第六章 翻りし白銀鷹旗 --- 6

 何が起こったのかわからなかったのは、イスフェルも同じだった。傍らにあったはずのものが、予期せぬ方へ引きずられていった。咄嗟に伸ばした手は虚しく空を掴み、気付いた時、美しい少女は床の上に崩れ落ちていた。

「セフィアーナ……!!」

 近衛兵らが一斉にゲルドを取り押さえる中、クレスティナは転がり這うようにして少女に駆け寄った。

「セフィアーナ! セフィ! セフィ!」

 しかし、少女はぐったりとして、返事どころか反応さえ示さない。

「軍医だ、軍医を呼べ! 解毒剤を……!」

 近衛兵に指示するゼオラの声も、半ばうわずっていた。

(これは、いったい……)

 目の前で繰り広げられている光景が信じられず、少女の傍らに跪いたイスフェルは、何もできずにいた。見下ろせば、いつもは薔薇色を帯びているセフィアーナの頬は、生気を欠いて青白く、その白い腕は、死人のそれのように力なく床に垂れている。

(――死人……!?)

 ドクッと心臓が跳ね上がる。イスフェルはその焦燥感を無理矢理ねじ伏せると、横で立ち尽くしている男の顔をゆっくりと見上げ――そして愕然とした。リグストンの青褐色の瞳の中に、ひとりの少女を己の盾としてしまった後悔や狼狽など、微塵もなかった。そこにあるのは、彼を不当に非難し屈辱を与えた者への憎悪、ただそれだけだった。

 にわかに全身に流れる血がかっと熱くなった。

(――ああ、この男は……)

 イスフェルはふいに立ち上がると、大広間の中央に歩いていった。近衛兵に引っ立てられ、項垂れているゲルドの前に立つ。

「ゲルド、教えてくれ。毒は何だ」

 その声のあまりに静かなことに、ゲルドははっとして眼前の青年の顔を見つめた。彼に向けられた藍玉の瞳は、大罪を犯した彼を少しも責めていなかった。むしろ、憐れみ助けようとでもするかのような眼差しだった。

「ダ、ダリオーグだ……」

 途端、周囲の近衛兵たちが息を呑む。

「ダリオーグだと……!?」

 それは同名の魚が持つ猛毒で、ほんの僅かでも体内に入れば即死するという恐ろしい代物だった。麻酔薬としても使われているが、量を間違えれば解毒剤など意味はない。

 イスフェルは無表情のまま踵を返すと、再びセフィアーナの側に跪いた。その細い手首を取り上げ、脈をとる。

 ……とくん、とくん、とくん……

 弱いが規則的に刻まれる生命の音を指先に感じて、イスフェルは目を強く綴じた。胸がいっぱいになり、思わず大きく息を吐き出した。

「イスフェル……?」

 クレスティナの祈るような声に、イスフェルはようやく普段の笑みを取り戻した。

「針を、捜してください。次に刺さったら、今度こそ彼女が死んでしまう」

 息を殺して見守っていた人々から、わっと歓声があがる。

「静かに! 落ち着くのだ!」

 沸き立つ者たちを制すると、ゼオラはクレスティナに少女を横にするよう促した。

「どこに針があるかわからぬからな、慎重にだぞ……」

 女性であり巫女であるセフィアーナの身体に、男たちが触れるわけにはいかない。少女の身はクレスティナに任せ、自分たちは目を皿のようにして床を探した。一方のクレスティナは、どこに潜んでいるかしれない針を、衣服のひだのひとつひとつをめくって探した。宴の席ということもあって、少女は薄布の装飾がたくさん施されたものを纏っており、そこからたった一本の細い針を見付けるという行為は困難を極めた。下手をしたら、自分の指を刺しかねない。しかし、彼女は自分の生命の心配など微塵もしていなかった。セフィアーナを失っていたら、とうになくなっていたものだ。

「ない……ここにも、ない……」

 唇をきつく引き結ぶと、クレスティナはそっとセフィアーナの羽織りを取り去った。薄荷色の上着の隅々まで調べても、まだ針は見付からなかった。彼女の内に、焦りが募る。その時、イスフェルがクレスティナの名を呼んだ。

「彼女は大丈夫ですよ。神の娘です」

 それはまるで自分に言い聞かせるような言い方であったが、大きく頷いてみせる青年に、クレスティナは強張っていた顔を緩めると、再びセフィアーナに向き直った。上着を留めていたひとつの釦をはずし、ゆっくりと脱がせる。

