第二章 失われた神の祈り --- 1

 何が起こったのか、わからなかった。

 アイゼスが振り返った時、右に馬を立たせていたルース・ロートンの額に、頭巾ごと矢が突き立っていた。アイゼスがその名を叫ぶ前に、青年神官は音を立てて旅路の草むらに沈んでいった。

 突然の死を迎えたのは、ルース・ロートンだけではなかった。エルミシュワの邪教信仰を調査するため、アイゼスとともに聖都を発った《月光殿》の神官たちは全員、森から何者かの一斉射撃を受け、聖クパロの河畔にその屍をさらすこととなったのである。アイゼス自身は、盗賊風の身なりをした黒衣の男たちに拘束され、すぐに目を焼かれた。それから七日間、行方の知れぬ馬車の旅が続いた。

 目を潰された状態で、彼が辿り着いた場所がいったいどこであるのか、それはわかりようもなかった。しかし、周囲の空気の澱みと、声や物音の反響から、洞窟のような地中であることは知れた。

 自分だけが生命を奪われなかったことから、敵が彼を《月光殿》の管理官であると知っているということであり、何らかの目的のために利用しようとしていると考えていたアイゼスだが、その正否は幽閉からひと月経ってもわからなかった。それというのも、誰かに引き会わされ、また脅されることも取引を持ちかけられることもなかったためである。彼はただ鉄格子の檻の中で、周囲の物音に注意を払うことしかできなかった。食事は一日に二度欠かされることがなかったが、運んでくる者は一言も言葉を発しなかった。

 しかし、目の痛みもようやく癒えかけてきたある日、彼のもとに拘束後初めての、そして最悪の人物が訪ねてきた。

 それは最初の食事が下げられた直後のことだった。耳障りな錆付いた音とともに、鉄格子の外にあるらしい鉄扉が開き、続いて衣擦れの音がアイゼスの鉄格子の前までやって来た。彼が神経を聴覚に集中していると、微かに鼻で笑う声が聞こえた。だが、深く考えるまでもなく彼にかけられた声が、その主を明確に教えたのだった。

「光を失いながら、依然として正気を失わぬとは、おぬしこそ闇の僕であったのだな」

「そ、その声は、デドラス……!?」

 息を呑んで顔を上げたアイゼスに、聖都の《月影殿》にいるはずの同僚がおかしそうに応じる。

「いかにも、私はデドラスだ。《月光殿》の管理官殿」

「なぜ、おぬしがここに……」

 既に失ったはずの視覚が、彼の前にデドラスの姿を映し出す。しかし、それは沸き起こった疑念によってすぐに邪悪に歪んでいった。

(私を捕らえたのは、エルミシュワの暗き民ではなかったのか!? なぜデドラスがここに……!? ここは、聖都、なのか……!?)

 アイゼスは片膝を立てると、気配のする方に向かって叫んだ。

「いったい……いったい、どういうことだ!!」

「そう大きな声を出すな。響いて──うるさい」

 ひと月も消息を絶っている同僚を前に、労りの言葉どころか蔑むような態度は、もはや《月影殿》が牙を剥き始めていることを如実に物語っていた。

「……そうか。おぬしなのだな。私の目を焼き、このようなところへ閉じ込めたのは!!」

「さよう。いささか気が付くのが遅いのではないか?」

 あまりにもあっさりと頭を振るデドラスに、アイゼスは歯軋りを漏らした。

「何故このようなことを……いったい何を企んでいる!?」

「それを探る時間は今までたっぷりとあったはずだ。だが、おぬしは、その断片さえ把握していない。地上でわからぬものが、ここでわかるはずもない」

「………!」

 二の句を継げるはずもなく、アイゼスは押し黙った。《月影殿》の、また《光道騎士団》の言動が不安視され始めてから、そう日が浅いわけではない。結局、自分は何の手立ても講じられなかったのだ。

