17.3 それぞれの器、小樽の別れ(下)
アナスタシアはコップを受け取って一口飲み、ミルクをたっぷり注いだ。味見して頷く。
「元気だよ」とアナスタシア。
「そう」
「ああ、そうよね、電話も何も通信機器は全部なくなっちゃったんだもん、連絡取れないわよね」
「それでやっていけてるの?」
「これ。プリペイド」アナスタシアは言いながら携帯電話を開く。「別になくても生活そのものは困らないけど。……そうか、ここだと使い物にならないや。あなたは持ってたね。博士の番号教えるよ。」
エウドキアは再び自分の携帯電話を取り出して+7を打ち、アナスタシアに渡して続きの番号を入れてもらう。携帯を大事そうに耳に当ててコールを待つ。
その間にアナスタシアは少しずつパンケーキを食べ進める。口には出さないがかなり好みの味のようだ。彼女には表情がある。
コールが何度か鳴ったあと受話器を取る音が聞こえた。
「こんにちは」エウドキアは呼びかけた。
「こんにちは」男の声が言った。
「博士? こちらエウドキアです」
「エウドキアか、無事なのか」
「はい。私は元気です。ちゃんと生きています」
「そうか……」
「博士はお元気ですか」
「ああ、こちらも大丈夫だよ」
沈黙。アナスタシアがちょっと可笑しそうに唇を曲げてエウドキアの様子を眺めている。でも本人はそんな視線をちっとも気にしていない。
「ねえ、博士、前に私が森に迷い込んで、ほとんど点滴がなくなるまで見つからなかったことがあったの、憶えていますか」
「ああ、憶えてる。君は丸一週間目覚めなかった」
「どうやって目覚めさせたのですか」
「なんで今そんなことを訊くのかな。……いや、訊くのがいけないことだとは言わないが」
「私は自分ではその記憶がないからです」
「そうだな……」博士は記憶を整理しながらゆっくりと話す。「あの時は、ただ呼び続けていた。洞窟の中で即身仏になろうとする僧侶のように、君たちの部屋に籠って。君には、なんというか、生命の同調、誘引のようなものが必要に感じられたのさ。そのまま放っておいたら君は何のぬくもりも鼓動も与えられず、鋼の棺桶の中に溶け込んで死んでいたかもしれないんだ」
「なんですか、それ」
「君は確かに生きているな?」
「はい」
「それならいい」
短い沈黙。
「博士?」
「ん?」
エウドキアは少し黙る。何かを言おうとして躊躇う。たぶんエリザヴェータのことだ。でも言わないことにする。
「いえ、でも、今ここには博士が悲しまなければならないことは何もありません。それは確かです」
「わかったよ」
本当にわかっているのだろうか。
通話を切る。
エウドキアは電話を置いて両手を自分の前に浮かべた。それはドラマで手術前の執刀医がするポーズに似ていた。それから手の甲をさすり、自分の首元をさすった。
「どうしたの?」アナスタシアは不思議そうな顔をして訊いた。
「とても嬉しいんだけど」とエウドキア。
「その義体は感情を吸ってくれないの?」
「ううん。これで十分なの。この手には触覚がある」
「ああ、なるほど、大きな動きが要らないんだ」
「あなたの肉体は違う?」
「言われてみれば、そうね、あまり体を動かさなくなったかもしれない」
エウドキアは深く息をついてもう一度自分の胸をさすり、それから手を下ろした。
「ねえ、どうして博士はあんたたちをこっちへ送り出したんだろう。私たちだって、まあ、機体を追い出されて文句を言いそうなのもいるけど、死ぬわけじゃあるまいし」アナスタシアは訊いた。
エウドキアは首を傾げてしばらく考えた。
「たぶん」とエウドキアは切り出す。
「たぶん?」
「世界を見せたかったんだよ。サナエフの内と外という括りではない現実を」
……
日本円を持っているエウドキアが会計をして店を出た。
「あの店員の人、私を何だと思ったのかな。義体の人間? それとも、ロボット?」エウドキアは歩きながら訊いた。
「さあね。どちらでもないんじゃない?」アナスタシアは少しだけ考えてから答えた。
「どちらでも?」
「そうよ。どちらでもない、とにかく、普通の人間ではないもの、くらいの」
「ああ……」とエウドキアは納得する。
「人間はさ、他の種類の生き物、イヌとかネコとかさ、そういったものを社会に取り込んで、むしろそうやって自分の社会を形成しているんだよ。別の種類だから直ちに排除されるなんてことはないの。ただ、別種なりの接し方の模索はしなくちゃならない。見てごらんよ。イヌの作法がわかっている人間と、そうでない人間の、あのおどおどした感じと」