「………?」

 そこに意外な物を見付けて、クレスティナは首を傾げた。

「これはメルジア様の――」

 いつか見た王妃の懐剣が、なぜかセフィアーナの懐に抱かれていた。そして――。

「あった……」

 のろのろと手を伸ばすと、クレスティナは指でそれを摘み取った。探し求めていたものは、懐剣の柄と鞘の間に挟まっていた。

「あったぞ……!」

 クレスティナの歓喜の叫びに一瞬、場内はしんとし、次の瞬間、先刻よりも大きな歓声が響き渡った。イスフェルの言うとおり、セフィアーナはまさに神の娘だった。

「……しかし、刺さらなかったのなら、なぜ巫女殿は意識が不明なのだ」

 ふと、ひとりの近衛兵が呟き、それに周囲の者が顔を見合わせた。

「セフィ、セフィ」

 クレスティナが再び呼びかけてみても、やはり反応はない。その時、彼女の背後で悲痛に満ちた叫びが上がった。

「申し訳ございませんっ」

 見ると、近衛兵がひとり、床の上にひれ伏していた。

「どうした、エルスモンド」

 ハイネルドが不審げに尋ねると、エルスモンドと呼ばれた近衛兵は頭を床にこすりつけたまま言った。

「わ、私の肘がっ。私の肘が巫女殿に……巫女殿の頭に……!」

 針が飛んできた時、エルスモンドは咄嗟にリグストンの前に出ようとした。しかし、そこへ反対側から当のリグストンによってセフィアーナが引きずり出され、彼の肘が少女のこめかみに直撃してしまったのだ。

「申し訳ございません……!」

 額輪を傷だらけにして謝罪する彼に、ゼオラは小さく息を吐き出した。

「おぬしはすることをしたまでだ。誰にも詫びる必要はない」

「はっ、は……」

 縮こまるエルスモンドからクレスティナに視線を転じると、ゼオラは自分の外套を背から取り外した。

「クレスティナ、セフィアーナを部屋へ連れて行け。近衛兵の鍛えられた肘をぶつけられたとあれば、どちらにしても危ない」

「はっ」

 クレスティナは受け取った外套に自分の外套を重ねて担架を作ると、その上に少女を横たえた。その角を近衛兵たちが率先して持つ。許されても、まだ自分の中に罪悪感を抱えているのだろう、そのひとりにエルスモンドも加わった。

「……宴は終わりだ」

 一行が出ていった後、ゼオラはハイネルドに向かって言い、自らも出口に足を向けた。途中、立ち尽くしたままのリグストンを一瞥するが、表立っては何も言わなかった。

「今夜のことは他言無用だ! 各自、速やかに休むように!」

 ハイネルドの指示に従って将兵たちがぞろぞろと退場していく中、しかし、動かない影もある。いや、動けないと言った方がいいかもしれない。

(私は……私は次々代の国王だぞ……! それが、なぜあのような暴言に晒されねばならぬ!?)

 リグストンは忌々しげに床を睨み付けた。その両の拳は真っ白になるまで握りしめられている。

(薄汚い下っ端兵士がよくも高貴な私に盾突いた! あれは単なる逆恨みだ。私が悪いのではない。巫女のことだって、近衛がちゃんと私を守らぬから悪いのだ!)

 あまりの憤怒に、彼の顔は青ざめていた。

「……殿下、このような場所に長居は無用です」

 近侍に促され、ようやくリグストンは足を踏み出した。

 しかし、足を引きずりながら大広間を後にしようとするその背に、短刀を投げつけるかのような視線をぶつけていた者がある。シダである。彼は決心した。

(王都に帰ったら、近衛を辞める――)

 それを友人に告げようと、彼は遠巻きにイスフェルを見た。そして、大きく息を呑んだ。彼以上の険しい視線を、イスフェルがリグストンの消えた出口に放っていたからである。

「イスフェル――」

 近付いて呼びかけた彼の声は、しかし、イスフェルには届かなかった。固い面持ちのまま、足早に大広間を出ていってしまったのだ。

「何だ……?」

 首を傾げる彼の横で、黒い影が揺れた。見ると、ユーセットが立っていた。

「王都を発ってから、ずっとだ」

「なに?」

 だが、旅の途中、シダはイスフェルの先程のような思い詰めた表情を見たことがなかった。

「何も聞いていないのか?」

 なんの気なしに言った言葉だったが、ユーセットの自尊心を傷付けたようである。

「すぐに吐かせる」

 短く言い捨て、補佐官補佐もまた石壁の向こうに消えていった。


     ***


『セフィねえちゃん、危ないよっ』

『カイル兄ちゃん呼ぼうよ。カイル兄ちゃんなら簡単に取ってくれるよ』

 子どもたちが不安そうな顔するのを、セフィアーナは首を振って答えた。

『大丈夫よ、このくらい』

 アーイという少女が木の実で作った首飾りを、少年たちが取り上げて振り回していたところ、誤って孤児院の屋根の上に飛ばしてしまったのだ。セフィアーナは、椅子を積み上げてそれを取ろうとしていた。