 うなだれるアイゼスにデドラスがほくそ笑んだ時、ひとりの神官が独房への通路をやって来た。彼は《月影殿》の管理官に向かって深々と頭を下げると、小声で言い募った。

「先日、サラクード・エダルが連れてきた女囚ですが……」

「どうした」

「……先ほど死にました。石を運ぶ際、梯子から落ち……打ち所が悪かったようです」

「ふむ」

「申し訳ございませぬ」

 神官は大変恐縮した様子だった。重要な囚人をいたずらに逸してしまったとあって、デドラスの怒りを覚悟しているのだろう。言わなければしばらくはごまかせるだろうが、知られてしまった時のことを考えると、身の毛がよだつほど恐ろしい。過日も、独房の女囚を逃がしてしまった神官たちが制裁を受けたばかりである。

「確かにおぬしの仕事は囚人の監視だが、足を滑らせてのことなら致し方あるまい。それで、死体はどうした」

「只今、外へ運び出す手はずを整えているところでございます」

 デドラスはわずかに眉根を寄せると、神官に向き直った。

「それはならぬ」

「は? しかし……」

「先日、胡狼どもが聖域を荒らし回ったばかりであろう。今後は別の方法で処分するのだ」

「……承知いたしました」

 神官は再び深く頭を下げると、早足で去っていった。その背を見送った後、デドラスはゆっくりとアイゼスを振り返った。

「──さて、今の話を無論、聞いていたと思うが」

 その声には笑みが滲んでおり、アイゼスは面持ちを硬くした。

「ひとつ、こちらから情報をやろう。死んだ女囚のことだが、おぬしを頼りにしていたようなのでな」

「……なに?」

「シャーレーン聖官殿のリエーラ・フォノイだ。《太陽神の巫女》の目付役の」

「な……!?」

「いろいろ嗅ぎ回って目障りになったのでな」

「デドラス、おぬし……!」

「私は私の邪魔をする者は決して許さぬ」

 デドラスが今、恐ろしいほど危険な光をその瞳にたたえているだろうことを、アイゼスは容易に想像した。

(リエーラ・フォノイが……)

 大切に育てた前年の《太陽神の巫女》の無残な姿に心を痛め、彼女は真相を明らかにしようと自分を訪ねてきた。おそらく、彼が行方不明と聞いて、今度はデドラスに相談に行ったに違いない。アイゼスは歯軋りすると、デドラスを渾身の思いで睨み付けた。

「では、何故私を生かしておく!? おぬしの前に立ちはだかるやもしれぬのに!!」

「目を失った上に両手両足に枷を嵌めた状態で、面白い言葉を吐くものだな。死にたいのならそうしてやってもいいのだが──」

 デドラスは喉でくつくつと笑いながら手を広げた。

「正直、おぬしをどう扱うか、思案中なのだ。今のところ、おぬしに表から消えてもらうだけの価値しかない。だが、早々に殺してしまって後で困るのも何なのでな」

 本来、生命の生き死には太陽神が司るものである。しかし、アイゼスの身命は今や、デドラスの手中にあった。

「さて、の責任者殿が行方不明になったおかげで、私は忙しい身の上なのだ。そろそろ失礼する。──ああ、ここの者たちを手なづけようとしても無駄だ。ここにいる者たちは、私の──いや、神の最も忠実なる僕たちばかりだからな。では、しばらくは会うこともないだろう」

 デドラスの去っていく足音を聞きながら、アイゼスはただ自分を呪うことしかできなかった。すべてが後手後手だった。捕らえられる以前、彼も徒に時を過ごしていたわけではない。だが、どの調査も結果を得る前に、自分から敵の罠に飛び込んでしまったのだ。

(唯一の頼みは、《太陽神の巫女》だが……)

 しかし、それを望むには、彼自身、あまりにも少女に情報を与えていなかった。《祈りの日》に亡くなった少女が前年の《太陽神の巫女》であったことも、そのための調査をしていたことも。リエーラ・フォノイが彼女の前からいなくなっことも、おそらく良い様に言い包められているだろう。そして、彼女が親の形見と大切にしている竪琴は、かつてアイゼスが恋人に贈ったものであるという事実も、教えぬままになってしまったのだった。



