第二話 噂②

 蒼葉は無我夢中だった。

 斬られた父が地に伏した途端、駆け出していた。

「父上! 父上!」

 蒼葉は、父を斬った少年を突き飛ばした。

 怖くはなかった。ただ、父の傷を押さえるのに邪魔だからそうした。

 少年は藁人形ように軽く吹き飛んだ。

 父を仰向けに起こし、肩から腰にかけて袈裟懸けに走った傷を押さえる。

 だが、蒼葉の小さな手で吹き出る血は止められなかった。

「あ、蒼葉……」

「父上?」

「……強く、生きなさい……」

 それが父の最後の言葉だった。

 頭の中が真っ白になった。

 気が付けば、父の腰に残っていた脇差を抜いていた。

 そして、膝を着いて立とうとしていた少年を斬りつける。

 少年は避けなかった。

 少年の顎が大きく裂けた。

 返り血が、蒼葉の視界を真紅に染めた。

 ――瞬間、蒼葉はハッと目を覚ました。

 またあの夢だ。

 まるで昨日の出来事のように鮮明な夢。

(どうして……)

 六年の時を経てもわからない疑念が頭をよぎる。

 あの時、どうして少年はあっさり突き飛ばされたのだろう。

 どうして刀を避けなかったのだろう。

 父との戦いで傷を負った様子はなかった。

 父を倒すほどの剣客に、七つの子供が振るった刀を避けられぬはずがない。

 それなのに……。 

 どれだけ考えてもわからない。

 少年が何を思ったのか――

 父が何を思ったのか――

 蒼葉は身体を起こす。

 間もなく、夜が明けようとしていた。



 倉井先生と一刃流の沼田が試合をした次の日。

 日常にこれといった変化はなく、蒼葉はいつもどおり早朝の一人稽古に励む。

 朝の道場は寒いが、動き始めてしまえば、そんなことは気にならない。

 素振りや型など、一人でできることを小半刻(約三十分)ほどひたすら繰り返す。

 先生に言われたこと、自分で気付いたことを黙々と練る。

 仕上げは真剣勝負だ。

 相手は父を斬ったあの少年。無論、本人ではなく頭の中で思い描く仮想の相手である。

 背丈は父と同じ五尺五寸(約一六五センチ)ほど。大上段からの鋭い斬撃。そして、勝利した後の悲しげな顔。覚えているのはそれだけだ。

 少年の流派や得意技は知らないし、六年も前の姿に過ぎない。

 そもそも、自分の手で斬ると決まったわけでもない。少年に対して抱くのは憎悪よりも疑問である。

 それでも、蒼葉は毎日この想像の稽古を繰り返した。

 いつの日か、疑問の先にある真の敵を斬り払うために。

 真剣を手に、正眼の構えで少年と向き合う。

 当然ながら、父を斬った少年に自分が敵うはずがない。まともに戦えば、瞬く間に斬られてしまいだ。それでは全く稽古にならない。

 だから蒼葉は少年の動きをたった一つに絞った。六年前、この目ではっきりと見た、大上段からの袈裟斬り一つに。

 他は無理でもいい。その代わり、この技にだけは完璧に対処できるようにする。

 少年が徐々に間合いを詰めてくる。

 手足の長さがずいぶん違うので、蒼葉から先に仕掛けることはできない。少年の方から攻めてくるのを、ひたすら待つ。

 やがて、少年の太刀は届くが蒼葉の太刀は届かない、不利な間合いに入る。

 少年が動く。

 蒼葉はまだ動かない。ぎりぎりまで引き付ける。

 大上段からの袈裟斬り。

 少年が太刀を振り下ろすその動きが、もう止められないところまで来てはじめて、蒼葉は動く。

 恐るべき速さで白刃が降り注ぐ。

 が、いくら速くとも、来るとわかっていれば避けられる。

 蒼葉は最小限の動きで袈裟斬りを避けつつ、半歩前へ出る。ほぼ同時に小手を打つ。

 少年が太刀を落とした。

 勝負ありだ。

 と言っても、こんな約束稽古での勝利など少しも嬉しくはない。なんとなく、これをやらなければ気が済まないだけだ。さっさと納刀し、朝稽古を終える。

 すぐに朝餉の支度にかからなければ。

 

