第一章 闇に掴むもの --- 4

  ときを止める

  それこそ私の力

  それこそ私の罪

  神よ

  私は永遠に貴方の傍で

  貴方から授かった力を忘れ

  ただ貴方の鼓動を聞いています


    (テイルハーサ《聖典》「システィの章」)



 軍靴で石畳を鳴らしながら、シダは昼下がりの王宮の回廊を足早に歩いていた。真夏の日差しが柱の影を色濃く落とし、四方に首を巡らせても、あまりの暑さに人の姿は皆無だった。耳を澄ませば、じりじりと壁の焼ける音が聞こえてきそうである。

「いったいどこに……」

 ひとりごちて、いったん建物の中に入る。途端、空気がひんやりと身体を包み、青年は思わず身震いした。

 昼食の後、双子王子は弓の稽古をする予定となっていた。しかし、時間を過ぎても二人は現れず、シダはクレスティナに探して連れてくるよう言い渡されたのだ。

 要所要所で出くわす同僚たちに王子たちを見かけなかったか尋ねながら、シダはついに宮殿の端の方まで来てしまった。引き返そうとして、ふと庭の小さな礼拝堂に視線が留まった。サイファエール王宮が最初に建てられた頃からあるもので、老朽化のため、近く建て替えされることが決まっている。その入口の扉が、わずかに開いていた。

「まさか……」

 シダが扉の隙間から中を覗くと、案の定、双子侍従の間で、双子王子が祈りを捧げていた。四人とも祭壇の前で膝を着き、微動だにしない。声をかけるのをためらうほど、それは熱心な姿だった。

「ミール様、マリオ様」

 突然、背後から名を呼ばれ、振り返った王子たちは、シダがそこにいることが不思議な様子だった。

「お二人とも、もう稽古のお時間ですよ。小隊長が中庭で首を長くして待っておられます」

 思わず息を呑んだのは、侍従たるサウスとクイルだ。彼らがしっかりしていないせいで、シダが足労することになったのだが、そんな二人を一瞥しただけで、青年は王子たちに視線を戻した。

「さあ、お早く」

 腕を拡げ、出口へと促す。そんな彼を、コートミールの遠慮がちな声が呼び止めた。

「あ、の、えっと……」

 普段とは違う、少年の困惑した表情に、シダはすぐにコートミールのもとに戻ると、膝を折った。

「ミール様、なんなりとおっしゃって下さい」

 親友の笑顔が王宮から消えて数日余り、依然として揺れているサイファエール王宮において、少年たちの心はやはり揺れているはずである。これ以上、彼らの負った傷を拡げないために、どんな声にも耳を傾けてやりたかった。

「シダは……今、イスフェルがどうしてるか知ってる……?」

 その問いが発されることを、シダは心のどこかで予想していた。

「いいえ」

「ほんとうに……?」

「はい。彼は今、中央裁判所の地下牢におりますが、会えるのは特別刑務官か専任神官だけです。イスフェルの友人にイオ・カスキーという神官がおりますので――」

 途端、唇を強く引き結んで立っていたファンマリオが、顔をほころばせた。

「あ、その人、知ってる! 王都に来た日に紙をくれた人だっ」

「……その者のつてで、どうにか様子がわからないか尋ねてみたのですが……」

 影の差すシダの表情に、ファンマリオはすぐに笑顔をひっこめ、コートミールは項垂れた。

「……ボク」

 捧げていた祈りが報われないのをたまらなく思ったのだろう。ファンマリオの小さな声も握りしめた小さな拳も震えていた。

「ボク、このままイスフェルとお別れなんて絶対にイヤだよ……」

「マリオ様……」

 シダの困ったような顔を見て、コートミールは弟の腕を小突くと、青年に向かって微笑みかけた。

「シダは偉いな」

 少年の突然の賛辞に、シダは明るい茶色の瞳を瞬かせた。

「この間、母さ……母上にしかられちゃった。シダたちのほうがイスフェルとずっといっしょにいて、オレたちよりもずっとずっとつらいんだから、オレたちはわがまま言っちゃいけないって。オレたち、みんなのことずいぶん困らせちゃったから……。ごめんな、シダ」

 少年の、切ないほど優しい笑顔に、シダは不覚にも言葉を失った。このような状況で、これほどまでに強く心根の優しい彼に、すぐにでも感謝を伝えたいのに。あまりにも長い沈黙に、サウスが遠慮がちに青年の名を呼ぶ。