「……殿? 巫女殿?」

 手綱を持つ手をふいに引かれて、セフィアーナはようやく我に返った。はっとして顔を上げると、サラクード・エダルが少し険しい表情でこちらを見ている。

「どうされました?」

「あ、いえ……」

 慌てて頭を振り、再び前を向いた時、少女の前方には聖クパロ河に架かる吊り橋が見えてきていた。

 ……リエーラ・フォノイのことを考えていた。

 デドラスの命に従い、《光道騎士団》とともに聖都を発って五日。少女の傍らに、ずっと頼りにしてきた女神官の姿はない。出立直前になって、リエーラ・フォノイはシャーレーン聖官殿の重要な職務に就くことになってしまったという。彼女の代わりに《光道騎士団》唯一の女聖騎士サラクード・エダルが少女の面倒を見てくれることになったが、リエーラ・フォノイと何の挨拶もなしに別れてしまったことが、セフィアーナはずっと気になっていた。まさか眼前の女聖騎士によってリエーラ・フォノイが拉致されたとは思いも寄らない。

「この先に、アイゼス様に同行された方々の墓があるそうです。今日はそこで《鎮魂の儀》の後、野営になります」

「はい……」

 サラクード・エダルが世話をしてくれるといっても、リエーラ・フォノイのように色々な疑問に答えてくれたり、ましてやたわいもないおしゃべりに興じてくれることなどなかった。それは何も彼女に限ったことではなく、騎士団の誰もが無口かつ無表情で、王都の軍団のような陽気さは微塵も無い。セフィアーナにとって、黒衣で夜にのみ行軍する彼らのほうが闇の民のような気がしてならず──無論、その疑問に答えてくれる人物もいない──、聖都を発ってからというもの、少女は孤独だった。

 アイゼス一行が襲撃された現場は、森の最中にあった。事件からひと月以上も経っており、また捜索隊が先に訪れ調査を済ませていたこともあって、セフィアーナの目には普通の森の道にしか見えなかった。しかし、少し森の奥に分け入った場所に十数基の墓が設けられており、神官たちが生命を落としたことは紛れもない事実だった。

「どうか、安らかに……」

 死者たちに《鎮魂歌》を捧げるのは、《太陽神の巫女》たるセフィアーナの役目である。森の朝、夏の日差しが霧を追い払おうとする中、彼女の玲瓏たる歌声が木々の間を渡っていった。

 現実を目の当たりにした今、気がかりなのは何といってもただ独り、エルミシュワの暗き民に捕らわれたという《月光殿》管理官の身の上である。

(アイゼス様、どうかご無事で……!)

 神官として生きる道標となっている彼の無事を、そしてエルミシュワで虐げられているという神の子らの一日も早い解放を、セフィアーナは切に祈るのだった。



《鎮魂の儀》の後、軽食を済ませ、一度は寝床に入ったセフィアーナだったが、外の明るさになかなか寝付くことができなかった。何度か寝返りを打った後、溜め息とともに身を起こす。

「どうして昼間に移動しないのかしら……」

 一人用の小さな天幕は、手を伸ばせばすぐ入口に手が届く。少し幌をめくってみると、外は眩いほどの良い天気だった。

「……なんだか気がおかしくなりそう」

 昼夜逆転した生活は、五日経っても少女の身体に馴染まなかった。サラクード・エダルには騎士団の規律に従うようきつく言い渡されていたが、そのまま眠れるはずもなく、セフィアーナは外套を纏い直すと、静かに天幕を出た。

 外には、《尊陽祭》の聖儀でひれ伏していた人々のように、小さな天幕が隙間無く並んでいた。その間の通路には、等間隔の距離を置いて、黒衣の聖騎士が見張りに立っている。幸い、近くにサラクード・エダルの姿は無く、セフィアーナは何食わぬ顔をして聖騎士たちの前を通り過ぎると、森の中へ入った。

 大勢の騎兵に驚いたのだろう──少女は今回の遠征に派遣されている人数さえ知らなかったが──、初めは鳥の声などもまったく聞こえず、森の中は静まり返っていたが、しばらくすると風の音とともに鳥や動物の鳴き声が聞こえるようになってきた。