『でも、ほら、土の上だからグラグラ揺れてるよ!?』

『じゃあ、みんなで支えててくれる?』

『セフィねえちゃん……』

 困ったような表情を浮かべながらも、子どもたちはセフィアーナに押し切られる形で小さな手を椅子に伸ばした。セフィアーナは積み上げた三つ目の椅子の上に両足を乗せると、屋根の端を掴み、手を伸ばした。

『ん、もう――ちょっと……』

 指の先の差で、首飾りに手が届かない。セフィアーナが屋根に片腕をつき、無理に身体を伸ばした時、椅子が大きく揺れた。

『きゃ……』

『セフィねえちゃん!!』

『セフィ……!』

 子どもたちや、少年に呼ばれて駆け付けたカイルが悲鳴を上げる中、セフィアーナは均衡を崩して地面に落下した……。



 額にひんやりとした感触があり、セフィアーナはゆっくりと目を開けた。

「カイ、ル……?」

 ぼやけた視界の中で揺れる人影が、彼女を心配そうに覗き込んでくる。

「セフィアーナ」

「………?」

 それが女性の声であることに驚いて、セフィアーナは二、三度瞬きした。暗がりのせいか、なかなか焦点が合わなかったが、黒い髪と紅蓮の瞳が徐々にはっきりとしてきた。

「……クレ……ティナ様……」

「――ああ、よかった……」

 クレスティナは安堵の表情を露わにすると、組んだ手に額を押し当てた。

「わ、わたし……?」

 状況がわからず、セフィアーナが身を起こそうとした時、頭部に激痛が走った。

「う……」

 頭を押さえる少女に、慌ててクレスティナが腰を浮かせた。

「まだ、寝ていなければ駄目だ。頭を強く打ったのだから」

「頭、を……?」

 まるで心臓の位置が変わったかのように、鼓動がガンガンと頭に響く。

「どうして……」

 少女の問いに、クレスティナは表情を曇らせた。再び濡らした手布を額に置いてやりながら、逆に問い返す。

「憶えておらぬのか……?」

「え……?」

 しばらくの間、セフィアーナは天井を見上げて考えていたが、ああ、と吐息した。

「私、いきなり髪を引っ張られて……」

「……近衛兵のな、肘がそなたのこめかみに直撃したのだ」

「そうなんですか……」

 クレスティナは深く息を吸い込んだ。真実を告げるべきかどうか迷ったが、どうせすぐに知ることになる。

「……セフィアーナ」

 突然、深刻な口調になった女騎士を、セフィアーナは怪訝そうに見遣った。

「リグストン殿下を許してさしあげて欲しい」

「え……」

「そなたの髪を引いたのは、彼の御方なのだ……」

 セフィアーナは絶句してクレスティナを見た。

「ゲルドの、毒針に……思わず自分を守ろうとなさって……」

 内心の苦々しさが、彼女の表情を歪ませる。確かにそうなのだが、リグストンには少女に対する謝罪の念がまるでない。しかし、今のクレスティナには、誰をも非難することはできなかった。

「――そう、もとはと言えば、近衛が――いや、このクレスティナが悪かったのだ。私がもっと違う対応をしておったら、こんなことには――」

 項垂れるクレスティナに、セフィアーナは慌てて身を起こした。頭痛になどかまっていられなかった。

「クレスティナ様、それは違います」

「セフィ、起き上がっては……」

 しかし、少女はクレスティナに皆まで言わせなかった。

「約束を破って、私が勝手にひとりで出歩いたりしたから……罰が当たったんです。クレスティナ様や近衛の皆様に御迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ありません」

 セフィアーナは、寝台の上で深く頭を垂れた。

「セフィアーナ……」

「そんなお顔をなさらないでください。許すも何も、私はこうして元気なのだし、私はただ転んで頭を打っただけです」

 明るく言い放つ少女が、クレスティナにはとても神々しく見えた。

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