第六章 暗黒の谷の脈動 --- 8

 カイルの想像した以上に、事態は深刻なことになっていた。――ヒースにとっては。

「……いったい何の騒ぎだ」

 扉を開けた先に広がる惨状に、カイルは眉根を寄せた。割れて飛び散った皿や瓶の破片、それに盛られていたと思われる料理の残骸。果ては、ノルシェスタに胸ぐらを掴まれた挙げ句、小刀を突き付けられている警備隊の副長――。

「カ、カイル……! 無事だったのね!!」

 凶器を持ったまま突進してくる女をどうにか押し止めると、カイルは這々の体のヒースを睨んだ。

「どいつもこいつも、やらかしてくれる。何だ、この散らかりようは。ここはオレの家だぞ」

「おまえがいつまでも帰って来ないからだ!」

 ヒースは詰まっていた襟を緩めながら食卓の椅子に座り込むと、無事だった葡萄酒の瓶を呷った。

「何か進展がなかったか聞きに寄っただけなのに、おまえが帰らないのはオレのせいだと詰られて……私こそ被害者だ!」

「やかましい! 喚くなら帰れ!」

 青年の冴えた碧玉の瞳は無論、ノルシェスタへも険しく向けられ、彼女は小刀を握りしめたまま縮こまった。

「ごめんなさい……。帰りが遅いから、てっきり何かあったんだと思って……」

 カイルが盛大な溜め息を漏らした時、廊下の方から声がかかった。

「カイル、取り込んでるなら日を改めるが」

「――あ、いや、気にしないで入ってくれ」

 青年の声に応じて戸口をくぐった男と連れの獣を見て、ノルシェスタが明るい声を上げる。

「あの時の……! えっと、ベーゼル、だったわよね。元気だった?」

 屈んだノルシェスタが狼の頭を撫でるのを見て、ヒースは顔をしかめた。

「どこかで見た光景に嫌な予感がするが、一応訊こう。カイル、どちら様だ?」

「珍しく冴えてるじゃないか。想像通り、ラスティンの父親だ」

 笑いを噛み殺すカイルに、ヒースはついに天井を仰いだ。ラスティン少年のせいで、エルミシュワでは何度も痛い目に遭った彼である。その面影のある男の登場を歓迎できるはずもない。

「神よ……貴方は私に御加護を賜れんのか……」

 山積する厄介事にぶつぶつと呟き始めてしまった副長をカルジンに紹介すると、カイルはノルシェスタに失われた夕食の買い出しを頼んだ。結局、軽くしか食べなかったので、ここへ来て急に腹が減ってしまったのだ。これ以上、ヒースとノルシェスタが揉めるのも御免蒙りたかった。

「……おまえ、あの娘と一緒に住んでいるのか?」

 出かけるノルシェスタの背を見送ったカルジンの問いに、カイルは首を竦めた。

「今日まではな」

「なに? そんなこと聞いてないが、部屋を別に借りたのか?」

 今度はヒースが目を瞬かせる。

「ああ。ノーシェは今晩からあんたのところに行く」

「………」

 ヒースの瞬きが止まらない。

「……なに?」

 そこでカイルは、カルジンと出会った経緯を話した。

「狼を連れた男が宿を転々としていたら、すぐに足が付いてオレたちにも害が及ぶ。だからカルジンにはここに住んでもらう。だが、ここは三人が住めるほど広くないからな。ノーシェにはあんたのところへ行ってもらう」

「……理屈は理解できる。理解できるが、納得はできん」

 ヒースは大きく息を吸い込むと、それを絞り出すように声を発した。

「だからといって、なぜ私がノーシェを引き受けなければならないんだ!?」

「なぜって、あんた、洗濯を大家のおばさんにやってもらっているんだろう? ノーシェにやってもらえば丁度良い」

「おまえの洗濯物はどうするんだ! ――いや、違う、だから……馬鹿を言うな! こんな時に女と住み始めたと上に知られたら、このうえ何を言われるか! 惚れた女ならともかく、私にも好みというものがあるっ。疲れて帰ってきて、またあの女と一戦交えねばならぬなどと――だいたい、ノーシェはおまえの女だろうがっ」

