先輩が酔っ払ったお話
酔っ払っているのを忘れるくらいしっかりとした口調で住所を言った先輩は、横に座る私の肩に頭を乗せてきた。
「すまない、酔っ払ったから寄りかからせてくれ」
「あ、はい、大丈夫です」
それで酔っ払っているのを思い出したくらいだ。
シートに置いていた左手を先輩の熱い右手が握った。ぎゅうっと、指と指を絡めて。それについては何も言われなかったし言わなかったけれど、きっと酔っ払っているからだろう。
先輩からはとてもいい匂いがした。高校の時からいつも感じていた、花のような匂い。香水みたいな人工的なものではなく、多分先輩の体臭だ。綺麗な人は体臭でさえ綺麗なのか。
今の私はバイト終わりということもあり、汗臭いと思う。その上居酒屋のお酒と食べ物の匂いが混じって最悪だ。
左の掌に汗をかいてきた。先輩が握っているのは甲だからきっと気付かれないだろうけど。
先輩の大きな手は私の手を包み込んでいる。不意に先輩の長い指がモゾモゾと動き、私の薬指を撫でた。親指で付け根の辺りを何度もなぞられる。これにはさすがにどうしたんですかと聞こうと思ったけれど、そのタイミングでちょうど先輩がその行為をやめたから聞くのもやめた。
「すまない、部屋まで送ってほしい」
高級マンションの下で停まったタクシー。呆気に取られていると、さっさと手首を掴まれて降ろされた。その後先輩はお金を払ってしまう。あれ、私、先輩を送ってまた乗ろうと思ってたのにな。
行ってしまったタクシーを呆然と見送っていたら、先輩はまた私の背中を包むようにエスコートした。あれ、酔っ払ってるの私のほうなのか?そう思うほど自然に。
「あの、私帰れないですよね」
「またタクシーを呼べばいい」
面倒だな、正直そう思ったけれど、先輩がそのタイミングで少しふらついたから、そんなことは忘れてしまった。慌てて背中に手を回して支える。
「大丈夫ですか」
「ああ、情けなくて嫌になるよ」
もしかしたら先輩は、分かりにくいだけであまりお酒に強くないのかもしれない。
王子様の家は、マンションなのにお城みたいだった。玄関に入ると、1Kの私の部屋がすっぽり入りそうな長い廊下があって、その左右にいくつかドアがある。あれ、先輩一人暮らしじゃないのかな。そう思ったけれど、玄関に並ぶ靴は明らかに一人分だった。
「この家に女の子を入れたのは初めてだよ。目的が介抱で情けないけどね」
そうなんですか、と返しながら意外だな、と思った。先輩はモテるだろうに。そういえば、高校生の時も彼女がいるとかそんな噂を聞いたことがなかった。それ故に、「みんなの幸人様」という暗黙の了解が成立していたのだし。
「寝室どこですか?」
「……」
「先輩?」
「……、ああ、右側の2番目のドアだよ」
「了解です」
私は先輩を支えながら開けますよ、と言ってそのドアを開けた。ひ、広い。この家には私の部屋が何個入るだろう。
中央にキングサイズのベッドがどん、と置かれていた。ダークブラウンの掛け布団を捲ろうとしたら、その前に先輩が寝転がってしまう。
「あ、スーツだけは脱いだほうが……皺ができますよ」
いつもお兄ちゃんが酔っ払ってスーツのまま寝てしまい、翌朝皺が出来たと嘆いているのを見る。酔っ払っているのは同じなのに、お兄ちゃんはなんか汚くて先輩は綺麗だ。色っぽく私を見上げている。
「あ、じゃあ私、帰りますね」
「結城さん」
「はい」
「スーツ、脱がして」
甘えたように言われて、嫌な気持ちにならなかったのはお兄ちゃんで慣れているからだろう。いつも仕方ないなぁと思いながら脱がせてあげている。お兄ちゃんは起き上がらせるのに苦労するから、自分で起き上がってくれた先輩に感謝したくらいだ。
先輩のスーツのボタンを外していく。慣れたものだ。一つ違うのは、この人はお兄ちゃんではない他の男の人だということ。何だろう、緊張する。
ボタンを外し終えて、腕も脱がせていく。少し近くなった距離。先輩の視線が恥ずかしい。先輩のほうを見ることが出来ず目を逸らしながらスーツを脱がし終える。間髪入れずにネクタイも、と言われた。
スーツを皺にならないように軽くたたみベッドに乗せると、次にネクタイに手を掛けた。何故か先輩の大きな手が私の腰に当てられる。ドキドキが大きくなる。な、何だこの雰囲気。
ネクタイを外し終えた。
「あ、あの、私かえ」
「結城さん」
先輩がふらりとベッドではなく床の方に倒れた。慌てて支える。次の瞬間、何故か視界が反転して、天井が見えた。それと、私を見下ろす先輩の綺麗な顔も。あれ?あれ?
「すまない、俺、酔い過ぎてるな」
先輩はそう言って私の首筋に顔を埋めた。胴体が密着する。シーツから、先輩から、先輩の匂いがして包まれる。もしかして私、危機的状況……?
「せ、せんぱ、」
「奈々美ちゃん」
「え、」
突然名前を呼ばれて固まる。ていうか、名前も知ってたんだ。
「酔っ払った、ごめんね」
「いえ、あの、とりあえず離して……」
「名前で呼んでくれたら離す」
「ええ、」
名前、先輩の名前、知ってるのは知ってるけど……。甘えるように首筋に頬をすりすりされて、くすぐったくて身を捩る。その時たまたま動かした脚が、何か硬いものに当たった。あれ、これってまさか……
先輩は体を起こし、「バレた」と笑った。いやいや、笑い事じゃないんですけど……!
「先輩、私、」
「酔っ払ってるから。何もしないよ。奈々美ちゃんが嫌がることは」
「っ、え、」
「つまり嫌がらなかったらしたいってことだけど、まぁ焦らない。今更」
先輩が言っていることの意味が分からず、とりあえず先輩の下から抜け出そうと体を起こす。そのせいで先輩との距離が近くなった。太ももには相変わらず先輩のあれが当たっている。
「酔っ払ってるから」
何度もそう言われるせいで、先輩のそこが反応しているのは私に欲情しているというより酔っ払っているからだと刷り込まれる。さっきの「今更」という言葉もすっかり忘れて。
「絶対に何もしないから、今夜はそばにいてくれないか。前に眠り込んで3日起きないことがあって。明日も仕事だから起こしてほしいんだ」
「ほ、ほんとに、何もしませんか?」
「君が嫌がることはね」
「……」
「お願い」
先輩の切羽詰まったような顔に負けて、頷いてしまった。先輩は嬉しそうに笑って布団を捲る。さぁ、とまた紳士的に言われておずおずと布団に入った。先輩の香りに包まれたこの場所で、私は熟睡することが出来るのだろうか。
先輩に背を向けたら、後ろから先輩の腕が回ってきた。その腕がふにふにと胸に当たっているような気がしたけど、気のせいだと思うことにした。
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