 

 朝餉を済ませ、寺子屋に子供たちの指導に行く先生を見送った後、洗濯と掃除を行う。

 それから買い物に行き、帰ってきて昼餉の支度に取りかかるまでの空き時間には書物を読んで勉強する。

 つい一年前まで蒼葉も寺子屋に通っていたので、読み書きは問題なくできる。とりわけ孫子などの兵法書を多く読む。孔子、孟子などの思想も積極的に学ぶ。強くなるための兵法を学ぶと同時に、礼節や仁愛について学ぶことも欠かせない。

 武士は、ただ強ければ良いわけではないのだ。

 寺子屋での指導は昼までには終わるので、昼からは剣術の稽古だ。

 ところが先生は今日、めずらしく稽古を休んでお出掛けになるという。

 なんでも領主直々のお呼び出しらしい。用件は極秘であり、領主と会うことも他の者には話さぬよう言い含められた。

「では行ってくる。帰りは遅くなるかもしれない。その時は先に寝ていてくれ」

「わかりました。どうかお気を付けて」

 蒼葉はお辞儀をして、先生を見送った。



 昼過ぎになり、門下生たちが道場に集まってくる。

 今日は先生がいないためか、皆なかなか稽古を始めようとはせず、床に座って談笑を続けていた。

 滅多にあることではないから、つい気が緩むのも仕方ない。蒼葉は輪の中にいるようないないようなところに座り、話に耳を傾けた。

 そのうち、門下生の一人が気になることを言う。

「そういえば聞いたか? 昨日、山賊が斬られたらしいぞ。しかも、たった一人に」

 一同から驚きの声が上がる。

「山賊は何人いたんだ?」

「八人だ。しかも検分によると、全員が一太刀でやられたらしい」

 また一同から声が上がる。

「すごい遣い手だな。いったい誰なんだ?」

「一刃流の者か?」

「いや、一刃流にそこまでの遣い手はいないだろう」

「まさか倉井先生か?」

「先生は昨日、寺子屋にしか行ってないよ」と蒼葉。

「倉井先生の他にそのようなことができる達人といったら、由宮流よしみやりゅうの先生じゃないか?」

「由宮先生は五十近いお年だ。道場のような場所ならともかく、山中では活発に動けないだろう」

 皆が矢継ぎ早に推測を口にする。

 だが、推測するまでもなく、最初に噂話を切り出した門下生は答えを知っていた。

「いや、この領の者ではないそうだ。やったのは旅人と聞いた」

 蒼葉は驚くよりも、山賊がいなくなったことに安堵していた。

 もし、あのまま役人が手を焼くようであれば、先生が討伐隊の一員として駆り出されることもあったであろう。いかに先生といえども、満足に剣が振るえない山中では分が悪い。傷を負うか、悪ければ命を落とすかもしれない。

 蒼葉は心の中で、その旅人に感謝した。

 別の門下生が聞く。

「どんな旅人なんだ?」

「聞いた話では、背丈が六尺(約一八○センチ)もあって、まげを結わず、腰まで届くくらいの髪を一本に束ねている風変わりな若侍だとか。しかもその旅人、報償も受け取らずに去っていったんだとよ」

 聞き覚えのある風体に反応し、蒼葉は大きく目を開いた。

(まさか……)

