16 エリザヴェータの眠り、進化の境界
エウドキアが義体に移ってからロシア側に機体のF12を返還するまでにまだ半月ほどの猶予があった。九木崎と中隊のメカニック、それに防衛省から来た数人の技術者が混じってドルフィン9の機体を重整備並みに分解、あらゆる部品の構造を調べ上げてパズルのように綺麗に組み直し、そうしてようやく私たちに順番が回ってきた。
動かしてみた感想としては、まず視点が高い。背が高い分機体も重いわけだけど、サーボが強いのか鈍重という感じはしなかった。あとは目がよかった。レーダーも対空用のバンドが二つあったし、赤外線カメラもかなり広いレンジに対応していて、しかも映る画像がとても鮮明だった。ちょっと感動したくらいだ。この辺はロシアの防衛産業が持っている戦闘機用赤外線センサの蓄積がかなり効いているんじゃないだろうか。整備士たちによると技術力云々は別として九木崎の肢闘に比べるとセンサー類の造りが全体的に大柄なのだという。レンズも受像素子も一回り大きい。その分だけ遠くのものが緻密に見える。天体望遠鏡の口がでかいのと同じ単純な理屈だった。
テストと並行してエウドキアもドルフィン9の機体に潜った。シートに座り、コクピットを密閉し、首筋の窩に投影器の栓を差し込む。目を瞑り、義体の感覚を意識の外に追い出し、投影器から流れ込む感覚に集中する。しかしエウドキアはその細い糸の先端のようなものを上手く掴み取ることができない。何かは感じる。でも機体の指先がどこにあるのか、自分の体の領域がどこまで及んでいるのか、わからない。義体の外側には茫漠とした感覚の闇が広がっている。まして自分の意思で動かすことなど到底かなわない。潜ってから五分経ち、十分経ち、そしていつの間にか三十分が過ぎていた。その間機体には何の動きもない。三日続けてもその状況は変化しなかった。ドルフィン9はもうエウドキアの体ではなくなっていた。
結局エウドキアがアクセスすることができたのは機体のコンピュータだけだった。それは義体に内蔵されているコンピュータを操作するのと何ら変わりのないことのようだった。エウドキアはそのストレージに残されていた膨大なデータを整理しながら引き出し、全て携帯用ハードディスクに移して保存した。携帯用といっても何枚か束になっているので一つでアタッシュケースくらいの大きさがあって、それらしい持ち手もついている。それを松浦の部屋に持って帰ってベッドの横に置き、時折懐かしむようにUSBケーブルを引っ張って胸のジャックに差し込んだ。
……
私が自分のカーベラの操縦室から這い出した時、エウドキアがドルフィン8の垂れ下がった指先に触れて目を閉じているのが見えた。まるでご神木に祈りを捧げるような格好だった。工場の中でちょうど向かいに置いてあるのでよく見えるのだ。
エウドキアがふと顔を上げて私の方を見返した。ハッチを開ける音に気付いたにしては遅すぎるし、私の視線が気になったにしては早すぎる。そんな微妙なタイミングだった。なんだかドルフィン8の視覚がエウドキアの中に流れ込んでいるみたいな感じがした。確かに機体の顔は元からこっちに向いていたのだ。でも実際には投影器が介在していないのだから両者が感覚を共有することなんてあり得ない。幻想だ。
「あなたもタリスに近づきたいの?」エウドキアが声を張った。スピーカーがびびるみたいな妙な音がした。口径の制約で人間の声帯ほどの音量は発揮できないのだろう。
「話したいなら降りるけど」私も声を張って答える。
エウドキアは無言で肯いた。
私はステップを伝って機体の足元まで下り、踵部分に取りつけてある泥除けに腰を預ける。カーベラの泥除けはちょうどいい角度と高さなので気に入っていた。工場の中はかなり暗い。もう十七時を過ぎているのだ。誘導灯が暖色のせいで夜中の潜水艦内みたいに辺りが赤く染まっている。私が下りる間にエウドキアもこっちへ歩いてきて二メートルほどの距離で立ち止まった。
「タリスがどうこうって言ってたけど、つまり、タリスの中に潜っていって、あのカテドラルみたいな場所でタリスと話してるのかってこと?」私は確認した。
「違う?」エウドキアは訊き返す。
「違うよ。私はそんなことはしてない。外部のネットワークで調べたいものを調べているだけだ」
「じゃあ、競い合ってる。タリスも同じようなことをしてる。情報収集」
「ただ単にものを知りたくてやっているだけでも真似してることになるのかな」
「それだけならタリスに訊けばいい」
私はちょっと呆れて両手を上げた。「リアルタイムの情報は自分で見るしかない。全てを記録してあとから再生するにはあらゆるものの情報量は大きすぎる」