 ふいに、割れ物を片付けようとしていたカイルの手が止まる。続く沈黙にヒースが首を傾げた途端、青年の持っていた箒が彼の鼻先に突き付けられた。

「……オレたちは、リエーラ・フォノイが亡くなった真相を突き止めるために、一緒に住んでいるだけだ。二部屋借りるカネもないし」

「……じゃあ、彼女のことを何とも思ってないのか」

 その時だった。

「野暮なこと訊かないでよ、ヒース」

 開いた扉から、大量の荷物を抱えたノルシェスタが姿を現した。

「私とカイルはね、同志なの。そして、私にとってカイルは恩人でもある。その恩人の頼みなら聞かなくっちゃ。なに、私、ヒースのところへ行けばいいの?」

 食卓に荷物を下ろして振り返った彼女を、カイルは真っ直ぐと見つめた。

「悪い」

 何の飾りもない詫びの言葉に、ノルシェスタは小さく笑いながら首を振った。

「カルジンとベーゼルが来た時点で、何となくわかってたから。副長さんにあそこまで毛嫌いされてるとは思わなかったけど。――私、一応巫女だったのに」

「そっれは、だな……」

 弁解に追われかけて、ヒースは我に返った。

「――いや、待て。どうして私の家のことを、おまえたちが勝手に――」

 だが、ヒースの訴えは、カルジンによって遮られた。

「おい。巫女とは、《太陽神の巫女》のことか……?」

 意外なところに反応した狼族の男に、カイルとノルシェスタは顔を見合わせた。

「……ええ、そうよ。私は《太陽神の巫女》だったの。貴方の継娘と同じね」

 ノルシェスタの左手首に結わえてあった青い布が取り払われる。そこで鈍い光を放つ銀の腕輪を見て、明らかにカルジンの顔色が変わった。

「……きみがヒースのところへ行くのは明日からだ。少し訊きたいことがある」

「えっ? ……別に、いいけど……」

 もはや地団駄を踏むヒースに注意を向ける者など誰もいなかった。



 汚れた部屋を掃除して体裁を整えると、ようやく四人は食卓を囲んだ。といっても椅子は二脚しかないので、階下の店から木箱をふたつ拝借し、カイルとヒースはそれに腰掛けている。

「――じゃあ、ラスティンたちは今、フィーユラルにはいないのか」

「ああ」

 そうして訪れた静寂に、ヒースは目を剥いた。

「ちょっと待ってくれ。あんたはあのガキ――失礼、ラスティンの父親なんだろう? どこに居るのか訊かないのか? いや、訊くだろう、普通。むしろ訊いてくれ。親なんだから、その権利は充分にある!」

 なぜか必死さの目立つヒースを不思議そうに見た後、カルジンはおもしろそうに笑った。

「悪いが、我が家は『普通』じゃないんだ。どこででも元気ならそれでいい。生きてればまた会うこともあるだろう」

「―――」

 大して呑んでもいないのに机に突っ伏してしまったヒースの肩を、珍しくノルシェスタが持つ。

「カイルったら、私たちにも教えてくれてないの。私たちの身を守るためとか言っちゃって、本当は信用されてないのね。あー、悲しい」

「ノーシェ……」

「こうなったら自棄酒よ! ほら、ヒース。しっかりして。宴はまだ始まったばかりよ!」

 ヒースの杯に酒を注いだ後、ノルシェスタは自分の杯にも溢しながら注いだ。その様子を興味深げに見ているカルジンが、カイルは気になった。

「……カルジン、ノーシェに訊きたいことって何だ? 早くしないと、使いものにならなくなるぞ」

「ああ……そうだな」

 カルジンは持っていた酒杯を置くと席を立ち、荷物の中から取り出した物を卓の中央に放り出した。

「なに、これ……」

 それは、黒ずんだふたつの金属片だった。

「よく見てくれ。きみになら、これが何かすぐわかる」

「え……?」

 言われて、ノルシェスタは顔をしかめながら、その金属片のひとつを手に取った。そして、その黒い瞳を大きく見開く。

「えっ……これって……!?」

 慌てたようにもうひとつの破片に手を伸ばし、両手に持ったそれらの端と端とをくっ付ける。すると、それは腕輪のような形になった。

「何なんだ、ノーシェ」

 カイルとヒースの視線を受け、ノルシェスタはごくりと喉を鳴らした。見覚えのある形、意匠――間違いない。それは彼女が毎日身に付け、目にし、もはや身体の一部となっている物と同じだった。信じられないのは、それが在るべき場所を離れ、真っ二つに割れた見るも無惨な姿で、異教徒とも言うべき男からもたらされたという点だ。