「やっぱり森の中は気持ちがいい!」

 ダルテーヌの谷にいる時はほとんど毎日、森に出かけていたセフィアーナである。爽やかな空気を胸にいっぱい吸い込んで、その足取りはいっそう軽やかになっていった。

「……あら? この音……」

 耳をそばだてると、水のせせらぐ音が聞こえた。近くに沢があるのかと彷徨っていると、突然、木々が途切れ、清らかな小川が姿を見せた。

「聖クパロ河の支流かしら」

 屈んで手を水に浸すと、真夏にもかかわらず、水は冷たかった。地下湧泉が近いのかもしれない。セフィアーナは両手で水を掬うと、二、三度喉を潤した。水筒に入れて持ち運んでいる水は、どうしても温くなってしまう。こうして冷たい水を飲んだのは久しぶりだった。

「さて……そろそろ戻らなくっちゃ」

 まだまだ森を散策したかったが、当分夜の旅は続くのだ。初日のように馬上で舟をこぐような真似は、もはやできない。溜め息とともに膝を手で押しながら立ち上がった瞬間、ぶちっと音がして、何かが煌きながら水の中へ飛び込んでいった。

「えっ……えっ!?」

 衝撃を受けた首筋を撫でたセフィアーナは、無くした物が大切なものであることにすぐ気付いた。

「ボ、ボロドン貝の首飾り……!」

 それは鷹巣下りの旅の際、双子王子からもらった物で、同行した者たちの絆でもある。

「う、嘘でしょ……!?」

 慌てて水面を覗き込んだが、彼女の足元は運悪く、すぐ上流の岩が作り出した急流となっており、首飾りはもはや見る影もなかった。

 どうしようと考える間もなく、少女の足は下流に向かって走り始めていた。必ずどこかに流れの遅い場所や水溜りがあるはずである。王子たちや王都の友人たちとの思い出の証を失うなど嫌だった。それだけではない。首飾りを眺めることは、今の孤独な彼女の慰めにもなっているのだ。失うなど、ありえない。

 必死の思いで小川に沿って走ったセフィアーナだが、無論、崖沿いになっている場所も多く、首飾りを探そうにも水面さえ見えない場所もあった。

「こんなことなら、天幕でおとなしく寝ておけばよかった……!」

 しかし、後悔とは先に立つものではない。瑠璃色の瞳に涙を滲ませながら岩を飛び越えて走っていくと、突然、視界が開けた。やはり森の中を流れてきた小川と彼女がなぞってきた小川が合流し、少し広い川となっていたのだ。

「そ、んな……」

 絶望に打ちひしがれて少女が蹲った時、少し下った辺りで声が上がった。引き寄せられるようにそちらへ歩いていくと、十歳くらいの少年がひとり、掬い網を片手に嬉々として水から上がるところだった。よく見ると、掬い網の中には両手に余るほどの大きな魚が勢いよく跳ねていた。

「やったぜ! 今日の昼飯はこれで決まりだ!」

 少年は自らも飛び跳ねながら、脇に造っておいた臨時の生け簀に魚を移した。満足げな表情で立ち位置に戻った時、少し離れた場所に立ち尽くしていた少女に気付いた──までは良かったのだが、驚きのあまり足を踏み外し、魚を入れたばかりの生け簀に自らも落ちてしまった。おかげで魚は石の崩れたところから逃げ出し、再び川の住人となった。

