第53話
「どういうつもり?」
看守たちと佐也加がいなくなると、怜奈はようやく口を開いた。しかし、健気な元気さも、自分の才を誇る高飛車な様も、兄を想い喜ぶ姿も、今は見る影が無い。
お下げ髪に付けていた、赤いリボン。それはいま手首に巻かれている。
だが、怜奈の兄はもう雪海の身体の中にはいない。
赤いリボンの中にもいない。
全てを失い虚空に半身を置く様な、そんな朧気な空気が怜奈を支配している。
「怜奈ちゃんに伝えたい事があって来たんだ」
「私にはアンタから聞きたい事なんてないわ。帰って」
「いや、どうしても聞いてほしいんだ」
「人払いまでして、何を言いたいのか知らないけど、私の心はもう動く事はないわ」
彼女の眼は、死に向かう者のそれと変わらなかった。丸く黒い虚がそこに宿っている。
「私はここ数年兄さんのために生きてきた。兄さんの病気を治したくて、兄さんを生き返らせたくて。
私にとっては他の成功なんて全部無意味。兄さんが戻らなきゃ全ては無価値同然。
反魂や蘇生なんて禁忌中の禁忌――できるはずがない。できたとしても副作用が大きい不完全なものばかりだなんてわかってた。それでも諦めきれなくて……。そうしてやっとどうにかなるかもしれないと思えるものが見付かった。……でもそれは、失敗した。
自分でも分かるの。私はもうまともに生きられない。仮に周りの人間がいくら許したとしても、私はもう生きる意味を見いだせない」
冬鷹は言葉を失った。
怜奈の言葉の一つ一つが、冬鷹の心に問いかけてきた。
怜奈の姿は、未来の自分の可能性。
夢に手を掛け辿り着く寸前で全てを失った自分の姿、そのものだった。
雪海を治す方法が仮に禁忌だったとして、冬鷹は手を出すだろうか。
雪海を救う方法が他人の命を使うものだったとして、冬鷹は手を出さないでいられるだろうか。
きょうだいを想い、がむしゃらに駆け抜けている冬鷹にとって、怜奈がかけた想いは決して他人事には思えない。
「アンタは良いわね。どんな姿だったとしても妹がそばにいるんだから」
蔑みなどでは無い。心の底からの『嫉み』、あるいは『憧れ』だと感じた。半精霊――普通とは呼べない姿だったとしても雪海は傍にいてくれる。彼女の兄と違って。
「もういいでしょ。私はもう何もいらない。兄さんが帰って来ない世界に欲しいものなんて何もない。励ましの言葉も罵倒の言葉――は無いわよね。アンタお人よしそうだから。ともかく、もう今更何を言われたって――、」
「待って!」
立ち上がろうとする怜奈は引き留められた事で、力無く冬鷹を睨んできた。
「しつこい。もう私に構わないで」
「いや、ダメだ!」
語気を荒げる冬鷹に驚いたのか、怜奈の瞳が僅かに見開く。
「なに、説教でもしたいの? なら勝手に言えば。どうせ聞き流すから」
「違う! ちゃんと聞いてほしい! 君のお兄さんの事だ!」
「…………はあ?」
怜奈の瞳が冷たく細められる。鋭い視線の矢が、真直ぐ冬鷹に突き刺さる。
「俺が、ウンディーネの暴走を止めようとリンクした時、聞こえたんだ。『すまない』って。あれは怜奈ちゃんのお兄さんの声だった」
琴線に触れたのか、怜奈の目元がヒクヒクと暴れ出す。
「はああ!? 何見え透いた嘘言ってんの! 兄さんを出せば私が改心するとでも思った!? ふざけないで、そんなんで――、」
「こうも言っていた。『妹を許してやってほしい』って。だから――、」
「もう何も言うなッ!」
怜奈は目をカッと見開き声を荒げた。
「兄さんはもういないんだよッ! お前が兄さんを語るなッ! 看守ッ! もう話は終わったッ! 早くここから――、」
「イチゴ生クリームどら焼きッ!」
「――――え?」
怜奈の言葉がピクリと止まる。
ポカンと開いたその目と口は、信じられないと言わんばかりに固まる。
「だから、その、『イチゴ生クリームどら焼き』……なんて重陽じゃ聞いた事ないけど、でも怜奈ちゃんの好物なんだろ? 君のお兄さんが言ってた」
「うそ……なんで、雪海にも、誰にも……」
「お兄さんから『できれば時々カスタードシュークリームとイチゴ生クリームどら焼きを差し入れて欲しい』って言われたんだ」
怜奈には真偽など確かめようはない。
だが、もう確かめる必要もないのだろう。
「そんな、そんな……」
「ごめん。今日は急で持って来られなかった。でも次は持ってくるから」
「…………別に、特別好きってわけじゃないよ」
怜奈の口から零れた言の葉は、瞳からの雫と共に正直な想いを紡ぐ。
「兄さんと食べるから……。だから美味しかったんだよ」
思い出に彩られる雫が、瞳から溢れ頬を伝う。
「それと最後に、お兄さんから怜奈ちゃんに伝えて欲しいって言われた事があるんだ」
怜奈は顔を上げる。涙は次から次へと小さなシミを作っていた。
「幸せに生き続けて欲しい、って」
「……兄さん………………兄さああああん!」
怜奈は声を上げて泣いた。天を仰ぎ、兄を呼び。
その姿は、彼女が見せたなかでもっとも幼く、もっとも純粋だった。
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