「これは……《太陽神の巫女》の証よ。聖儀の後、《栄光の儀》で誉れとして授けられる……。普通、巫女となった者の腕から外されることはないわ」

「なに……!?」

 二人はノルシェスタから腕輪を受け取ると、それを検めた。ノルシェスタやセフィアーナの物に比べてかなり傷み変形しているが、確かにテイルハーサの紋章が刻まれている。

「これを、どこで……!?」

 カイルが尋ねると、カルジンは深く溜め息を吐いた。

「……カイル。オレはおまえたちが来た時――セフィアーナを初めて見た時、それは驚いたよ。手を失ってもいいから斧で叩き割って欲しい――そうオレに懇願してくるほどセラーヌが嫌悪していた腕輪を、あの娘がしていたのだから」

 カルジンは凪いだ海のように穏やかな声音だったが、聞いた三人の心には不気味な嵐が忍び寄っていた。

「な……え……? じゃあ、あんたの奥さんは――セフィの、母親は……」

 珍しく狼狽するカイルに、カルジンは断言した。

「そうだ。おまえたちが敬うべき、《太陽神の巫女》だったんだ」

 蝋燭の燃える音が耳を打つほどの重く深い沈黙が、狭い室内を支配する。

《太陽神の巫女》でも、ノルシェスタのように神官にならなければ、結婚するのは自由である。ゆえに、《太陽神の巫女》の産んだ娘が《太陽神の巫女》に選ばれることは、かなり確率が低いこととはいえ、あり得ないことではない。しかし、《太陽神の巫女》となった娘が他の神を信仰する者と結ばれた挙げ句、太陽神を侮辱するような行為に及ぶとは、到底信じがたい事実だった。

「そ、そんなの嘘よ!」

 椅子と卓と両方で激しい音を立て、ノルシェスタが立ち上がった。出会って以来初めて、きつい眼差しをカルジンに向ける。

「これはね、この腕輪は、巫女に選ばれた者にとっては、ただの誉れとか、そんな……そんな簡単なものじゃないのよっ。命や、魂と同じくらい大切な物なの! 神官にならなかった私にだって、この腕輪はとても大切で……。だから、こんなに錆び付かせたり、ましてや斧で……斧なんかで叩き割っていい代物じゃないのよ、決して!」

 まるで自分の存在を否定されたかのごとく怒りを露わにし、ノルシェスタはカルジンに食ってかかった。巫女のことに関してカイルには軽口ばかり叩いていたが、どうやらそれは本心ではなかったらしい。

「それほど――神が信じられなくなるほど酷い目に遭った、ということか……」

 呟くヒースに、髪が頬を打つほど激しくノルシェスタが首を向ける。

「そんな!」

「ノーシェ。オレがセラーヌと初めて会ったのは、王都の娼館だったんだよ」

「……しょ、娼館……?」

 ヒースに駄目押しされ、ノルシェスタは崩れ落ちるように椅子に座った。

「ああ。初めて取った客が、オレだったらしい」

 ノルシェスタは、呆然と卓に視線を落とした。

「信じられない……。《太陽神の巫女》が、どうして娼妓になんか……」

 確かに彼女自身も歌謡団在籍中、不条理にも初めて会った権力者に身を委ねねばならぬことはあった。だが、そんなことは滅多になく、あくまでも歌姫が本職であり、性を売り物にした娼妓とは違う。

