリディアから「生体認証の制限を解除したので、必要な物は自分の裁量で購入するように」と言い渡された。もちろん費用はリディアが出してくれたが、何を買っても咎められることはなかった。まあハズリットが買うのは生活する上で必要なものばかりだったので、咎めようもなかったのだが。

 久しぶりのリディアとの買い物に、ハズリットは終業式の日を落ちつかなく過ごし、早く次の日が来るようにと早めに床についた。

 そして当日、彼女は三〇分も前から待ち合わせの場所に立ち、いくつかの用事を片づけてから行くというリディアを、そわそわしながら待っていた。

 これからの予定を思い描いて、胸をときめかせる。

 新しいコートに新しい靴。ちょうどお買い得品のコーナーに、いいデザインのがあったはずだ。少し〈アリシア・オーツ〉のものに似ていて、前から気になっていた。本物に比べれば生地も仕立ても安っぽく見えるだろうが、ノミの市の古着ではなく、誰も袖を通したことのない新品だ。もうそれだけで満足だ。

 浪費することに若干の罪悪感を覚えなくもないが、今日ぐらいは奮発しても罰は当たるまい。なんなら、この先数年分の贈物を取り上げられてもかまわない。

 しかし舞い上がっていた少女の気持ちは、約束の時間を一五分過ぎたころから次第に失速しはじめ、一時間経ったところで墜落してしまった。そしてさらに一時間を、彼女は大きな落胆とわずかな希望とともに過ごした。

 リディアの約束がどれだけいい加減なものか、これまでの経験から理解わかっていたはずだ。とはいえ、用事が長引いている可能性もある。今頃は用事を終え、こちらに向かっているかもしれない。

 そう思うと、いまこの瞬間にもリディアが息を切らせて駆けてくるような気がして、ハズリットはその場から動けなかった。

 だが結局約束の時間を二時間半過ぎたところで、ハズリットは待つことをやめた。コートと靴などどうでもよくなった。

 少女は湧き起こる一切の感情を心の片隅に追いやり、独りで下着など最低減必要なものだけを揃えて〈旧市街〉へと戻った。

 〈ヴァルトマイスター〉の夜はすっかり明け、久しぶりに顔を見せた太陽の光が、打ち捨てられた古い街の姿を露わにしていた。

 木星圏から見る太陽は、夜空を照らす恒星より幾分大きい程度だ。届く光も、数多あまたの生命が生まれた惑星に比べると弱々しい。それでも、光の粒は森の作り出す大気に触れると、失われた輝きの幾ばくかを取り戻す。

 光は新しい街にこそ相応しい――。

 少女は閑散とした風景を見回しながら考えた。

 いつかこの街を新しく作り変える。希望を失くした人たちがもう一度希望を持てるような、光溢れる、人工樹を生きた樹に置き換えた「自然」に近い街を。樹木たちの呼気と天からの恵みは、傷つき凍てついた人たちの心を癒してくれるだろう。きっと、リディアも――。

 密かな野望を抱く〈旧市街人アルター〉の少女は、自分が社会的にまだちっぽけな子供であることがもどかしかった。

 大学に入ったら、とれるだけの学位と資格をとってやる。植物、生物、化学、医学――都市の設計からするなら建築も必要だろうか。ああ、時間はまだたっぷりあると思っていたが、どうやらそうのんびりしている間はなさそうだ。しかし、挑戦のしがいはある。

 落胆と悲しみを野望達成のエネルギーに変換すると、ハズリットの気分は少しだけ晴れた。冷気で肺を痛めないよう慎重に深呼吸する。それでも吸い込む空気はまだ冷たかったが、身体の中の沈んだ気を洗い流してくれた。

 なんとか浮上した少女は、地上の〈旧市街〉を我家へと進んだ。

 〈新市街〉と違い、〈旧市街〉の地上は居住用に開発されていない。黒々とした人工森林と〈南部〉の街並みの間にぽっかり拓けた、だだっ広い空き地だ。中心には大きな縦穴があいており、その周囲に沿って背の低い建物が疎らに配置されていた。外壁が剥げ、薄汚れているこれらの建物は、かつて〈ヴァルトマイスター〉の建設に携わった作業員たちの宿舎や、資材置き場として使われていたものだ。その一つがハズリットの住むアパートだった。

 ハズリットは大穴の向こう側へ回ると、比較的建物の密集する通りへと入った。ちょうど地下の〈参謀通り〉の真上にあり、地下の〈参謀〉に対して〈将軍通り〉と呼ばれている。しかし〈旧市街〉の施設は地下に集中しているため、日が昇っても〈将軍通り〉を歩く者はほとんどいない。

