□ナイフ
僕は、左手に銀のナイフを、右手にぬらした布巾をもつ。布巾で、赤黒く汚れたナイフをさすってみる。もちろん、乾いて固くなった血はがんこで、表面をさすったくらいじゃ、びくともしなかった。
今度は、もう少し力を込めてこすってみる。そうすると、水分を含んで、少しずつ汚れがゆるんでくる。分厚い氷を数ミリずつ溶かすみたいに、冷蔵庫から出したばかりのバターに言うことを聞かせるように、血液をゆるませていく。
僕が手にしていた、おろしたての白いふきんは、あっという間に汚れてしまった。ナイフは、まだその体の六分の一程度しか、その姿を現せていない。あとは全部、血液の膜で覆われている。そこまで磨くにも、結構時間がかかるのに。これからの道程を思っただけで、僕は急に肩が凝り始めたような気がした。ただでさえ、ここは寒くて、血流が悪くなるんだけどな。
手元の、もう使えないぐらい汚れたふきんはよそへやり、また新しいふきんをおろした。そして、残りの六分の五の汚れに取りかかる。ナイフの本当の輝きを取り戻すまで、僕はこの作業をやめることができないのだ。ごしごしごしごし……。
こういうことを言い出すと、「おやおや」とか、「あらあら」と思われるだろうが、自分でも、自分のことを、マゾヒストだなあ、と思うことがよくあった。僕は「痛み」というものをそこまで嫌ってはいない。むしろ、ある種の痛みは好きだった。ここで申し添えておきたいのは、「ある種」というだけであって、痛み全般は好きではない。むしろ、これはみな持っている素質ではないかと思う。特定の人間が、刺激をもとめて辛い料理を食べたり、逆にひどく甘い料理を食べたりするのに似ている。みな、口にはしないだけで。
僕はときどき、君に割いてもらった傷口に、わざと指をつっこむことがある。ふさぎかかっているのに、あえて。治りが悪くなり、治った跡もつきやすくなるのに、どういうわけか、それをやめることができない。そのせいで、脇腹に空いた傷口もなかなか治らなかったのだ。
僕はナイフでつけられた裂傷に、そろそろと指で触れる。それから、そっと爪先を差し込み、少しずつ指先を入れていく。だんだん傷口が開いて、まだ癒されていないところが空気に触れる。もっと指先を入れていくと、やがてそれは痛みに変わる。僕は、痛みの滋味のようなところを味わう。指をもうひとついれる。ゆっくりと時間をかけて、指先をチョキのかたちにする。傷口は、口が開いたざくろのようにそのグロテスクな中身を見せ始める。赤くて、濡れていて、熱い肉を覗かせる。
チョキのかたちにしてから、傷口の、可能な限り一番奥を、指先でなぶる。僕はうめき声によく似た、愉悦の声をもらす。ぱたぱたと涙がこぼれる。自慰によく似ている、と僕は思う。カサブタをはがしたくなるのと同じだと思う。こんな常軌を逸した行為と、一緒にされたら嫌がられるだろうけれども。だけど、男女間の性行為だって似たようなことをするでしょうと言ったら、納得してもらえるんじゃないかと思う。
違うかな?
僕は、ナイフに刺されたときの、するどい痛みを思い出しながら、ナイフを磨く。
ナイフの刃先は、六分の二ほど、その姿を現さんとしていた。まだまだ、道は遠くて、長い。
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