「私の方が家畜になるわけか」エウドキアはそう呟いて立ち止まった。
後ろから歩いてきた鹿屋が追いついて、抜かすわけにもいかずに横に立ち止まる。
アナスタシアが少し先へ行ってから振り返った。「何か気に障った?」
「まあね。でも案外そんな捉え方の方が正しいのかもしれない。どちらかといえば」
アナスタシアは鼻で笑った。面倒臭い答えね、といったふうだった。
港では千歳からのトレーラが到着して船のクレーンで木箱を吊り上げているところだった。二人は最後に船の前で記念のツーショットを撮る。アナスタシアが腕を伸ばして携帯電話を構え、エウドキアに顔を寄せる。
「笑えないの?」
「いいの。人間だって大袈裟な表情で写る人ばかりじゃない」
シャッターを切る。エウドキアの携帯電話に持ち替えてもう一度。
アナスタシアは軍服を着た一団に紛れ込み、エウドキアは鹿屋と連れ立って九木崎女史のいるテントの下まで歩いた。その間エウドキアは鹿屋の左腕のギプスを振ったり叩いたりして彼がどんな表情をするか実験していた。
「まるで人間だったな」鹿屋は言った。アナスタシアのことだ。
「私もそう思う。残念だけど」とエウドキア。
「あんたが特別なのか」
「いや、私も驚いてる。あそこまで人間になれるなんて」
二人はパイプ椅子の列の間へ入っていく。
「ゆっくり話せたか」九木崎女史が顔を上げて訊いた。
「はい」エウドキアはそう答えて女史の隣の席に座った。
それから一応式典のようなものがあって、バースのクレーンがトリコロールのリボンに飾られた最後の木箱を貨物船の甲板に移し、四人の甲板作業員が恭しさの欠片もない素早い所作でそれを固定した。そのあと録音した国歌の垂れ流しと、お互いの代表のスピーチがあった。作業に関わった人々や報道関係者が聞いていて、二人が握手を交わすとちょっとした拍手が起きて、それでお終いだった。カエルだってあくびをしそうなくらい退屈なイベントだった。この儀式の趣旨を考えればエウドキアが主役であってもいいはずなのに、誰もそのことについては何も言わなかった。名前さえ呼ばなかった。彼女は単なる観覧の一人のように端の方のパイプ椅子に座っていただけだ。
そしてまた彼女の方も式典の中身にはほとんど興味を示さなかった。大使たちの演説の間、アナスタシアのことを含めて今のサナエフがどんな状況になっているのか、聞いた話を小声で隣の九木崎女史に話していた。女史の方も耳を近づけて熱心にそれを聞いていた。
「九木崎博士」とエウドキアは小声のまま別の話を切り出した。
女史は人体培養のくだりから腕を組んでやや体を沈めていたが、そこで上体を少し持ち直して一度彼女に顔を向けた。
「寮の石黒さんが可愛がっているネコが一匹いて、この間ですけど、庭へ出ていた時に向こうから近寄ってきたものですから、撫でていたんです。耳の後ろとか、顎の下だとかをね、時々そうやって挨拶みたいにするんです。だけどその時、ネコは急にこの手を、手首のあたりかな、噛もうとした。だんだんヒゲが前に出て、掴もうとするみたいに手を出して、何度もがぶがぶ口も開けていましたから、たぶんそういうことなんでしょう。急いで手を引いたので傷にはなりませんでしたけど、ネコの方はなんだか撫でられているが急に嫌になったみたいですね。それは決して理論的な行動ではないです。感性です。だから脈絡なんかない。でもネコ独特の感性とか、間の置き方とか、そういうものがわかっていれば、こちらも何となくその前兆を捉えられたはずなんですね。でもその時の私にはそれが感じられなかった」
岸壁の上でカモメの群れとカラスの群れが入り乱れながら魚の死体を取り合っている。獲物を掴んだカモメを別のカモメが急降下で襲う。その隙を突いてカラスが横取りする。その状況全体をマストの上でトビが見渡している。時折テントの屋根の裏に鳥の影が映った。
エウドキアは続ける。
「もしかしたら私は人間以外の生き物ともっと関わるべきなのかもしれません。もっと友好的に、それとも、命のやり取りをするような距離感で。彼らの涎や血液でこの手を濡らしてみるべきなのかもしれない。今までの私は、あの機体は、彼らにとってブルドーザーのようなものに過ぎなかった。つまり、動いている時は静寂を破り環境を蹂躙するもの。彼らは隠れ、逃げ惑う。止まっている時は意識を持たない建造物。鳥が来てふと留まり、フンをして去っていく。それ――私が生き物だとは思ってもみない。でもきっとこの体なら違う。彼らはやはり逃げるでしょう。でもそれは理不尽に大きな力としてではない。敵としてだ。敵でないとわかれば、あるいは興味を持つのかもしれない。私はその間を知るべきだと、知りたいと思うのです」
