第三章 混沌たる荒野 --- 8

 すべての始まりは、十七年前の春だった。

 幼くして両親と死に別れたセラーヌは、聖都の近くにある小さな町で、祖母とともに慎ましく暮らしていたが、奉公先の神殿の神官長にその美声を見込まれ、《太陽神の巫女》の選抜試験を受けることとなった。彼女は足の悪い祖母の傍を離れたくはなかったが、世話になっている神官長の頼みを断り切れなかった。

 試験に合格したいなどと露ほども思っていなかったセラーヌには何の気負いもなく、結果、何の因果か《太陽神の巫女》に選ばれてしまった。ゆえに、神官長が喜々とする隣で、彼女の狼狽と動揺は大きかった。修行一日目が終わった時点で、彼女はその重圧に耐えきれなくなっていた。逃げようと《月影殿》を出ようとした彼女を見咎めたのは、ひとりの青年神官だった。

『大仰に考えずともよいのです。ただ、故郷のおばあさんに聞こえるように《称陽歌》を歌いさえすれば』

 セラーヌの苦悩に耳を傾け、優しい灰色の瞳でそう励ましてくれたのは、アイゼス・ホンテールという《月光殿》の神官だった。数日後、彼のおかげでセラーヌは無事に聖儀を終えることができた。

 ついの神殿と務めを果たす場は違ったが、セラーヌとアイゼス・ホンテールはその後も会う機会が度々あった。アイゼス・ホンテールが月光殿管理官付きで、サイファエールやカルマイヤの貴人が巡礼に来た際、《太陽神の巫女》を迎えに来る役を負っていたためだった。先の一件以来、彼を信頼するようになっていたセラーヌは、そのうち彼がやって来るのを待ち遠しく思うようになった。会ったところで廊下を歩く短い時間、たわいもない話を少しするだけだったが、それこそ彼女にとって至福の刻だった。

 故郷から悲報が届いたのは、新緑が鮮やかなる頃だった。セラーヌの唯一の肉親だった祖母が、火事で亡くなってしまったのだ。就寝時に蝋燭の火を消そうとして、それが布団に燃え移ったという。足が悪い祖母は逃げ切れなかった。セラーヌが傍にいれば、起こらなかった事故だ。そのために、彼女は自分を責め立てた。泣いて取り乱した彼女を、宥め、そして励ましてくれたのは、やはりアイゼス・ホンテールだった。

 後の話では、この少し前から、彼もセラーヌに好意を持ち始めていたという。そして彼女の祖母の死が、それを決定的にした。弱いセラーヌを、アイゼス・ホンテールは自分が守ってやらねばならないと感じたのだ。二人はこれを機にあっという間に恋に落ちていった。とはいえ、片や《太陽神の巫女》、片や神に仕える聖職者である。禁断の恋は静かに、しかしそれゆえに熱く燃え上がった。

《秋宵の日》の後、セラーヌは神官になるつもりがなかった。彼女は流行病で死に別れた両親のことを深く愛し尊敬していた。そして、いずれ自分が結婚した時は、二人のような温かい家庭を築きたいと思っていたのだ。そのことを知ったアイゼス・ホンテールは、神官をやめ、彼女とともに生きると彼女に告げた。しかし、彼は将来を嘱望された神官で、若手で唯一《月光殿》に配されたことは、セラーヌも知っていた。セラーヌは、自分のために夢を諦めて欲しくないと彼に言ったが、彼は聞かなかった。

『神官でなくとも、神に仕えることはできる』

『ひとを愛することを、神が否定なさるはずはない』

 彼を愛し、そして独りで生きる縁のないセラーヌは結局、彼の言葉を信じた。若さゆえの、盲目の恋だった。

 すべてが終わった《秋宵の日》の夜、忍んで逢った二人は結婚の誓いを立て、その証としてお互いの手首に傷をほどこし、血を交わらせた。そして、翌日の待ち合わせの約束をした。まさか、この夜の別れが永遠のものとなるとは露ほども思わずに。

 翌日、アイゼス・ホンテールに言われた宿屋で待っていたセラーヌの前に現れたのは、ランバルトという俗名に戻った彼ではなく、漆黒の出で立ちをした見知らぬ男だった。その冷たい蒼氷色の瞳に、脳裏で激しく警鐘が鳴ったのを、今でもはっきりと覚えている。セラーヌは狭い室内を逃げ惑ったが、武装した屈強な男にかなうはずもなく、そのまま拉致された。