 閑散とした風景の中に、少女の足音が響く。

 寂れた通りに響くのは自分の靴音だけ。

 そう思っていたハズリットは、ふと自分の足音に意識を向けてギクリとした。

 二つ聞こえる。

 少女は警戒心の命じるままに、前を向いたまま全神経を周囲に向けた。

 足音は背後から聞こえてくる。一定の距離を保ち、彼女と同じ方向へ進んでいた。こちらの様子を窺っているのか、じっと見られているような気配を感じる。

 この辺りを縄張りにする者なら顔馴染だ。見かけたらこっそり後を尾けるようなことはせず、声をかけてくるはずだ。となると、余所者か。

 〈笛吹き男〉ラッテンフェンガー――。

 不意にハズリットの頭を、アパートの管理人の言葉がよぎった。未知の存在に背筋が凍る。

 彼女はいつでも走り出せる体勢を整えると、気を奮い立たせてほんのわずかだけ首を巡らせた。

 目の端に人影を捉える。

 直後、少女は身体ごと振り返った。

「ライアン!」

 数メートルほど先に幼馴染みの少年がいた。

 ハズリットは、尾けていたのが未知の者ではなかったことに安堵した。だが今度は既知の問題に警戒する。ライアンは嫌がらせするつもりで尾けていたのだろうか。

 威嚇するように相手を睨みつけたハズリットは、ライアンが独りだと気づいて奇妙に感じた。いつも引き連れている仲間はどうしたのだろう。

「何か用?」

 胡乱な顔で訊く。

 つっけんどんな彼女の態度に、ライアンの眉間が揺れる。少年は反射的に言い返そうと口を開いたが、すぐに閉じた。そして無言のまま少女との距離を縮める。

 ハズリットは逃げるべきかどうか迷った。ライアンがいつものように意地悪をするつもりでいるのなら、逃げた方がいい。しかしいまの彼の表情は、いつもの敵意剥き出しの表情ではない。口元を一文字に引き締め、思いつめた顔をしている。

 結局ハズリットが逡巡するに、ライアンは彼女の前までやってきてしまった。

 訴えるような灰色の瞳で睨みつける少年の顔を、ハズリットは不思議な気持ちで見上げた。なぜ彼はこんな顔をしているのだろう。

「ライアン?」

 間近まで来たはいいが一向に口を開こうとしないライアンに、ハズリットはもう一度声をかけた。

「あ……」

 長い沈黙を経て、ライアンはようやく口を開いた。かすれた声でひとこと告げる。

「俺、ここを出ることにした」

「え……」

 突然の宣言に、少女のまつげが激しく上下する。

「ここを出て、自分の道を見つける」

 繰り返されてやっと、ハズリットはライアンの言葉の意味を理解した。

「そう」

 少女は呟くように応えた。そして「どこへ?」と続ける。

「遠いところ」

「〈ヴァルハラ〉?」

「この衛星ほしにある街じゃない――と思う」

 曖昧なライアンの言葉をハズリットは訝しく思ったが、それ以上問い詰めることはせず、もう一度「そう」とだけ呟いた。引止めようとは思わない。一度ここを出るのは、〈旧市街〉で育った子供の通過儀礼だ。

「ハズ」

 いきなりライアンが名を呼んだ。食い入るように見つめられて、ハズリットはたじろいだ。

 ライアンは数回大きく肩で息をすると、一気に吐き出した。

「いままでのこと、悪かった」

「え?」

 突然の謝罪に、ハズリットはきょとんとなる。

「仲間たちには、もうおまえにひどいことするなって言ってあるから」

「ライアン?」

 少女は眉を顰めた。なぜか急に胸騒ぎがした。このままライアンを行かせてはいけないような気がする。

 ハズリットはもう一度問い質そうとした。

「一体どこへ――」

「行く前に、これだけ謝っておきたかったんだ」

 しかしライアンは彼女の言葉には耳を貸さず、自分の言いたいことだけを一方的に捲くし立てる。

「それと、あいつに俺のこと『友達だ』って言ってくれたんだな。ありがとう」

「あいつ?」

 「あいつ」が誰を指しているのか判らず、ハズリットは思わず聞き返した。しかしライアンはそれにも答えず、言葉を続ける。

「お互い成功したら、また会おうな――ってか、会ってくれよな。友達として」

 「友達」という単語をつけ加えたライアンは、バツの悪そうな笑みを浮かべた。そしてそのまましばらく、茫然とする少女を見つめた。その目は、かつて一緒に遊んでいたころ彼が少女に向けていたものと同じだった。

 引き止めなければ、失ってしまう。

 ハズリットの胸に焦りに似た感情が渦巻く。しかし彼女は何も言えなかった。ただ覗き込んでくる少年の顔を見つめ返すしかできなかった。

 やがてハズリットの姿を記憶に刻み終えたライアンは、かすかにはにかむと、「じゃあ」とだけ残して走り去った。

 ハズリットはこのときの少年の目を、言葉を、忘れることはできなかった。

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