19
気付くと、俺は階段の踊り場にいた。
現実世界に戻ってきたのかと思ったが違う。ここには静佳がいない。
それに魔神と死神がぶつかりあうような騒音も聞こえてこない。全く人の気配を感じないほどの静寂が周囲を支配していた。
ということはここはシムルグの作り出した幻想世界か。
その時、小さな声が聞こえた。
ふとすれば聞き逃してしまいそうなか細い声、でもこれは確かに誰かのすすり泣く声だ。
声の方向を探る、そこには踊り場の大鏡があった。そうか、この先に紗雪はいるのか。
迷わず俺は床を蹴ってその鏡へと飛び込む。その先にいる紗雪に会う為に。彼女の涙を拭う為に。
鏡に上半身が突っ込むと、一瞬の浮遊感を感じた。暫くして俺は床に着地する。
そこは窓もない真っ暗な部屋だった。
光が差さない筈なのに部屋の中の様子はわかる。不思議な場所だった。
部屋の奥には扉がある。隣の部屋へと通じているのだろう。扉にはネームプレートが貼り付られ、そこにはこう書かれていた。特殊患者入院部屋、と。
この隠し部屋に凛音が寝かされているのか。
だが俺の意識はそれよりもっと大事な物に釘付けになっている。
扉の前で膝を抱え、顔をうずめて泣いている少女がいた。
栗色のゆるふわウェーブの少女。その顔は見えないが、間違いなく紗雪だ。
こんなところにいたんだな。彼女はいつも悲しくなると凛音のいるこの場所に逃げ込んで、一人で膝を抱えていたのだろう。
ごめんな、あの日お前を見つけてやれなくて。
「ここまで来たんですね。先生」
顔を隠したまま、嗚咽交じりの声で紗雪はそう呟く。
「ああ、お前を迎えに来た」
「私じゃなくて、凛音さんを、でしょう?」
「両方だよ」
確かに凛音は俺の大事な妹だ。俺がこの学校に潜入するきっかけになった。
だが凛音以外がどうでもいいわけじゃない。
紗雪だって静佳だって星観だって、俺の大事な生徒なんだ。
俺はそれを紗雪にわかって欲しい。
俺が何か言おうとすると、先に紗雪が言葉を挟んできた。
「ガーディアン・スクールの生徒が聖霊の力を使って他の生徒を昏睡状態にした。きっと私にも何らかの処罰が下されるんだろうと思っていました。けど、何もなかった」
この学校の隠蔽体質は根深い。きっとこの問題を表に出せないと判断したのだろう。
だから凛音は表向き失踪とし、関係者である紗雪もこれまでと変わらず学校に通い続けた。
「紗雪、ひょっとしてお前は誰かから罰せられることを望んでいたのか?」
俺の呟きには答えず、紗雪は涙の滲む声で言葉を紡ぐ。
「遠いどこかには凛音さんにも家族がいる筈です。きっとその家族はこの事件に納得しない、凛音さんを探していずれこの学校にやってくる。その時が来るのが怖かった」
恐怖に震える紗雪の声を聞き、俺は何も言えなくなる。
「いつか凛音さんの家族がやってきて、凛音さんを眠らせたのは私だと知ったら、どれだけ憎まれるか、どれだけ責められるか、それを想像するだけで怖くてずっと震えてました」
紗雪は動けなくなっていた。
凛音がいなくなった後、それぞれの道を選んで動き出した静佳と星観。でも紗雪はその二人みたいに強くない。自分の行動が悪い結果を呼んでしまったことで、紗雪はもう何が正しい道かわからず一歩も動けなくなったんだ。
「紗雪、俺の事も怖いか?」
「わかりません」
顔を伏せたまま紗雪はそう答える。
「でもせんせーと初めて会った時、私の覚悟は決まりました。せんせーが凛音さんを助けてくれるなら、私は自分の全てを捧げてせんせーに協力しようって。それしか私の罪を償う方法が思いつかなくて」
俺と一緒にいた時間、紗雪はずっと楽しそうに笑っていた。でもその笑顔の裏では重い十字架を背負って悩んでいたんだ。
一歩、紗雪へと足を踏み出す。その靴音で彼女の肩がびくりと震えた。
俺は彼女を安心させたくてできるだけ優しく告げる。
「俺はお前に罪があるなんて思ってないよ」
一歩、また一歩と紗雪へと歩み寄る。
「お前は自分のできる精一杯の方法で凛音を守ってくれたんだ」