 連れて行かれたのは洞窟だったが、それがどこだったのか、今となってはもうわからない。逃げる時は必死で、後ろは一度も振り返らなかったのだ。捕らえられてから、彼女は鉄格子のはまった独房でいたずらに時を過ごすしかなかった。細い蝋燭がただ一本灯されている中で、恐怖におののくセラーヌを支えたのは、恋人からもらった銀の竪琴だった。それを爪弾くことは許されなかったが、腕に抱くことでアイゼス・ホンテールの温もりを感じることができた。彼はきっといなくなった自分を探してくれているはずだ。きっと見付けて、ここから救い出してくれる――。しかし、それは甘い幻想でしかなかった。

 幽閉もふた月経ったある日――それが昼か夜かはもうセラーヌにはわからなかった――、顔をしかめるような耳障りな音を立てて、鉄扉が開かれた。入ってきたのは、神官服のような、ただし色は闇色の衣装を纏った数人の女性たちだった。彼女たちは嫌がるセラーヌの服を脱がせると、湯浴みさせ、やはり漆黒の絹服に着替えさせた。髪を結い上げ、やがて彼女は色こそ違え、聖儀の時のような格好となった。

「私をどうする気なの!」

 セラーヌは激しく抵抗したが、何かの薬をかがされ、それもできなくなってしまった。そうして連れて行かれたのは、篝火に照らされた祭壇だった。真の悪夢の始まりだった。そこでセラーヌは、自分を拉致した男に強姦されたのだ。それも、一度や二度の話ではなかった。自分の上で蠢く黒い影に、セラーヌの心は壊れる寸前だった。そして、彼女は悪魔の子を孕んだ。

 妊娠が発覚した途端、正体不明の男は二度とセラーヌの前に姿を現さなかった。その代わり、女が必ずひとり、彼女を見張っていた。腹におぞましいものを棲まわせながら、セラーヌは自ら死ぬことさえできず、四方を岩に囲まれた暗黒の部屋で鬱として過ごした。

 逃亡の好機は敵側からもたらされた。腹の目立ち始めたセラーヌを別室へ移すという。その道中、彼方に日の光を見付けたセラーヌは、自分を連行する女たちを振り切り、そこを目指して走り出した。数か月、ろくに動いておらず、腹に赤子を抱えて死んでもおかしくなかったが、彼女の意に反して、身体は死ぬことを選択しなかった。どこをどう逃げたのか、セラーヌは気付くと霧雨の降る聖都の町中を、独り彷徨っていた。

 生きる希望など、いや、死ねる希望さえなく、抜け殻のようになったセラーヌの目に、やがて運河が見えてきた。そこに架けられた小さな橋の中央まで来て下を覗き込むと、水面には無数の波紋が生死を繰り返していた。ふっと意識が途切れ、身体が前方へ倒れかけた。しかし、ここでも彼女は死ねなかった。

「危ない!」

 若い女性の叫び声がし、両腕を掴まれた。薄れゆく視界に雨に霞む《正陽殿》が見え、セラーヌは雨か涙かわからないものを双眸から溢れさせた。



 セラーヌを救ったのは、その近所に住むフェリンという名の女だった。フェリンはセラーヌを家へ連れ帰り、妊婦にあるまじき状態の彼女を介抱してくれた。フェリンは結婚していたが、八年経ってもまだ子宝に恵まれないという。望まぬ妊娠で絶望していたセラーヌには複雑だった。

 連日のように夢魔に襲われていたセラーヌは、思い切ってフェリンに告げた。「お腹の子を、もらってくれないか」と。フェリンは驚き、そして怒りを露わにしたが、セラーヌが望まぬ妊娠だったことを告げると沈黙した。それは出会った時のセラーヌの姿を思えばわかることだった。もはや自分が妊娠することは望めまいと思っていたフェリンは、夫と話し合い、セラーヌの申し出を引き受けてくれた。未来に何の灯も見えていなかったセラーヌだが、自分を助けてくれた夫婦のために、赤子を産もうと心に決めた。

 ……どうして自分ばかりが悲惨な目に遭わなければならなかったのかと、今でも思う。臨月を迎えた冬のある寒い夜、セラーヌは息苦しさを覚えて目を覚ました。そして仰天した。部屋の中に煙が立ちこめ、壁が燃えていたのだ。

「な、なに、火事……!?」

 彼女が認識したと同時に通りで「火事だ!」と叫びが上がるのが聞こえた。フェリン夫婦を呼んだが、返事はなかった。隣の寝室へ行こうと居間に続く扉に手をかけると、取っ手が熱くなっていた。向こう側はおそらく火の海――。セラーヌは煙を吸い込まぬよう口に布を当てると、窓を開け、そこから表へと逃げ出た。

「フェリン! フェリン!」

 火の粉が降りかかる中、彼女は恩ある夫婦の姿を必死で探したが、それは翌朝、焼け落ちた瓦礫の中から見付かった。自分の両親のように優しかった二人は、自分の祖母のように火事で逝ってしまった。声なき絶叫を上げたセラーヌの腹の中で、呪われた子が鳴動した。