「うっそだろ!? せっかく……!」

 深い悲しみとともに水面を見つめていた少年だったが、背後に歩いてきたセフィアーナの謝罪に、泣き笑いの表情で首を振ってくれた。

「ここ辺じゃ見ない顔だね。旅の人?」

「え、ええ……」

 普段なら何のことはない質問だが、《光道騎士団》と夜中に行動していることが少女の声から覇気を奪っていた。

「こんなところで何してんの?」

「ちょっと……探し物を……」

 そう言って、セフィアーナは少年の肩越しに川の流れを見つめた。もう、首飾りがどこに行ってしまったか、わかるはずもなかった。

「川に、大切な物を落としてしまって……」

「だからそんな悲しそうな顔してるのか」

 少年の気遣いに、セフィアーナは小さく苦笑いした。

「あなたもね。魚のこと、本当にごめんなさい」

「オレはいいよ。また釣ればいいんだし。でも、ねえちゃんのは……」

 少女の落胆振りを見て取って、少年も視線を川に戻した。しかし、その小さな手が掬い網を持ち直した時、信じられない物がセフィアーナの目に映った。思わず、口を手で覆う。

「神さま……!」

 なんと少年の掬い網に、首飾りが引っ掛かっていたのだ。

「へ? なに……?」

 少女の視線を追っていった少年は、自分の掬い網に引っ掛かっている物を手に取った。

「何だこれ。ヘンな形の石だなあ。でもキレイな色」

「石じゃないわ。ボロドン貝っていうのよ。海に住む生き物なんだって」

「海!? ねえちゃん、海を見たことがあるの!?」

「ええ……」

「すっげぇすっげぇすっげぇ!」

 少年はまた飛び跳ねてまた川に落ちそうになり、セフィアーナは慌てて彼の衣服を掴んだ。

「海ってすっごくおっきいんだろ!? この川をずっっっっと下って行ったら見れるってじっちゃんが言ってた。オレ、海を見るのが夢なんだ!」

「ええ、とっても大きくて広くて……。私、海から朝陽が昇るのを見たけど、本当に本当に綺麗だった……」

「へぇ……いいなぁ」

 夢見心地で手のひらの貝を眺めていた少年だが、我に返って少女を見上げた。

「あ、じゃあ、ねえちゃんの探し物ってこれなんだ?」

「……ええ」

 少年があまりにも熱心に貝を見ていたので、返して欲しいと言い出せずにいたセフィアーナだが、少年は首飾りをしっかりと彼女の手に握らせてくれた。

「ねえちゃん、見つかってよかったね」

 少年の満面の笑みに、セフィアーナの表情も和らぐ。

「ありがとう。本当にありがとう。あなたのおかげよ」

「ううん、違うよ。ねえちゃんが一所懸命探してるのを、ちゃんと神さまが見てたんだよ」

 言って少年は、空を指差した。その先で太陽は先刻よりさらに高みへ昇っており、セフィアーナは今が就寝時間であることを思い出した。

「あ、いけない! そろそろ戻らないと……」

 首飾りの紐を結び直して首に掛けると、セフィアーナはもう一度、少年に礼を言った。彼に見送られながら来た道を戻ろうとした彼女だが、ふと足を止めて振り返った。

「あなたはこの辺に住んでるの?」

「え、ううん。この先の高原だよ」

「そ、そう……」

「ねえちゃん、また会えるといいね!」

 少年の無邪気に手を振る姿は、とても邪教の徒にも、逆に彼らに迫害される民にも見えなかった。

 セフィアーナは一抹の不安を胸に、再び森の中へ入った。



「巫女殿、規律を破られては困りますね」

 少年と別れてすぐ背後から掛かった声に、セフィアーナは飛び上がるほど驚いてしまった。振り返ると、木に片手を付いて、ひとりの聖騎士が立っていた。漆黒の頭巾から覗く顔はまだ若く、どこか王都のユーセットに雰囲気が似ていた。

「あなたは──」

 恐縮しつつも困惑する彼女に、青年聖騎士はにこやかな笑みを浮かべて近づいて来た。

「ガレイド・エシルと申します。《太陽神の巫女》」

「あの、ごめんなさい。すぐに戻るつもりだったんですけど、川に大切な物を落としてしまって……」

 もしや皆に探させてしまったのだろうか。クレスティナの時と同じように、サラクード・エダルにも迷惑をかけてしまったのだろうか。縮こまる少女に、ガレイド・エシルは笑いをかみ殺すようにして言った。

