□傷口

 手足がしびれていた。とても冷たい。感覚を取り戻すように、僕はぶらぶらと両手を振った。

 僕はここしばらくの間、元にもどることを頑張っていた。体が温かくなるまでじっとしていて、少しでもよくなったら体を動かして、血で汚れた床を磨く。壁をこする。そうしていると、またすぐに冷たくなってくるから、またじっとしている。コートを着込み、体を横たえる。その繰り返しだ。

 僕の尽力もあって、僕の体から噴き出し、床をよごしていた血は、すっかりきれいになっていた。拭いても拭いても、血は伸びて、なかなか落ちなくて、時間はかかったけど。白い布巾は何枚もだめになった。

 僕は重たい腰を上げ、ベンチに尻を置いた。床をきれいにしたなら、今度はナイフを磨かないといけない。君が手にしたとき、顔を映すくらい、ナイフが曇り一点なく輝いていたように、もう一度、ナイフを輝かせないと。

 ベンチの上に置いていた、布巾に巻いてあるナイフを手に取る。ナイフは、僕を刺してからは誰に磨かれていない。そのせいで、血のタンパク質がべったりとついて曇っていた。ほう、と息を掛けても、乾いてこびりついた血は、びくともしなかった。まずは水か何かで、この汚れを落とす必要があった。それから水気を拭き取って、しごきあげて行くのだ。埃をはじき、曇りをはねのけ、空気に溶けてしまうほど、ぴかぴかに。

 これからの長い作業を思い、僕はため息をついた。僕の体は、快方に向かっていた。足の傷もふさがって、素足になっても、痕が残るだけになった。肉と皮で穴はすっかり塞がっている。腹の傷も同じく、皮膚が引き攣れた痕を残して、裂けた肉はしっかりつなぎ止められている。手の傷は、左手の傷は治っていたが、右手はまだ穴が空いていた。床を拭き上げるために酷使したせいだろうか、なんだか治りが悪かった。いまだに、手の中心に、大きめのビー玉が通るぐらいの穴がぽっかりと空いている。手の甲に穴が空いていると、どうにも力が込めにくくて苦労をしたけれど、それも慣れてしまえばどうってことはない。

 僕はナイフを磨きながら、また君のことを思い出していた。もうすぐ、僕の体からすべての傷が消える。治りの悪い右手だって、そう時間をかけないで元に戻るだろう。

 時間は、その量とかさでもって、すべてのことを曖昧にさせる。よくも、悪くも。忘れたい傷の痛みを癒やしもするし、忘れてはいけない傷の痛みも、消そうとしてしまう。そして、それは、人を救いもするし、傷つけもする。

 僕は、この痛みのおかげで君を覚えていられる。ずきずきと僕を苦しめて締め付ける、この痛みのありかが君そのものだった。僕はナイフを握っていた右手を開いてみる。

 もう、傷口は血で濡れていない。すっかり乾いている。少し汗ばんでいるだけだ。そして、歳月とともに痛みを塗り固めることになれている僕は、そう時間をかけずに君のことを痛みといっしょに忘れてしまえるだろう。

 忘れたくないとは、思っていない。この痛みを忘れて、僕は次の人を迎え入れる必要があるからだ。僕を必要とする人は、たくさんいる。この両手に、あまるほど。僕の体では、とうてい受け止めきれないぐらいに。僕を求める人がいれば、僕は穴を空けられるために体を差し出す。僕みたいな人は、世界にほんのわずかでも必要なのだ。たとえ、僕の体が省みられることがないとしても。

 僕は自分の右手に空いた穴を覗きこむ。その中に潜む昏さに、君の目を思い出す。知性を装い、理性を点した、狡猾な瞳の中に、思わず目をそらしたくなるような、無垢のきらめきがあったことを。

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