エウドキアが言い終えてから九木崎女史はしばらく黙って考えていた。ほとんど身動きしない。ただ犬歯の噛み合わせでも確かめるみたいに時々口の中で顎を動かしていた。
「九木崎のゲートを右へ出て、東へ少し、二キロくらい行ったところに農場がある。それは知ってる?」女史は言った。
「はい。通りかかったことがあります」
「うちの学校の見学でも度々お世話になってるんだ、あそこは。明日顔を出してみようか」
エウドキアは「はい」と短く返事をする。でもその小さな声は周りから湧き起こった拍手によってほとんど掻き消されてしまった。二人も合わせて軽く手を叩く。壇上の大使が一礼してマイクのスイッチを切った。
テントの下にいる人々がぽつぽつと腰を上げて岸壁の方へ出ていく。三人もその流れに従う。
船が出る。タラップを上げ、舫を外す。スクリューにかき混ぜられて船尾の海面がもこもこと湧き立つ。アナスタシアは舷側の通路から手を振っていた。エウドキアもそれを見つけて短く振り返す。数秒。そのままの形で手を止め、伸ばしていた指を曲げ、また少しして腕を下ろした。アナスタシアも手を振るのをやめる。まだ船はほんの少ししか岸から離れていない。でもそこから次第に、そして確実に遠ざかっていく。二人の視線だけが引き伸ばされた糸のように互いの目を捉えていた。
エウドキアが目を大きくしたり細めたりする。船が遠くに行きすぎて相手の顔が確かめられなくなったのだ。
「見送るか?」女史は訊いた。
「はい」エウドキアが答える。「お願いします」
スープラを出して海岸の道を走り、日和山灯台まで先回りする。十分ほどの道のりに過ぎない。エウドキアは車駐めから坂を駆け上がって灯台建屋の北側に回る。太陽はやや傾いて早くも赤みを帯びつつあった。海上は少し霞んでいる。貨物船はすでに湾を抜けていた。エウドキアの視線の先で白く尾を引きながら少しずつ大気の霞の中に潜っていく。くっきりとした白黒の塗装がだんだん薄れていく。その景色にはほとんど動きがない。だからじっと見ていても変化を捉えるのは難しい。でもしばらく目を離しているとそれがわかる。船は確かに遠ざかり、空の色が変化している。それはとても微妙な変化だった。
エウドキアは崖の手前に立てられた柵に掴まって、そうして船の姿がだんだん小さくなって消えていく様子をほとんど身動きもせずに突っ立って見つめていた。実に四十分くらいもずっとそうしていたのだ。その間他の二人の様子を気にかけるような気配は一切なかった。ただ海の景色に没頭していた。そのせいか鹿屋は飽きて灯台の見物をしていたし、女史もエウドキアの様子に注意を払ってはいたが、煙草を二,三本も潰す合間に壁に寄り掛かったり近場の石に腰を下ろしたりしていた。
そしてふとエウドキアが振り返る。その動きには前兆というものがない。
「もういいのか」女史が煙草を咥えたままもごもごと訊いた。指に挟んで煙を吐き出す。
「使っていた機体が処分されるのってちょっと悲しいんです。それが実際に潰されたり解体されていくところを目にするわけじゃなくて、それはただ自分の前から消え去ってしまうだけ。どこへ行ったのか、どうなったのか、私にはわからない。想像するしかない」エウドキアは振り返った格好のまま言った。
「今も悲しい」
「ええ。でも平気です。もう何度も経験してきたことだから」エウドキアはそう言って自分の首元を指先でさする。それから唇の端を意図的に少しだけ持ち上げた。けれどそれもまるで重量挙げのポーズようにほんの一瞬のことだった。その唇はまたすぐにまっすぐ結ばれてしまう。
女史はその表情を見てほんの少し顎を上げ、ゆっくりと煙を吐き出して吸殻を円筒形の灰皿に仕舞った。
灯台の影が東の赤い海にずっしりと落ち、レンズに束ねられた光の筋がなめらかな時計の秒針のように水平線をなぞる。そこに照らし出されるものはもう何もない。船は去った。やがて東の空に月が昇り始める。
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