第26話
川は舟から落ちる
雪海と怜奈は、この前まで話した事がなかったとは思えないほど揚々と言葉を交わしている。端々に漏れる『妹』としての愚痴に、冬鷹・去川は表情を歪めてしまうが、それでも雪海が楽しそうにしている姿は、冬鷹にとって何よりも微笑ましかった。
軍本部施設まであと百メートルといったところで、舟は停まった。
「このへんでいい?」と杏樹が尋ねると「うん。ありがとう」「ありがとうございます」と明るい声が返ってきた。
「それじゃまたね、雪海。それと怜奈ちゃんも」
「うん。またね杏ちゃん」「はい。ありがとうございました」
「雪海、気を付けて帰るんだぞ。遅くなるなよ」
「はいはい。いつもと同じくらいの時間に帰りますよー」
「あのなー、ちゃんと聞いて――、」「聞いてますよー。行こう怜奈ちゃん」
「あ、えっと、それじゃあ!」
雪海に手を引かれ、背を向けつつ慌てて頭を下げる怜奈。「あ、ちょっと、」まだ話は、と言葉は中途半端に切れ、冬鷹の手は何も無い宙にぼんやりと伸ばされた。
「兄ってのは大変だよな」うんうん、と去川が冬鷹の肩に手を置く。去川と冬鷹では妹に対しての感情が大いに違うだろうとは思ったが、今は仮初の同志と共に頷く事にした。
「まあ、ドンッと構えて、あとでバシッとなんか言やあ、兄としての威厳は――ッ!?」
突然、地面が大きく揺れる。
地震――!?
思わず身構えながら、揺れる外灯や震える窓硝子など、震度の指針となる物を探した。
しかし――違った。
目の前に立ち並ぶ二、三階建ての商業家屋。その屋根から、何やら白みのかかる透明なものが頭を覗かせた。
「ん?」「なんだ?」と誰かが洩らす。
その答えは衝撃音と共に、周囲の人間の悲鳴のなか、姿を現した。
「こっ、氷の巨人!?」
姿、形、それは十数日前に見た人外の姿そのままだった。
――ただ一点を除いては。
体の大きさが前回の比ではない。二階建て家屋を優に超え、三階建ての雑居ビルにも届きそうなほどの巨体。人一人ならすっぽりと収まってしまいそうな拳は、まさに『巨人』だった。
氷の巨人の真っ赤な瞳がこちらを捕らえる。冬鷹は咄嗟に二人に叫んだ。
「雪海、怜奈ちゃん下がって!」
突然、氷の巨人は拳を上げ、そのまま目の前の家屋に振り下ろした。
周囲の悲鳴。砂埃とつぶて。衝撃、震動。破壊の光景。
冬鷹は、まだそう離れていなかった雪海と怜奈を〈ゲイル〉と〈力天甲〉で引き戻した。
「杏樹、二人を頼む」
「えっ、う、うん。わかった」
焦りながらもしっかり頷いた杏樹は雪海・怜奈を連れ、舟のもとへと下がる。
冬鷹はすぐに抜刀した。それよりも数瞬早く根本と去川は動いていた。
「「〈ゲイル〉」」
二人は高速で接近し、左右の足に刀を振り下ろす。しかし、ビクともしない。前回、一刀のもと氷の巨体を切り落とした二人の一太刀でさえも、高く見上げる程の超巨体の人外には微々たるダメージしか与えられない。英吉が射氣銃で即座に追撃するも結果は同じだ。
冬鷹は〈ゲイル〉・〈力天甲〉・〈黒川〉とリンクし、一気に近付いた。「先輩!」と声をかけ、根本が身を引いたところに冬鷹は刀を振り下ろす。だが、やはりダメだった。しかし、愛用の〈黒川〉を使っているおかげか以前よりも手応えはある。
だけど、ちゃんとしたダメージを与えるには、まだ威力が足りない――。
心拍数上昇を兼ね、冬鷹がもう一太刀を入れようとした――そのとき、
「「「〈パラーレ〉」」」
冬鷹の頭上に現れた三重の『壁』が、そのすぐ上まで迫っていた氷の拳を防ぐ。
『壁』は三枚とも一瞬の後に壊れる。だが避けるには十分な隙は稼げた。
「イケそうか?」と去川が全員に尋ねる。
「キビしいなぁ。応援を待った方がいいねぇ」
根本のその答えに賛同した英吉は、すぐに軍服の襟を口元に引き寄せた。
しかし、英吉が口を開く前に、襟から軍の緊急指令が流れ始める。
『緊急事態。緊急事態。重陽町に氷の人外が出現したとの通報がありました』
周辺にいた市民が通報してくれたのか。これならすぐに応援が――。
と、安堵が過ぎろうとしていた。
しかし、その期待は大きく裏切られる。
『出現情報は街各所から多数。全隊員は至急各現場に向かってください。場所は現在、中央区二番、三番、五番、八番街。東区、一から四番、六番街。南東区――、』
「おいおい、どうなってる!?」
去川が焦るなか、冬鷹は杏樹に言った。
「杏樹、緊急事態だ! 急いで軍本部に非難してくれ!」
「え? うっ、うん、わかったっ!」
「お兄ちゃん!」
心配そうな妹の声に、冬鷹は余裕の笑みを貼り付け振り向いた。
「部屋で待ってろ。終わったらすぐに帰るから」
さ、雪海、怜奈ちゃん。しっかり捕まって。と杏樹が声をかける。雪海は言葉を喉に詰まらせたかのように、口を開閉させだけで何も言わず、舟と共に去って行った。
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