「そんなに違う?」
「うん」たぶん自分の体以外のものに潜ったことがないからわからないのだ。
「ねえ、日本海で私のことを追っていたのはあなただよね」エウドキアは訊いた。
「追うって、物理的に?」
「そうじゃない。調べるという意味の追う」
「どうして私?」
「そんな気がするの」エウドキアはじっと立って私を見つめている。重心をどちらかの足に移したり、体の前で手を組んでみたり、そんな仕草は一切ない。カマをかけているようには見えない。本当にそう思っているみたいだ。
「ふうん。わかるんだ」私は言った。ちょっと感心していた。
「気配のようなものかな。自分から潜っていくのはあまり得意ではないけど」
「海の中までは私にも捉えられない。特に変温層の下は」
「変温層」エウドキアは繰り返す。私から正面の壁の方へ目を移した。そこに何かがあるわけじゃない。白塗りのコンクリートの壁が広がっているだけだ。「そう。とても静かだった。そこはあらゆる尺度において静かだった。昇っていく泡があり、差し込む光があり、でも水はどこまでも穏やかで冷たく、波は波でなかった。まるで自分の体がどこまでも広がっていくみたいな感じがした」
「茫漠とした拡張身体」私は言った。
「白紙の身体シェーマ」エウドキアも応える。「結局駄目だったな。この義体越しに機体は動かせない」
「でもまだ潜れる。外部身体を動かせなくてもコンピュータを介してネットワークに出ていくことはできる」
「そうね」
「ところで、君たちが逃げてくる間にクリヴァク級が一隻行動不能になってたけど」
「あれはリーザがやったの。まず私が魚雷を引きつけて誘導ワイヤーが切れるように促して、あとは魚雷との間に敵艦を挟むような位置で静かにしていれば魚雷は勝手に敵の方へ行くでしょう。でもそれだけだと艦が沈んで余計に立場が悪くなるかもしれないからきちんと舵かプロペラに当てようって、リーザはソナーのダミー反射波で誘引して、それがすごく繊細な操作だから、結構敵艦に近づいていたの。その時投射爆雷が来て、急いで回避して、直撃はしなかったけど」
「なるほど。ドルフィン8の損傷はその時の」
「リーザ。ごめん、その呼び方は好きじゃない。自分がそういうふうに呼ばれるのは気にならなかったんだけど、仲間がそうやって呼ばれるとなんだか嫌なの。それはただの作戦用の呼び方であって」
「エリザヴェータ」と私。
「うん」
「エウドキア」
「うん」
「だけど機体を識別する分には構わないよね?」
「それもそうか」エウドキアは少し考えてから頷いた。「確かに私の機体はもうドルフィン9でしかない。でもリーザの機体はまだリーザだ」
「わかった」私は帽子を被り直す。「そういえばさ、サナエフには女しかいないの?」
「サナエフって私たちのこと?」
「そう。エウドキア、エリザヴェータ」
「女しかいないというのは不正確だけど、全員女性名を与えられているのは確かだね」
「じゃあ生まれが男のやつもいるんだ」
「それは知らない」
「サナエフが名づけるの?」
「いいえ。サナエフから私たちの生みの親に頼んでつけてもらうの」エウドキアはそう言ってからちょっと上を見た。「ねえ、寄り掛かってもいい?」
「いいけど、そんなこと訊かなくても」
「柏木さんは自分の機体をすごく大事にしてるみたいだから」と機体の大腿側面に肩をつけながら答える。
「まあね。機体だけじゃないけど。信用している人間に整備を頼みたいし、勝手に乗り回されるのも嫌だよ。でも触られるくらいで嫌な気分になったりしない。それにこの機体は愛着を抱くにはまだ日が浅すぎる。あっちの、今は外に置いてあるけど、マーリファインの方がこれは自分のものだって気がする」私はちょっとシャッターの方を指で差した。もう閉まっているので外は見えないが小隊機が牽引車と一緒に外に並んでいるはずだ。
「あなたのマーリファインにはシャチが描いてあった。好きなの?」
私は頷く。「強くて、知性的だ。イルカを捕食することもある」
エウドキアも頷く。顔を見てもジョークが受けたのかどうかわからない。
「大事にしてるの、機体だけじゃない?」とエウドキア。
「生身も同じだってこと。手入れが大切だ」
「煙草は吸うのね」
「ヘビーじゃない。高高度にも強くなる」
「山登りでもするの?」
「飛行機に乗る」
私が上を見るとエウドキアも上を見た。そこには工場の天井を支える鉄骨のトラスと照明が見えるだけだ。
気にしなければ何でもないことだけど、空に蓋がしてあるみたいで少し窮屈な気持ちになった。腰を上げて裏口から外へ出る。扉を開く時に振り返るとエウドキアはその場から動いていなかった。「話、おしまい?」と訊くと足早に向かってくる。