「大丈夫ですよ。まだ皆、寝ています。貴女のお守り役もね」

「えっ? あ、そうですか。よかった……」

 セフィアーナはほっと胸を撫で下ろした後、ふと我に返って、まじまじと聖騎士を見上げた。

「何か?」

「い、いえ、あの……聖騎士の皆さんは、全然お話をなさらないから……」

 実際、旅に出て、サラクード・エダル以外の聖騎士と話をしたのは、彼が初めてだった。

「ああ、無駄口は規律違反ですからね」

「規律違反……」

「まあ、今は、規律違反の貴女と二人ですから、告げ口される心配もないというわけです」

「まぁ」

 思わず吹き出したセフィアーナだった。ひとつには気軽に話ができる人物が身近にいることがわかって、安心したのだ。

「ガレイド・エシルはこんなところで何を?」

「私ですか? 私はしがない見回りですよ」

「ああ……私と違って、ちゃんとお仕事ですね」

「ええ」

 野営の場所に戻りながら、セフィアーナはずっと疑問に思っていたことを聖騎士に尋ねてみた。

「あの……なぜ昼間に移動しないんです? 夜は危ないし、神さまがいらっしゃらないのに出歩くのは、神官として御法度では……」

 すると、ガレイド・エシルは少し意外そうな顔をして答えてくれた。王都を出立してから日が経っているので、今さらな質問だと思ったのだろう。

「邪教の徒から身を守るためです。集団で移動すると目立ちますからね。夜の闇に紛れたほうがいいのです」

「それで……」

「ですから、先ほどのように見知らぬ者と話をするのは、決して好ましいことではありません。いつ、どんな形で、敵にこちらの情報が漏れるかわかりませんからね。下手をしたら、管理官殿のお命を危険にさらすことになるやも」

「あ……!」

 自分の勝手な行動がまたしても重大な事態を引き起こしかねないものだったと知って、セフィアーナは今度の旅こそは大人しくしていようと思った――その前に、サラクード・エダルの説教を聞かなければならなかったが。

 少女の天幕の前で、女聖騎士は彼女の帰りを待ち構えていた。いつにもましてその表情がきつくなっているのを認めざるを得ない。

「《太陽神の巫女》――」

「ごめんなさい!」

 こうなれば謝り倒すが勝ちである。とにかく全面的に自分が悪いのだ。

「もう勝手に出歩いたり絶対にしませんから! 本当にごめんなさい!」

 深々と頭を下げる少女に、後ろを付いてきていたガレイド・エシルが助け船を出してくれた。

「きみも守り役なのに、巫女殿が抜け出したのに気付かなかったんだ。今回はこの辺で許してやれ」

「しかし……!」

 サラクード・エダルはまだ憤懣が収まらない様子で、少女を睨み付けた。

「王都に行ったはずの貴女の噂がカイザールから届いていたことを考えると、やはり上将軍のせいだけではないようですね」

 反論の余地もない。セフィアーナはますます小さくなった。

「もう出発まであまり時間がありませんが、少しでも休んで下さい。金輪際は許されませんよ」

「申し訳ありませんでした……」

 セフィアーナは女聖騎士に今一度頭を下げると、かばってくれたガレイド・エシルにも礼をして天幕に入った。それを見届けて、ガレイド・エシルは踵を返した。

「あまり眉間に皺を寄せるな。消えなくなるぞ」

 その軽口に、サラクード・エダルはいっそう厳しい表情を浮かべると、彼を追いかけた。

「《紫影》、お待ちを!」

 瞬間、ガレイド・エシルの瞳が妖しく煌めく。

「おっとぉ。こんな場所でその呼び名を口にするのは御法度だよ、サラクード・エダル」

「すみません」

 しかし、彼女に悪びれた様子はなく、ガレイド・エシルは軽く首を竦めた。

「なに、皺のことなら悪かったよ。もう言わない」

「是非そう願いますが、そのことではありません」

 サラクード・エダルは青年の背後に回り込むと、小声で囁いた。

「……まさか、彼女を連れ出したのは、貴方ではないでしょうね?」

「そりゃ大きな誤解だよ」

 ガレイド・エシルは腕を大きく拡げると、女聖騎士を振り返った。

「たまたま巡回区域にいたから、自己紹介をしただけさ」

「……それならばよろしいのですが」

「きみも難儀なことだね。二人もお守りをしなくてはならないなんて」

「同情より御協力をお願いします」

 淡々と言い返す女聖騎士に、ガレイド・エシルはやれやれと手を閃かせながら去っていった。

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