悪を斬る理由
ンヲン・ルー
第一話 理念①
雲ひとつない夜空に、真円の月が輝いていた。
夜目が利く者であれば灯りを持たなくとも行動できる、人斬りには絶好の夜だ。
(いや――)
これまで幾度となく決めてきた覚悟を、今また決める。
(俺が斬るのは人じゃねえ。欲に溺れて理性を失った、獣以下の〝悪〟だ)
長身、長髪の若侍、自称・悪斬り偽善は、高さ七尺(二メートル少々)はある塀に、猫のような身軽さで飛び乗った。
塀の向こうには豪華な武家屋敷と風情ある庭。
庭の隅で
さぞ身分の高いお方が住んでいるであろうお屋敷の庭に、なぜか
数瞬後、彼らは異変に気付き、一斉にこちらを向いた。
「貴様、何者だ!」
一人が叫んだことで、新たに二人の男が駆け付けてくる。合わせて五人。
どれもこれも、この屋敷の住人でないことが一目でわかる身なりをしている。
おそらくは用心棒であろう。つまり、見た目はともかく腕は立つ。
そんな中に偽善は平然と降り立った。
数歩進んだ後、抑揚のない声で名乗る。
「俺は、悪斬り偽善」
男たちがざわめいた。
どうやら悪斬り偽善の名を知っているようだ。そして、その所業も。
先頭の男が慌てて太刀を抜く。それにつられるように他の者も太刀を抜いた。
男たちは正眼に構えたものの、襲いかかってこない。ちらちらと互いの顔を伺いつつ、こちらを見てくるだけだ。じりじりと動いているようで、その実ほとんど前へ進んでいない。臆しているのだ。
五人いるからといって、五人が一斉に斬りかかれるわけではない。植木や庭石などの障害物が点在するこの場所では二人同時すら困難であろう。
五対一で勝てないはずがない。されど最初に斬りかかる一人にはなりたくない。誰かが動けば自分も動く。そんな思惑が彼らを縛り付けているのが、ありありとわかった。
偽善は刀を抜く前に忠告する。
「念のため言っておくが、その屋敷の中にいるお奉行様は、罪もねえ女を罪人に仕立てては手込めにする極悪人だ。それでも邪魔するってんなら、お前らも悪と見なして斬る。死にたくなければ、とっとと失せな」
この男たちは雇われの用心棒だ。奉行の悪行に加担していたという確証はない。故に、おとなしく退くのであれば斬るつもりはない。必要以上の人斬りを偽善は嫌っていた。
しばらく無言で待つ。
そうだろうとは思っていたが、逃げていく者はいなかった。
武士としての意地ではない。雇主に対する忠誠心でもない。
まだ期待しているのだ。自分ではない誰かが、きっかけを作ってくれると。きっかけさえあれば、必ず仕留められると。あわよくば自分の手柄にしたいと。
それは数多くの修羅場をくぐりぬけてきた偽善にとって、拍子抜けするほど〝いつもどおり〟の反応だった。
「そうかい。それなら仕方ねえ」
こんな連中を斬るのは憐れとすら思うが、退かないのであれば容赦はしない。
偽善は半身になりつつ、スラリと太刀を抜いた。
その刀身は鈍色に曇り、ふた回りほどやせ細っていた。
これほどまでに使い込まれた刀は戦国の世でも滅多にお目にかかれまい。
だが、先頭にいた男はそれをなまくらと勘違いしたのか、勝機とばかりに猛然と襲いかかってきた。
「覚悟っー!」
「遅せえ」
男の太刀が振り下ろされる前に、偽善の片手突きが心臓を捉えていた。
刀身が深く刺さらぬよう、ぎりぎり命を絶つだけの刺突。
切っ先を引き抜くと、男は鮮血を吹きながら力なく地に伏した。
「おおおっ!」
間を置かず、二人目が襲いかかってくる。
「お前も遅せえ」
敵が太刀を振り上げた瞬間を狙い、同じく心臓を突く。
手応えあり。切っ先は間違いなく致命の域に達した。
声もなく、二人目が沈む。
三人目は――
「ぐっ……」
目の前で二人が瞬時に葬られたことで、あからさまに怯んでいた。
後方にいる残りの二人もだ。
「どうした?」
低く問う偽善だが聞くまでもない。もうひと押しで彼らは戦意を失う。
「やる気がねえんなら、とっとと失せろ!」
一喝。
男たちは悲鳴にも似た声を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
その際、武士の魂である刀を落とした者もいたが、それを拾おうともしなかった。
所詮、破落戸は破落戸だったようだ。斬る価値もない。
だが、本命は見逃すわけにはいかない。
偽善は
一部屋だけ灯りがついていたので、標的の居場所はすぐにわかった。
近付くと、中からしわがれた男の声と若い女の悲鳴が聞こえてくる。
どうやら女に夢中で外の死闘に気付いていないらしい。
(呑気なもんだな。わざわざ用心棒を雇ったってことは、身の危険を感じていたんだろうに)
心の中で呆れつつ、無遠慮に襖を開け放つ。
広い座敷の中で、丸々と肥えた白髪混じりのお奉行様が若い娘に覆い被さり、帯に手をかけようとしていた。
不幸中の幸いにも、宴はこれからようだ。
「なんじゃ貴様は!?」
うろたえて腰を抜かすお奉行様。
反対に、絶望に濡れた娘の目が生気を取り戻す。
「も、もしや、あなた様は……!」
「知ってるなら話は早え。俺が悪斬り偽善だ」
お奉行様は血相を変えて叫んだ。
「ええい、出会え出会え!」
当然ながら、誰一人この場には現れない。
「なぜだ? なぜ誰も来ない?」