「……そうですか。レイミア様がそんなことを……」

 そう言って、目頭の熱さをなんとかやり過ごすと、シダはようやく顔を上げた。

「ミール様、私は少しも偉くなどありません。もし仮に私が偉いとするなら、それはお二人のおかげです。お二人がいてくださっているから、私はがんばれるのです」

「オレたちが……?」

「こんな事態になってしまったことはとてもつらいことですが、イスフェルは今でも……今でも私の大切な友人です。彼の夢は、お二人とともにみんなが幸せに暮らせる国をつくることでした。そして私やセディスは、彼からその夢を分けてもらったのです。彼が……いなくなってしまった今、その夢だけが私たちの支え。お二人がいてくださることこそ、私の支えなのです」

 あの運命の日、彼はただ演舞台の燃えさかる炎を消すことしかできなかった。イスフェルを止めることもできず、彼を闇の奥へ連れ去っていく同僚たちを止めることもできなかった。自身に対する溢れ来る憎しみ。呷った酒杯の数より、吐き出した呪いのほうが多かった。しかし、やがて彼の腑に沁みだしてきたのは、失った親友の言葉だった。

『オレは、おまえには近衛に居て欲しいと思ってる。オレたちの夢のために、そしてサイファエールのために』

 王弟の息子リグストンの行状に絶望し、近衛をやめようとしていたシダを、そう言って留めてくれたイスフェル。長い間、彼とともに思い描いていた夢は、このままでは跡形もなく消え去ってしまう。

『目の前に高い壁ができたから迂回する、道がぬかるんでいるから引き返す、では結局、何も成し得ない』

 もともと、あれこれと考えるのは、シダの得手ではない。

(オレは、真っ直ぐにしか進めないんだ……!)

 イスフェルが反逆者とされても、彼の夢までが反逆に染まったわけではない。ならば、今まで通り、夢を追えばいいことだ。そして、もしいつか、それを果たすことができたら、親友が生きていた証と自分の心に刻めばいい。

「シダ……」

 ふいに伸びたコートミールの手が、シダの胸を飾る王家の紋章に当てられた。

「……オレ、父上に、次の王様になるように言われたんだ」

「はい。存じ上げております」

 それこそ、青年の新しい夢の第一歩だった。

「オレ……とても自信がないよ」

「私たちが傍におります、と申し上げても、頼りないですか?」

 シダが首を傾げると、コートミールは徐々に顔をほころばせ、首を横に振った。

「オレもがんばるよ。がイスフェルの夢を追いかけてる限り、イスフェルはそばにいてくれてるはずだから」

「我が君……」

 シダは剣を鞘ごと腰から引き抜くと、深く深く頭を垂れた。



 その日の出仕を終えた後、シダは王宮を出た足で、ララ運河の南岸にある歓楽街へと向かった。太陽が沈みゆく中、通りでは派手に篝火が焚かれ、客引きの女たちが往来の男たちに声をかけている。近衛兵団の制服をまとったままのシダが通りかかると、彼女たちは我先に彼のもとへ集まってきたが、彼はそれをまったく無視し、やがて見えてきた『紅爪館』という娼館に入った。