 セラーヌは赤子を独りで産んだ。奉公していた神殿の仕事で、よくお産を手伝っていたので要領はわかっていた。わからなかったのは、自分とその子どもの行く末だった。聖都を出たセラーヌは、赤子を抱いて宛てもなく彷徨った。生きるとも死ぬともわからず、彷徨い彷徨い彷徨い、そしてある神殿に辿り着いた。聖都のそれに比べると、あまりにも小さく質素な建物に、セラーヌは吸い込まれるように入っていった。

「なぜ、私にこのような試練を……?」

 祭壇の前で唇を噛みしめながら呟くと、セラーヌはそこへ寝息を立てている赤子を置いた。それから、ついに自分を見付けてくれることのなかった恋人の残骸を。

 それは、王都でカルジンと出逢う一年前の話……。


     ***


 あまりにも壮絶な妻の過去に、カルジンはただ黙っているしかなかった。線の細い眼前の女の内に、背筋も凍る真の闇があったとは。

「決してあの娘が悪いわけじゃない……。でも……でも……あの娘に会いたくはなかった……」

 セラーヌの涙は、いつしか双眸からこぼれ落ちていた。

 病魔にうなされ、産んですぐに自ら捨てた娘の夢を見た。顔のない赤ん坊が、寝台に横たわり身動きできずにいる彼女の首を締めるという悪夢だった。息子に揺り起こされた後、楽になりたい一心で、思わず娘の存在を話してしまった。墓の中まで持っていくはずだった秘密だが、心身ともに衰弱していた彼女には耐えられなかったのだ。おまけに、娘を捨てるべくして捨てたことを息子に軽蔑されるのが怖くて、「事情があって育てられなかった」と自分を弁護さえした。まさか優しい彼が姉を探す旅に出ようなどと、露にも思わなかったのだ。そして、本当に見付けて来るなどと……。

 セフィアーナに謝ったのは、置き去りにしたことを詫びたのではなかった。いま過去に戻れたとしても、自分はやはり同じことをするだろう。そうでなければセラーヌは生きていけなかった。それくらいに追い詰められていたのだ。謝ったのは、何の罪もないセフィアーナに、過酷な運命を強いてしまったから。それなのに自分だけ逃げて、呪われた過去の象徴である彼女には会いたくないと思っていたから。

「カルジン、あの娘は悪くないの……悪くないのに……」

「セラーヌ、そんなに自分を責めるんじゃない。人間、誰にも弱いところはある。オレもさんざ逃げ回って、おまえには苦労をかけたじゃないか」

「苦労なんて……。貴方は私に住む家とラスティンをくれたわ。何か月かに一度は戻っても来てくれた。それで十分よ。私は確かに幸せだった……」

「セラーヌ……」

「それに……ここまで話したのは、何か嫌な予感がするから……あの娘のことで、嫌な予感がするの……」

 そこでカルジンは濃い眉根を寄せた。

「あの腕輪か……?」

「ええ……」

 予感などと、母親らしいことをなにひとつしたことがない自分が言えた義理ではなかったが、その恥を吹き飛ばすほど禍々しい光を、あの《太陽神の巫女》の証は放っていた。

「どうする気だ?」

 しばらく考えていたセラーヌは、沈痛な面持ちで首を横に振った。

「……知らせないで済むのなら、知らせたくない……。――これってまた、逃げてるのかしら……」

「いや、世の中知らない方が幸せということもある。あの娘には、……きっと耐えられまい……」

 重い沈黙の帳が二人の間に降りた。母に会いたい、きっといつか会えるとひたむきに思っていた娘。永遠の常春を歌う乙女を、いたずらに永久に凍る大地へ放り込むことはできない。

「カルジン、お願いがあるの」

 おもむろに、セラーヌは口を開いた。

「こんなこと貴方にお願いできる筋じゃないのはわかってるけど……あの娘を守ってやって欲しいの。もしもの時、この真実があの娘を救うことがあるなら、あの娘のために……。そんなことが、なければいいと、願っているけど……」

 セラーヌは自分がいなくなることを前提として話していたが、カルジンはそれに反論しようとはしなかった。死に神はまもなく彼女のもとを訪れる。それは抗いようもない事実だった。ならば、死の間際くらい、彼女の自由に生きさせてやりたかった。

「おまえがオレを許しても、オレはおまえに負い目がある。あの娘に対しておまえがそうなようにな。約束する。あの娘を守ろう。白狼神にかけて」

「カルジン……」

 セラーヌは溢れ来る涙を止めようともせず、夫の胸にもたれかかった。彼女に狼が与えられることはなかったが、愛する人を手に入れることはできた。せめて娘には、その両方が与えられるようにと、切に祈りながら。

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