「嫌になったのかと思った」エウドキアは私に合わせて歩きながら訊いた。
「何が?」
答えは返ってこない。エウドキアの細長い脚がキリンのようにゆったりと大地を踏む。寮の方へ向かって歩く。夕陽を目指して飛んでいこうとしているみたいな雲の陰が天頂を通って夜の裾まで空を横切っていた。
「ああ、リーザのことを訊かれたね」とエウドキア。
「訊いたような気もする」
「容体としてはすぐに目を覚ましてもおかしくないみたい。でも目覚めない。私は前の機体にいる間からずっと呼びかけてきたけど、全然返事がない」
「でも今はレーザーも赤外線も使えない」
「うん。だから外板を叩いて」
「さっきの」
「そう」エウドキアは頷く。「でも、どうして起きないんだろう」
「さあね。案外眠っていたいのかもしれないよ。起きられないんじゃなくて」
「なぜ」
「なぜ……」
北から南に向かって二十羽くらいのガンの群れが飛んでいた。斜め一列に並んで頭上を二百メートルくらいの高さで通過する。マガンかヒシクイかわからない。餌場と塒の間を飛んでいるのだろう。はばたく小さなシルエットを追っていくと南の空に青白いうっすらとした半月が見えた。私たちは九木崎の母屋裏の駐車場を抜けて寮の区画に繋がる細道を上っていく。
「あの機体の中に残るにはそれが一番いいからじゃない?」私は答えた。
「なのかな……」
「眠っているように見えても実は全部はっきりと聞いているのかもしれない。義体で人間に馴染めるのかどうかエウドキアに様子見してもらいたいけど、でもはっきりと頼むのは角が立つから黙っている」
「あなたには機体に残りたいという気持ちも理解できるの?」
「まあ、想像に過ぎないけどね」
「ゲテモノの機体に乗せるなら一番槍は柏木しかいないって松浦さんが言ってたけど」
「自分でもそう思うよ。適当な人間が潜って駄目になるのははっきり言って命の無駄だ」
「全く異なる形態の機体に次々と適応していく」
「うん」
「それは少しずつ人間から離れていくことのような気がする」
「かもしれないね」
「あなたはそれを好意的に捉えているの?」
「どうかな。別に嫌じゃない。自分がそういう体を持ったある種の動物であるような気分になる。しかもそれが肢機の意味だ」私は歩きながら路面に張り付いた氷の塊を蹴飛ばす。
「意味?」とエウドキア。
「そう」
「私も聞いたことがある。肢闘はそもそも兵器ではないって」
「肢機はね。実験装置なんだ。人間が別の形態に適応するための実験の。従って人型の肢機を使うのはごく初歩段階に過ぎない」
「いわば私はその初歩として新しい身体への完全な適応を試された、ということなのかな」
道の先から誰かの車がヘッドライトをつけて走ってきた。路肩の薄い氷の上によけて立ち止まる。舗装自体は車二台すれ違うのに十分な幅があるのだが、雪掻きが行き届いていない。積雪の中に踏み込んでまで進んでいく気にもなれない。二人で通り過ぎるのを見送ってアスファルトの上に戻る。
「それとも、サナエフは身体感覚ではなく、感覚受容器官の拡大による身体の拡張を試みたのかもしれない」私は言った。「F12のセンサーは人間より圧倒的に高感度でバンドも広い。私が潜ってもそれは一時的なものだけど、それが最も基本的な自分の身体だということになれば、そこにあるのは常に人間の数倍の感覚を持った生き物だよ」
「形態ではなく、純然たる感覚の?」
「純然たる感覚の、か。人間と同じ形態をした、全く別の感覚を持った生き物。あるいはそれもありうるかもしれない」
「どちらにしても、人間は人間ではなくなっていくのね」
「生き物の進化としてはそれは全くおかしなことではないけどね。人間は自分自身ではなく道具を変えることによって他の種より圧倒的に高速な発展を遂げたよ。でも結局はその限界を超えていくために一種の生き物として当然の進化をしなきゃいけないのかもしれない」
私がそう言って顔を上げるとエウドキアは工場の方を振り返っていた。エリザヴェータのことを見ていたのだ。
「人間とその次の生き物の間に進化の境界のようなものがあるとしたら、私たちはその壁を挟んでとても近くにいるような気がする」エウドキアは呟いた。「ねえ、なぜあなたほどの力を持った存在が人のままでいるのか」
「わからない?」
エウドキアはこちらを振り向く。
「その力がこの肉体に由来しているからだよ」私は言った。
それは簡単な答えだった。そして逃れようのない現実だった。
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