「これはエストール様。よくいらっしゃいました」

「一度しか来たことのない客の名前をよく憶えているな」

 シダは歩み寄ってきた案内係の男をじろりと見ると、「ならば」と言を継いだ。

「以前、オレをここへ連れてきたヤツは、今日も来ているか?」

「ガルウォード様ですか……?」

 間髪答えた彼にシダは内心で目を見張ったが、男の目が一瞬泳ぐのを見て先手を打った。

「オレの格好を見れば、頭の良いあんたなら嘘を吐く必要はないと、無論わかるよな」

「……こちらです」

 男は困ったように笑うと、二階へと続く階段に足をかけた。

「あの、差し出がましいことを申しますが、そのように御立派な衣装で花街にいらっしゃると、色々と……」

「いいから早く案内しろ。こうなったのも、あのバカが居るべき場所にいないからだ」

 通されたのは、二階の角部屋だった。乱暴に扉を開くと、酒瓶を持っていた女が小さな悲鳴を上げ、杯から溢れた酒で手を濡らされた男が不機嫌そうに寝椅子の上で振り返った。

 シダは、そのよく知った顔を睨み付けた。

「まったく、どいつもこいつも探させてくれるぜ。なあ、よぉ」

 シダは女の手から酒瓶をひったくると、音を立てて卓上に置き、自分は窓辺へと歩いていった。

「何の用だ、シダ」

 その時、紗の隙間から漏れ入った残光がシダの胸の紋章を煌めかせ、セディスは、しかめた顔をいっそう歪めた。

「おまえ、その格好でここの通りを歩いてきたのか?」

 それには答えず、シダは再び歩みを進め、寝椅子の後ろへ回った。

「おまえ、最近ずっとここに入り浸っているようだな」

「何が悪い? 出仕はしているぞ」

 身は起こさず、首だけで自分を見上げてくる友を、シダは唾棄する思いで見下ろした。

「だから悪いんだ。してるだけだろ」

「なに?」

「おまえはただ書類を事務的に捌いているだけだ。そうだろ」

「それが書記官の仕事だ」

 気を利かせて席を外そうとする女の手を掴むと、セディスはわざわざ自分の隣に座らせた。それを見たシダは、眉尻をいっそう持ち上げた。

「ああ、そうかよ。たとえ東の町で流行病が発生しても、おまえはその報告書を眺めるだけか。難破船の生存者がいたとしても、警備隊に書類を回すだけか。恥を知れ、セディス」

「なんだと……?」

「フン。イスフェルがいなくなったぐらいで、人生終わったような顔しやがって、つまんねぇ野郎だな!」

 瞬間、セディスの顔色が変わった。

「こいつ、言わせておけば……!」

 セディスは背もたれに手を着いて身を跳ね上げると、寝椅子を飛び越えた勢いそのままに、シダを壁へ叩きつけた。

「よくもそんな、『イスフェルがいなくなったぐらいで』だと!? よくも、よくもそんなことが言えたな、シダ=エストール!」

 喉元に押しつけられた短剣を見て、シダは口の端をもたげた。

「へっ。天下の近衛兵相手に剣を抜くとは、イイ度胸じゃねぇか。セディス=ガルウォード!」

 シダは素手で短剣を掴むと、セディスが怯んだ隙に体勢を逆転させた。

「オレが何も知らないと思うのか! 上の空で仕事した挙げ句、上官にケンカふっかけたらしいじゃないか! 家へ行けばずっと帰ってないと言われるし、この状況のどこをどう解釈したら、つまらなくない人間だと言えるんだ!?」

 依然として短剣を強く握りしめているシダの拳から血が滴り落ち、女が慌てて二人の間に割って入った。

「お二人とも!」

「止めてくれるな! こいつ、このままじゃ腐っちまう!」

「わかってます、止めは致しません! その代わり、表でやって下さい!」

 思わず、目を丸めたシダだった。呆然として女を見下ろすと、彼女は毅然とした眼差しで彼を見返してきた。これにはひどく気を削がれて、シダは大きく吐息すると、打ちひしがれたようなセディスには目もくれず、寝椅子に腰を下ろした。そこで上着を脱ぎ捨て、女に酒を要求する。

「……まったく、どいつもこいつもシケたツラしやがって……」

 差し出された酒杯を引ったくると、シダはそれを呑むというよりはかぶるといった体で呷った。

「まだイスフェルの夢を追いかけてるのは、オレと王子方だけかよ! 情けねぇ!!」

 背後で乾いた音がした。親友の血が付いた短剣を、セディスが取り落としたのだ。続いて聞こえた衣擦れの音は、彼がそのまま床に座り込んだものだろう。

「……オレ、カイザール城塞で小隊長に『おまえはイスフェルに依存しすぎる』と言われた。それは、おまえにも当てはまるみたいだな、セディス」

「………」

「だがオレは、そんな自分と決別したぞ。オレはオレの仕事を――近衛で鷹の雛を守り抜く。これはイスフェルに言われたからじゃない。オレたちの夢を、オレなりに果たすためだ」

 その時、セディスの小さな笑い声がシダの耳を打った。振り返ると、友人は壁にもたれたまま、真っ直ぐと彼を見ていた。

「言ってくれるぜ……」

 セディスは手を伸ばして短剣を拾うと、それを宙にかざした。

「……おまえ、こんな日が来るなんて、考えたことあったか? あいつが、あのイスフェルが、よりにもよって反逆罪で……」

「あるわけないだろ。たとえ神が西から昇ることがあっても、あり得ないことさ」

 セディスは再び笑った。

「オレは歯痒いのさ。あいつは、まだ生きてる」

 彼の瞳に湛えられた真摯な光に、シダは寝椅子の背から身を乗り出した。

「セディス、バカな気を起こすな。あいつの二の舞になる気か。だいたい、あいつはそんなこと望んじゃいない」

「わかってるさ。オレだって、夢を諦めたわけでも、まして忘れたわけでもない。王子方に、これ以上、心細い思いをさせるつもりもない」

 ただ、イスフェルを失ったという事実を、受け入れたくて躍起になっていたのだ。酒に溺れて醜態をさらしている自分を見れば、信じられるかもしれないと思った。シダに指摘された通りだった。彼はイスフェルに依存していたのだ。