「――それで、きみに訊きたいのは、《秋宵の日》の後のことなんだ。きみは歌謡団に入ったそうだが、その前後に襲われたり、不審な出来事があったりしなかったか?」

「カルジン?」

 質問の物騒な内容に、三人は顔を合わせた。

「襲われたり、って……」

「よく思い出してくれ」

「思い出すも何も、そんなことがあったら嫌でも記憶に残るわ。でも、そんなことはなかった。私は最初から神官にはならないと言ってたし、フリーダル歌謡団に入ることが決まった時も、みんな喜んでくれたわ。巡業中に懸想された男に襲われたことはあったけど、聖都にいる間に不審なことなんて特になかったわ」

 しかし、カルジンの追及は止まらない。

「他の巫女に会ったことは? そんな噂を聞いたりとか」

「ちょっと待って。それ、どういう意味? あなたの奥さんが酷い目に遭ったことと、《太陽神の巫女》の立場が何か関係あるの?」

 すると、半ば身を乗り出していたカルジンは、表情を曇らせて背もたれを頼った。セラーヌが襲われたのは神殿を辞した後、市中の宿屋でのことだ。彼女が《太陽神の巫女》だからなのか、それともただの恐ろしい偶然なのか、はっきりとはわからない。

「……わからない」

「わ、わからないって……」

 声にも顔にも憤りを滲ませて、ノルシェスタは首を振った。

「カイルから聞いたけど、貴方は狼の神様を信じてるんでしょう? だから、こう……感覚的にわからないかもしれないけど、《太陽神の巫女》はとても神聖な存在なの。――こんな私が言うのも何だけど、ね。だから、そんなこと迂闊に言わないで」

 面持ち硬く沈黙してしまったカルジンの杯に酒を注ぎながら、カイルはおおよそ得心しながら口を開いた。

「……セラーヌさんが亡くなったばかりなのに、なぜ聖都へ来るのかとずっと疑問だった。カルジン、あんたは《太陽神の巫女》のことを調べるために、ここへ来たんだな?」

「え、奥さん、亡くなったの……?」

 三人の視線を受け、カルジンは小さく、しかし何度も頷いた。

「……そうだ。それで、十数年前、家の裏に投げたこの腕輪を探し出して、ここまで来た」

「それを調べて、どうする気だ?」

 ヒースの問いに、カルジンは静かに首を振った。

「どうも。ただ……」

「ただ?」

「――ただ、セフィアーナの幸せが、セラーヌの最後の望みだ」

 その言葉の裏にある様々な感情を汲み取って、ノルシェスタは深く吐息した。聖都へ戻ってくるまで、姉の死を巡るいくつかの不気味な出来事を知るまで、深く考えたこともなかった《太陽神の巫女》の存在意義。その疑問の奥に何が待っているのか、今の彼女にはわからない。しかし、彼女自身も巫女であり、何かあった場合、無関係ではいられないだろう。

「……殆どの場合、《太陽神の巫女》は《秋宵の日》の後、神官になる道を選ぶわ。私みたいなのは変わり種。だから、野に下った巫女に会ったことはないわ。ただ、神官となって地方の神殿に下った巫女には何人か会ったことがある。でも、巫女が襲われた話なんて、今まで一度も聞いたことはないわ」

「……そうか。ありがとう」

 その時、ヒースの拳が卓を打った。

「礼を言うのはまだ早いぞ」

 怪訝そうなカルジンの前で、警備隊の副長はカイルを見、青年は暗黙の了解で立ち上がると、一通の書状を持って戻ってきた。

「これは、リエーラ・フォノイという神官からオレが貰った手紙だ。彼女はここにいるノーシェ――ノルシェスタの姉で、《太陽神の巫女》の教育係を務めていた。彼女はこの手紙を出した後、行方がわからなくなり……おそらく殺された」

 弾かれたように顔を上げ、カルジンがカイルを見る。そして、すぐに書面に視線を落とした。前年の巫女の変死事件、そして上級神官の失踪――。そこに書かれてあった不穏な内容に顔をしかめた時、さらにヒースが声を上げた。

「追加情報をやろう。警備隊の方でエル・ティーサの派遣先を調査したが、彼女は別の神殿に行っていることになっていた。結局、彼女が《秋宵の日》から《春暁の日》まで、どこで何をしていたかは不明だ。リエーラ・フォノイが相談していた月光殿管理官も、未だに見付かっていない」