「外の奴らならもういねえよ」
「ばかな! 用心棒を五人も雇ったのだぞ。それをすべて一人でやったというのか?」
「二人は斬った。三人は逃げた。金目当ての用心棒に頼ったのが間違いだったな。もっとも、お前なんかのために命を張ってくれる忠臣がいるとは思えねえが」
偽善はお奉行様に切っ先を向けた。
それから、娘に対して言う。
「ちょいと離れて目を閉じてな」
「は、はい」
娘は言われたとおりにする。
返り血を浴びないよう、また、斬る瞬間を見ないようにとの配慮だ。
「ひぃぃ!」
お奉行様は悲鳴を上げ、四つん這いで奥の
だが、その手が襖に届くことはなかった。
「偽善様、今宵は危ういところを助けていただき、本当にありがとうございました。この御恩は必ず……」
「いや、そういうのはいいんだ。達者でな」
偽善は娘を家まで送ると、すぐに背を向け歩き出した。
「あ、お待ちくださいな!」
声に振り向くことなく、早足で立ち去る。
気持ちはありがたいが、礼は受け取らないことにしている。
自分の勝手でやっていることだ。賞金稼ぎみたいな真似はしたくない。
それに今は時が惜しい。
悪党とはいえ町奉行を斬ったとあっては捜索が厳しかろう。暗いうちに発たなくては、この街から出るのが難しくなる。
偽善は急ぎ隠れ家へと戻り、旅支度を始める。手荷物の用意はあらかじめ済ませておいたので、あとは旅装に替えるだけだ。
返り血の付いた羽織と袴を脱ぎ捨て、新たな羽織と
コンコン――
不意に、小さく戸を叩く音がした。
(つけられたか?)
不安がよぎる。戸口を見据えたまま、立て掛けてあった太刀を手に取る。
「偽善様、あっしです」
知っている声がした。この隠れ家を貸してくれた鍛冶屋の倅だ。
ホッと息をつき、太刀を立て掛ける。
「こんな時分に何の用だい?」
尋ねつつ戸を開けると、そこには倅の他にもう一人、提灯を持った若いお役人が立っていた。
「ええと、どちらさんかな?」
「夜分に失礼。
「へえ……」
偽善は知っている顔と知らない顔を交互に見た後、臆することなく応じる。
「そりゃどうも。お勤めご苦労さん」
この若手役人は、今年元服した倅より二つ三つ上くらいにしか見えなかった。
町奉行を斬った名うての剣客を新米一人で捕らえに来たとは思えない。
倅が裏切ったわけではなさそうだが……。
「で、何の用だい?」
改めて尋ねると、倅が少し怒ったように言う。
「用も何も、たった今偽善様がお救いなさった娘さんから話を聞いて飛んできたんでさあ。冷てえじゃありやせんか、黙って行っちまおうだなんて。あの悪党をぶった斬ってくれたお方に、御恩の一つも返せねえ娘さんの気持ちも考えてやってくだせえよ」
「いや、急いでるもんだから……」
「そうですかい。でも、これだけは受け取ってもらいやすぜ」
早口でまくし立てた倅は、手のひらに乗るくらいの小さな巾着と、それより少し大きな包みを押し付けてきた。
巾着は小さな割にずっしりと重い。銭が入っている。包みは握り飯に違いない。
「おいおい、金は受け取れねえよ」
「金じゃありやせん。そいつは、この街のみんなの気持ちです。偽善様がこの街を発つ時に渡そうって、みんなで集めてたんです。娘さんだけでなく、みんなみんな偽善様には感謝してんです。そいつを受け取れねえとは言わせやせんぜ?」
倅はテコでも引きそうにない。
こうなると、さしもの偽善もお手上げだった。
「そうかい。ま、気持ちってんなら仕方ねえな。ありがたく頂戴するよ」
それから、若手役人が緊張した面持ちで言う。
「偽善様、街ではもう奉行殺しの捜索が始まっております。一人で逃げるのは危険ですので、某に付いてきてください」
「いいのかい? あんたお役人だろ? もしバレでもしたら……」
「ご安心を。役人の中にも偽善様を支持する者はおります。すでに彼らには協力を取り付けてありますので、今なら脱出できます」
その言葉が真実という保証はない。付いていった先に大勢の捕り手が待ち構えているかもしれない。
だが、偽善は信じることにした。
もし罠だったとしても悔いはない。そう思えるほど、皆の厚意が心に染み渡っていた。
「そういうことなら、お願いしようかな」
「では行きましょう。こちらです」
若手役人の案内のおかげで、偽善は無事に街を離れることができた。
とはいえ、決して楽な道程ではなかった。危うい場面も幾度かあった。一人だった時のことを思うとゾッとする。
あの町奉行があまりにあからさまな悪だったせいで、悪斬り偽善の出現がある程度予測されていたに違いない。奉行自身も用心棒を雇っていた。
有名になると、こういうこともある。
「ここまで来れば、少なくとも夜明けまで追っ手は来ないでしょう」
「ありがとうよ。世話になった街のみんなにもよろしく伝えておいてくれ」
「必ず。それでは、ご武運をお祈りしております」
若手役人は深くお辞儀をした。
「じゃあな」
偽善は月灯りだけを頼りに夜道を歩き出す。
次に向かうは、六年前に故あって飛び出してきた我が故郷だ。
最近、故郷である
(そんじゃ、ちょっくら行くとすっか)
静かな夜の街道に響く音は、自分の足音と
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