何故紗雪がシムルグを滅多に人前で使わないのか? その理由は憶測でしかないが、きっと今までの人生で彼女は聖霊に頼った結果、後悔することばかりだったのではないだろうか。
今こそ、彼女を肯定してあげなきゃいけない。俺は強くそう感じた。
紗雪の正面に辿り着き、床に膝をついて彼女と目線の高さを合わせる。
相変わらず紗雪は膝に顔をうずめたまま、カタカタと震える彼女の体を俺は強く抱きしめた。
「凛音の兄として言うぜ。紗雪、今日まで凛音を守ってくれてありがとう」
「えっ?」
戸惑いの声が零れる。
俺は紗雪を責めるつもりなんて全くない、彼女は凛音の友達として凛音を助けようとして動いたのだ。だったらその気持ちを無駄にはしたくない。
紗雪がゆっくりと顔を上げる。涙で染まったその瞳を真っ直ぐに見つめ、俺は宣言した。
「お前がやってきたこと、間違いにはさせない。俺が凛音を救う。その時はまた、凛音の友達として一緒に遊んでくれ。お兄ちゃんからのお願いだ」
「せんせえっ!」
紗雪の顔がくしゃっと歪む。そうして俺にしがみついた。
「ううううう、私は、私は」
彼女の頬を伝う感情が俺の腕にも落ちてきた。俺はそんな紗雪を安心させるために優しく背中をさすった。
「いいんだよ、紗雪。今日まで大変だったな。ありがとう」
彼女が流すのはもう悲しみの涙ではない、きっと赦されたという安堵の涙。
そうして世界は崩れていった。
そこは光の差さない、真っ暗な部屋だった。
鏡のワープ装置を通った先。そこが幻想世界の部屋なのか、現実世界のものなのか一瞬区別ができなかった。
「いつまでセクハラしてるんですか、先生。そんなに紗雪の抱き心地はいいですか?」
けど静佳の刺々しい声が後ろから飛んできたので、現実世界だと判断することにした。
「わりい」
俺は紗雪の体を解放する、そこで入れ替わりに静佳が紗雪へと抱きついてきた。
「静佳さん?」
紗雪が戸惑った様子で静佳を見る。
そこで静佳は我慢できず感情を爆発させた。
「ごめんね、私は馬鹿だった。半年前のあの事件で私は魔神に襲われて大怪我をした。だけど他の二人が傷ついてない筈なんてなかったのに」
それは目に見えない心の傷、自分の感情を処理するので手一杯だった静佳が気付かなかったもの。
紗雪の心の声を聞いたことで、静佳もやっとそれに気付けたのだろう。
静佳の懺悔は続く。
「凛音を助けようとせず現状維持に努める紗雪や星観さんのこと、心のどこかで見下していた。私一人の力で凛音を助けなきゃって思いこんで、親友がこんなに傷ついてるのに気付かなくて。私は本当に馬鹿だった!」
「静佳さん、私のこと許してくれるんですか?」
涙を滲ませながら、紗雪はそう問いかける。
それに対して静佳は首を横に振った。
「許して欲しいのは私の方だよ。私は紗雪に沢山酷いことを言った、罪の意識で悩んでる紗雪に追い打ちをかけるようなことを一杯ぶつけて、本当に自分が許せない」
「静佳さん」
「紗雪」
二人の視線が合わさる。そして次の言葉は同時に響いた。
「ごめんね!」
「ごめんなさい!」
ちくしょう、青春だなあ。教え子達の仲直りの瞬間に立ち会えて先生は嬉しいぞ。あっ、ハンカチどこだっけ?
一応言っておくけど泣いてない。先生は泣いてないぞ。
静佳達の涙につられ泣きなんてそんなことはあるわけない。
ハンカチを探してポケットに手を突っ込むと、一緒にスマホが出てきた。
偶然目に入ったスマホの画面にはショートメッセージが届いていた。
差出人は武蔵らしい。なんで俺の番号知ってんだよ。まあ今はいい。そんなことよりメッセージの内容の方が俺にとっては衝撃的だった。
「どうしたんですか、先生?」
急にスマホを見て固まった俺を不思議に思ったのか静佳がそう訊いてくる。
俺は簡潔に武蔵から受け取ったメッセージの内容を彼女たちに伝えた。
「アラネアが目を覚ましたらしい」
えっ! と紗雪が驚いた声を上げる。
シムルグの力で眠りについた紗雪を俺は目覚めさせることができた。それと同時にシムルグに眠らされた人間が一斉に目覚めたとしたら?