 カルジンは書状を畳むと大きく息を吐き、ノルシェスタを見た。

「……きみのお姉さんも、セフィアーナの身を案じていたのか」

 ノルシェスタは、こくりと頷いた。

「私は、姉さんのために、必ず真実を突き止めるわ」

 その断固たる決意に、カルジンの心の奥で何かが動いた。

「……ヒース。聖都のどこかに、洞窟のような場所はあるか?」

「何だ、いきなり。洞窟? 山は知っての通りいくつかあるが……洞窟、ねぇ……」

 すると、ノルシェスタがうんざりしたように首を竦めた。

「やだ、また暗い場所の話?」

「また?」

「聖都には、地下水道が走ってるのよ。ヒースから外部持ち出し禁止の地図を貰って、ここのところずっとカイルが調べ回ってるの。例の《光道騎士団》が、それを使って悪さしてるんじゃないかって」

「地下水道……」

 顎に手を当てて考え込んでしまったカルジンを、ヒースが呼び戻す。

「何だ、洞窟とは」

 ヒース、カイル、ノルシェスタの顔を順に見て、カルジンは覚悟を決めた。話すつもりのなかった妻の秘密――セラーヌが太陽神への愛を捨てざるを得なかった、残酷な物語。それを明かすことに……。

 それは、長すぎる夜の始まりだった。



「じゃあ、行くわね」

 翌朝、一仕事終えて店から上がってきたノルシェスタは、手早く荷物をまとめると、扉の前に立った。

「いろいろ世話になったな」

「やめてよ、そんな言い方。おかみさんが戻るまでは下で働いてるんだし、私たち、同志でしょ」

 重たすぎる話に胸やけしている男たちに比べ、ノルシェスタは元気だった。

「……そうか。そうだな」

 そこで、カイルはふと思い出したことを訊いてみた。

「そういえば、昨日言っていたオレが恩人って、何のことだ?」

「え? ――ああ……」

 ノルシェスタは、さもおかしげに笑った。彼女の義理は、青年にはわからないだろう。

「ここに置いてくれたこと」

「それくらいで」

 釣られて笑うカイルの胸に、ノルシェスタはゆっくりと両手を押し当てた。

「ねぇ、カイル。少しは私に……心を開いてくれてた?」

 思わず、胸を突かれた。体よく追い出されたことに気付いている彼女に、カイルはただ頷くことしかできなかった。

「……ああ」

「なら、良かった」

 ノルシェスタは美しく微笑むと、少し増えた荷物を持った。

「巫女殿のことが応えるだろうが、だからといって無茶はするなよ」

 ヒースの言葉に現実に引き戻され、カイルは唇を噛みしめた。

「……わかってる」

「じゃあ、また寄るからな」

 そうして、二人の不揃いな足音は階下に遠ざかっていった。カイルは閉まった扉を見つめたまま溜め息を吐いた。

 セフィアーナが強姦の末に生まれた子であったことは、明かされたどの事実より非情だった。セラーヌが彼女を置き去りにしたのも頷けてしまうほどに。カイルの脳裏に、セフィアーナの、春先、物思いに沈んでいた姿、ラスティンと出会い、母と再会できる喜びを噛みしめている姿、そしてエルジャスで、手製の麦粥を美味しそうに食べている母を嬉しそうに見つめる姿が浮かんでは消えていく。

(この事実を、あいつには、あいつにだけは絶対に知られてはならない。絶対に……!)

 カイルが両の拳を握りしめた時、背後から声がかかった。

「おまえは、誰かを懐に入れるのが怖いんだな」

 それがノルシェスタとのことを言っていると気付いて、カイルは嘲るような笑みを浮かべた。十二で王都を飛び出してから六年の間、誰にも頼らずに――頼れずに生きてきた。ダルテーヌの谷でひとの温かさを思い出しはしたが、それに浸ってはいけないというさがの芽が、彼の内には既に育ってしまったらしい。

「前にも言ったが、おまえは本当にオレに似ているよ。……よく、似ている」

 カルジンの言葉を、カイルは否定も肯定もしなかった。

 秋の弱い朝陽が、静かに窓辺を照らしていた。

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