第一話 理念③

 夜。

 倉井石くらいせきはどうにも寝付けなかった。久々に行った他流試合の熱が収まらぬからであろう。

 気を静めるため、外の風に当たりにいく。

 空には真円に近い十三夜の月が輝いており、灯りがなくとも視界に不自由しない。

 蒼葉を起こさぬよう、そっと戸の開け閉めをした。

 春も間近とはいえ、まだまだ夜は寒い。だが、身体の熱は冷めようとも、気の昂りはなかなか収まらなかった。

 白光を放つ月を見ながら今一度、試合のことを思い出す。

 力任せな部分はあるものの、迷いがなく思い切りの良い連撃。一本取られた後も、すぐに冷静さを取り戻す胆力。沼田は明らかに他流試合に慣れていた。

 わざと打たせてやった小手も、竹刀で叩くだけの魅せ技ではなく、骨まで響く威力だった。今もまだ痺れが残っている。

 腐っても名門・一刃流の免許皆伝を許されただけのことはあって、決して弱い相手ではなかった。少なくとも、雲月流の門下生にあれほどの遣い手はいない。

 そんな剣客に余裕を持って勝つことができたのだ。しかも、遺恨を生まぬための配慮までできた。

 自分は確実に強くなっている。

 尊敬するかつての師・雲月蒼助に、確実に近付いている。

 あるいはもう越えているのかもしれぬ。亡き人と力比べはできぬ故、もはや確かめようもない。

 ただ一つ方法があるとすれば、あの男に勝つことだ。まだ元服も迎えていないような歳で我が師を斬り伏せたという、あの男に。

 あれから六年。あの男はさらに強くなっているはずだ。

 その音は、都から遠く離れたこの地にも聞こえていた。

 悪斬り偽善。

 奴に勝つことができたなら――

「ムッ!」

 不意に、石は飛び退いた。

 右手に人の気配を感じたからだ。

「何奴?」

 現れた人影に誰何すいかしながら、太刀に手をかける。風呂とかわやに行く時を除き、太刀は肌身離さず持っている。

「夜分に失礼。驚かせるつもりはございませんでした」

 返ってきたのは聞き覚えのない男の声だった。

 暗闇に溶け込むような黒の装束を纏っているので、姿はよく見えない。

「何者だ?」

「私は、領主・樒原孝水しきみがはらたかみず様の遣いにございます」

「なに、孝水様の……!」

 武士としてそれほど身分の高くない石に領主との接点などない。お顔を拝見したことすらない。知っているのは、一昨年に前領主が病死したため、十六歳の若さで後継者となった青年だということだけだ。

 石は柄から手を離す。

 暗殺が目的なら背後あるいは頭上から仕掛けてくるはずなので、この者に敵意はない。

 領主の遣いというのが本当かどうかはさておき、話くらいは聞く価値がある。

 ただ、このような形で訪ねてくるなど普通の遣いではない。

 おそらく、この者は密偵だ。

「して、何用か?」

「単刀直入に申します。実は、孝水様が倉井殿の腕前を見込んで、ある重大な任を与えたいと仰せにございまして……」

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