目覚めるのはアラネアだけでなく――
静佳も紗雪も俺と同じ思考に至ったことだろう。
俺は誰よりも早く隣の部屋へと続く扉へ駆け寄った。
「凛音!」
その先の部屋にいるであろう凛音は眠ったままなのか、それとも。
その答えを知りたくて俺は勢いよく扉を開いた。
扉の先に広がっていたのは真っ白な壁に囲まれた病室だ。
奥にはいくつかのベッドが並んでいる。
だがどのベッドにも人の姿は無い。いや、一つだけ掛け布団が乱れているベッドがあった。まるでさっきまでそこに誰かが寝ていたかのように。そうしてそこで眠っていた人間が起きてどこかへ行ったような跡だ。
そのベッドの横に一人の少女が立っていた。こちらに背を向けていてその顔は見えない。
わかるのは病衣に身を包んでいること、そして見覚えのある紫紺の髪を背中まで伸ばしていること。
後ろ姿とはいえ見間違える筈もない、それは俺にとって世界一大切な妹の凛音だ。
「凛音!」
俺がその名を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返る。
そうして俺の良く見知った顔は、こちらを見るとニイイイイと口元を切れ込ませて俺の全く知らない表情を作るのだった。
「随分長い間眠らされたものだ。本当に厄介な言霊だった」
こちらを無視して独り言を呟く。
どうして、何故久しぶりに会った俺に何の反応も示さないんだ? 凛音なら絶対、俺のこと無視する筈が――
「先生、気を付けてください! そいつは凛音じゃありません!」
静佳の鋭い声が部屋に響いた。
それを聞いて凛音の顔をした誰かが不敵に笑った。
「あの時、魔神で遊んでやった小娘。それに言霊使いの少女。生きていたか。まあいい、初めての顔もいるようだし、改めて自己紹介をしておこう」
胸に手を当て、ぺこりと頭を下げる。そうして彼女は言った。
「
こいつが魔女? 凛音に取り憑いているっていうあの。
「もうパーティは始まっているようだ。妾も相応しき格好に着替えねばな」
パチンと魔女は指を鳴らす。
瞬間、リンネの体は青い炎に包まれる。
すぐにその炎は消し飛び、中から出てきたリンネは姿を一変させていた。
フリルをあしらった真っ黒なドレスを纏い、彼女は壁の方へ手を向ける。
彼女の手元に赤い魔方陣が描かれそこから鋭い光が放たれた。
眩い閃光に目を細めると、破壊音と共に魔女の正面の壁に大きな穴が開いた。
なんだ? 今、聖霊を召喚したのか?
「さて、お前らの相手をしたいところだが、千魂蛇龍が客人をもてなしているところでな。主賓が遅れるわけにはいかんのだよ」
言って彼女はその壁から飛び降りた。
「おい、待て」
俺はその後を追い、壁の穴に近づき外を覗く。
外の景色を見るに学校の裏手のようだが、一瞬自分達のいる高さにビビる。
やべーよ、たけーよ、どうしよう。
「魔女は私が追います。先生は紗雪のことを頼みます」
横から静佳が割り込んできた。
「先生の様に訓練を積んでない人間がこの高さから飛び降りれば最悪怪我をしますからね」
逆にお前はどんな訓練してるんだよ。そろそろ人間かどうか疑わしくなってきたぞ。
そんな俺達を尻目に、静佳は壁の割れ目から外へ飛び下りる。
きゃー、静佳がー!
ってビビってみたが外を見ると静佳は普通に着地し、魔女の消えた方角へ走り出した。
ちっ、あいつめ。さっき武蔵と戦って頭から流血したばっかだってのに。無茶すんじゃねえぞ。
「静佳、受け取れ」
俺は黒猫の描かれたカードを取り出し、紫の魔方陣を描く。
魔方陣から闇色の生き物が飛び出し、静佳へと飛んで行った。
気配を察したのか、遠くの方で静佳が肩越しに黒猫を受け取ったのが見える。
待ってろ静佳。俺もすぐ追いつくから。
一般人である俺達が外に出るには一旦ワープ装置を通って校舎の方へ戻らないと駄目か。
そう思っていると上空から銀色の翼竜が飛んでくるのが視界に入る。
あれは、まさか。
銀竜の背に乗る人物を見て、俺の呼吸が止まる。
おいおい、病院で大人しくしとけって言ったろ。
全くこの学校のお嬢様はどいつもこいつもアグレッシブな奴ばかりだな。
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