 そのまさかを、門下生の一人が口にする。

「おい、もしかしてそれってあれじゃないか? ええと、悪斬り……偽善?」

 その名と、その男の所業は、蒼葉も風の噂で耳にしていた。

 ここ数年の間、国中の至るところで悪を斬って回る男がいると。

 悪の対象は盗賊・山賊の類いから、不正を行う公儀の重役まで身分を問わず様々。

 悪の基準は独断。対象は例外なく一刀のもとに斬り捨てられているという。

 その数は確認されているだけでも百を越える。

 しかも偽善は正体を隠す気がないどころか、殺害現場では必ず名乗りを上げるというのだ。これで有名にならない方がどうかしている。

 有名になればお触書きや人相書きが出回り、お役人には警戒される。

 にも拘らず、彼はいっこうに捕まらなかった。

 偽善が手練れの剣客だからというのもあるが、それ以上に民衆が彼の行動を支持しているからだ。彼を見かけた際には喜んで食料や隠れ家を提供する者もいた。お役人にさえ、わざと彼を見逃す者がいるという。

 今や悪斬り偽善は、お尋ね者でありながら巷の人気者でもあった。

 もっとも、それだけなら蒼葉は別段興味を持たなかったであろう。だが、ある時こんな話を聞き、興味どころではなくなった。

『悪斬り偽善には、顎に一文字の刀傷がある』

 父を斬った少年は、当時からして五尺五寸と背が高かった。六年経った今なら六尺に達していてもおかしくはない。

 そして、凄まじいまで剣の腕前。

 三つの条件が重なり、あの少年が悪斬り偽善であると蒼葉は確信していた。

 その偽善がこの地に戻ってきたとなれば平静ではいられない。

 別の門下生が興奮気味に答える。

「そうだよ。確か悪斬り偽善も背の高い風変わりな男だって聞いた。ついにこの樒原しきみがはら領にも偽善が来たんだよ!」

「来たって、わざわざ山賊を斬りにか?」

「違うよ。偽善が斬るっていったら、あいつしかいないだろう?」

「ああ、あいつか」

「あいつだな」

「あいつならおかしくないな」

 あいつというのが誰のことを指すのか、言わずとも皆わかっていた。

 しかし、誰一人としてその名を口にしなかった。万が一にも陰口を叩いているところが見つかれば、どんな処罰を課せられるかわかったものではないからだ。

 最悪、斬首されることすらあり得る。いや、すでにされた者がいた。無理矢理、罪人に仕立て上げられて。

 それほどの権力を持った暴君が、この地にはいる。

 気まずい空気の中、一人が言う。

「おい、もうそろそろ稽古を始めないか。先生がいないからって、いつまでも話してちゃまずいだろ」

 反対する者はいなかった。



 蒼葉は、まるで稽古に身が入らなかった。

 悪斬り偽善のことが気になって仕方ないからだ。

 悪を斬るという彼の行いを知って以来、ずっと疑問に思っていた。もし悪斬り偽善が噂どおりの男だとしたら、父は悪人だったということになってしまう。

 あんなに優しかった父が悪人だなんて信じられない。なにかの間違いとしか思えない。

 誰かに騙されたのか、人違いだったのか。あるいは、偶然がいくつか重なっただけで、あの少年が偽善ではなかったのか。

 本当に偽善がこの地に来ているのであれば、会って確かめなくてはならない。

 稽古が終わると、蒼葉は急いで出掛ける仕度にかかった。

 稽古着を脱ぎ、普段の着流しではなく小袖袴に着替える。大刀を帯びるのは元服するまで認められていないので、脇差のみ腰に帯びる。夕方になると冷えてくるので羽織も持った。

 もし偽善の狙いが皆の言うあいつだとしたら、下調べのために必ず城下町を訪れるはずだ。そこで彼が行きそうな場所を探れば、偽善に会えるかもしれない。会って真実を聞けるかもしれない。

 でも、もしかしたら殺されるかもしれない。

 噂は噂だ。偽善が悪人しか斬らないという保証はどこにもない。

 その名のとおり、善は偽りなのかもしれない。

 彼がなぜ〝偽善〟と名乗るのか。多くの噂の中にも、その理由はなかった。

 それでも、蒼葉は迷わなかった。恐怖よりも真実を知りたい気持ちが勝った。

 出掛ける準備が済むと、道場にいる成年部の門下生たちに見つからないよう、裏口からこっそり家を出た。

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