「――さっき、王子方がオレたちの夢を追ってると言ったか?」

「遅ぇよ」

 傍らにあった小さな枕をセディスに向かって投げつけると、シダは正面を向いて座り直した。

「まだ八歳でいらっしゃるというのに、ミール様は国王となる覚悟を決めておいでだ。雛とはいえ、さすが天空の覇者」

 セディスはようやく床から立ち上がると、シダの前の椅子に腰を下ろした。そこに部屋の隅で二人の様子を窺っていた女が歩み寄り、セディスに酒を注ぐと、シダの傷の手当てを始めた。

「ところで、今日、ユーセットに会ったか?」

「いや、今日は会っていない」

 首を振る友人を見て吐息すると、シダは丁寧に巻かれていく包帯を見つめた。

「一昨日も探したんだが見付からなかったし、昨日は休みだったらしいし、あいつ、こんな時にどこほっつき歩いてやがる」

 セディスは、宰相の葬儀の翌日、補佐官室のイスフェルの机の前で佇んでいたユーセットの後ろ姿を思い出した。半ば殺気立ったような空気を周囲に張り巡らせていた彼と、それ以来、会えずにいた。

「ユーセット殿は、どうする気だろうか……」

「どうするって……何だよ」

 不安げな表情を浮かべるシダを一瞥すると、セディスは酒で唇を湿らせた。

「あの人は、亡き宰相閣下に見いだされて、イスフェルの目付役になっただろう。そして、オレたちよりも遥かにイスフェルに期待していた。夢も、イスフェルあってこその夢だったはずだ。杖が、折れてなければいいが」

 それを聞いたシダは、盛大な溜息を吐き出した。

「折れたものを、曲がってくっつけようとしてても大変だぜ。まったく、どいつもこいつもシダ様に面倒かけやがって」

 普段なら「何が『シダ様』だ」と突っ込むところだが、苦笑いしたセディスは、「まったくだな」と呟いて酒杯を呷った。



 シダとセディスに所在を案じられたユーセットは、同時刻、リオドゥルクの丘の隣、王立学院の学院長室にいた。

「嘆願書、だと?」

 在任十二年目の王立学院長カトレンは、目の前に座ったユーセットの顔を険しい面持ちで見遣った。

「はい、先生」

「しかし、ユーセット。イスフェルには既に陛下が刑を下された。もはや覆されるものではない。それを、この期に及んで反逆者の減刑を求めるなどしてみよ。おぬしの宮廷人としての立場はいっそう危うくなるぞ。望んでわざわいを買うこともあるまい」

「すべて、承知の上です」

 カトレンは長く白い髭を撫でながら吐息した。在学中から冷静一徹だったユーセットだが、今、その緑玉の瞳の奥ではゆらりと炎が揺れていた。

「……ウォーレイ殿との約束を果たすためか」

「イスフェルは、まだ生きています。今、彼を守れるのは、私しかいません。先生、どうか、筆頭に署名をお願いします」

 椅子の上で頭を垂れるユーセットに、カトレンは筆を取った。

 彼とて教え子の命が奪われるのを黙って見てはいられない。しかもイスフェルには、学業にも人柄にも並々ならぬ期待をこめて学院から送り出したのだ。しかし、教え子はイスフェルばかりではない。目の前の青年もまた、彼にとっては大切な教え子だった。

「嘆願書は、より多くの悲しみと憎しみを集めるだけだ。代わりに、私が陛下にお手紙を差し上げよう。おぬしは使者としてそれを届けるのだ。そして、それを最後に、自分のあるべき場所へ帰れ。おぬしは鷹巣下りにも参加した身。イスフェルの代わりに、王子殿下のおそばにいなさい」

 ユーセットは眉根を寄せたが、口を開く前にカトレンに首を振られ、唇を噛みしめた。

(オレは、諦めない……)

 恩師の筆から滴る黒墨に、ユーセットは王宮に蠢く闇を見ていた。

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