心水体器:流氷姫は微笑まない

前河涼介

1 インファン・ゲッコー

 九木崎理研の敷地は東千歳駐屯地の北西辺に隣接している。そのまた北部の林の中に九木崎出身隊員のための寮が点在している。寮は木造平屋で平面形がほぼ真四角だから、上空からだとまるでテーブルクロスの上にブラウンの角砂糖がぶちまけてあるみたいに見える。白いテーブルクロス。つまり林は雪で覆われている。冬だ。

 九木崎の千歳本部や工場棟から寮のエリアまで距離は六百メートルほど。細いアスファルトの道が切れかけた糸のようにその間を結んでいる。終業の定刻から十四分、松浦要まつうら かなめは白い息を小刻みに吐きながらその道を一人で走り抜け林の中に入る。ランニングというほどトレーニングを意識した綺麗な走り方ではない。でもダッシュというほど全力でもない。寮と寮の建物の間はうねうねと蛇行した道で結ばれている。彼はペースを落とさずにそのカーブの内側を的確に辿っていく。攻めすぎれば雪や氷に足を取られる。でも彼の足は安全な地面をきちんと知っていた。

 彼が他の班員を置き去りにして真っ先に寮の玄関へ入った時、煮雪舞子にゆき まいこはすでに共用のダイニングで待っていた。藍色のジーンズに赤いセーター。中にストライプのシャツ。テーブルに寄り掛かって小皿に取ったハンバーグをフォークで刺してつまんでいた。寮父の石黒いしぐろのおやじが味見させているのだ。彼女は松浦が廊下から入ってくると腰を浮かせたが、口にものを入れたばかりだったので何も言えなかった。

 松浦は挨拶代わりにちょっと微笑して彼女の前を通り、部屋の扉を開けて振り返る。舞子は頷く。結局何も言わずにハンバーグの残りを全部口に入れ、残ったソースも集めてフォークを舐める。呑み込みながら皿を流しに持っていく。

「いいよ。洗うからそこに置いて」と横で石黒が言った。ピーラーでじゃがいもの芽を取っている。

「ごちそうさまです。おいしかった」

「ほんとに?」と石黒が首を傾げる。

 舞子も鏡映しに首を傾げる。

「あ、私もうちょっとワインぽくてもいいかな」

「じゃケチャップが濃いのか」

「かも」

 石黒は小さいスプーンでフライパンからソースを掬い取って口に入れる。何度か頷く。

 舞子も頷く。それからダイニングの椅子に乗せておいたブリーフケースを持って松浦の部屋に踏み入れる。扉は開いていた。松浦はベッドの前に立って雪に濡れた作業服の上着をハンガーにかけていた。舞子の顔を見てちょっと手を止める。舞子は人差し指と親指を使って口の端の両方を順番に拭った。まだソースの赤が残っていた。

「勧められたからよ?」と訊かれたわけでもないのに答える。

「思ったより汗かいたから先にシャワー浴びたいんだ」松浦は再び手を動かして鼻をすすりながら答える。紺色のインナーシャツがべったりと湿っていた。ハンガーを長押にかけてベルトを外す。

「じゃあ外で」舞子はドアノブに手をかける。

「いいよ。匂いが気にならなければ。楽にしてて」松浦はあまり動きを大きくしないように気をつけてファブリーズを辺りに振り撒いた。

「ごめんね、急に押しかけるみたいになっちゃって」

「こっちが誘ったようなものじゃないかな」そう言って忍者のような横っ跳びでさっと脱衣所に飛び込む。そうして閉めた扉越しに思い出したように「ああ、遅くなってごめん」と言った。

「葛西さんがまた大変なノルマを出したのね」

「え?」と松浦。舞子が声を張らなかったので聞こえなかったようだ。

「何の課業だったの?」舞子は言い直した。

「肢闘用台車の人力牽引。雪上、二百メートル」

「台車だけ?」

「それでもきつい」松浦はそう言ったあとシャワーのお湯を出した。水が床に跳ねる音で声は通らない。

 彼の班は男三人だから馬力がある。狙わなくても一位は約束されている。でも彼がそれ以上に早く終わらせようと力を振り絞ってあとの二班をぶっちぎったのは確かだ。つまり舞子との約束に遅れていたから急いでいたんだな。でもそれは彼の礼儀であって、だから彼にとって舞子が特別な人だなんてことは簡単には言えない。相手が誰であろうと――相当嫌いな相手でもなければ――彼はやっぱり急いだだろう。そして舞子もそんなことはきちんと理解しているに違いない。

 時刻は十七時半に近づく。舞子は部屋の扉を内側から閉める。二人部屋だが松浦には同室がいない。手前左手に水回り、キチネット、奥にベッド二台。右手はデスクとクローゼット。松浦のデスクの上にダチョウの卵くらいの大きさと形をしたものが置いてある。その下から充電用の電源コードが伸びている。まだ新しい。ぴんとして折り目がきっちりと均等についていて曲がり方も素直で均等、捻じれもない。卵の横には外箱が口を開けたまま置いてある。舞子は卵をちょっと持ち上げて底を覗き込む。箱を回して何が書いてあるか確認する。それから浴室の扉が閉まっているのを確かめ、松浦の椅子に座り、太腿の上に卵を置いて両手で支える。

 遮光カーテンの開いた窓からみぞれのような雪の降る外の様子がうっすらと見えた。部屋を見回す。ぴったりと皺のないシーツ、ベッドテーブルの角に置かれたハードカバー。シンクの横に干されたコップ。舞子は鼻を動かす。でもファブリーズの匂いしかしない。椅子を回して足元に立てかけておいたブリーフケースからコピー用紙を一枚選び出して机の上に広げ、横に小さな電卓を置く。コピー用紙にはシリンダーやクランクの断面のような図形を中心に数値がいくつも書きつけてある。何列か向きが揃っているものもあるし、ぽつんと斜めに走り書きされているものもある。いずれも鉛筆かシャープペンによるもので、掠れ具合からしてまだ新しい。舞子は小さな皮のペンケースから〇・七ミリのシャープペンを取り出して数値のいくつかにさっと下線を引き、薬指で電卓を叩く。出した数値をまたメモする。彼女の顔立ちはどこかウサギを思わせるところがある。小顔で逆卵形の輪郭、あとは古典的に整っている。たぶん前歯がちょっと大きいせいだろう。決して歯並びが悪いわけじゃない。

 松浦が風呂に入っている間に寮の住人が少しずつ帰ってくる。玄関の扉を開閉する衝撃が壁を伝い、部屋の扉の外から会話の声が聞こえてくる。

 シャワーの音が止んだ。松浦はシャワーヘッドをラックにかけ、浴室の扉を開ける。それは音でわかる。バスタオルの端が何度か脱衣所の引き戸を叩いた。舞子は切りのいいところで電卓をリセットして松浦が脱衣所から出てくるのを見ていた。彼の身長は百八十センチ余り。軍人にしては細身で、顔と手の甲は黒く焼けている。面長で目は細く、鼻柱が太い。顎から頬にかけて常に一つ二つ赤い面皰をつくっている。お世辞にも美青年とは言い難いが、舞子はどうも気にしていない。むしろ気に入っていると言ってもいいだろう。

「卵は開けてないの?」松浦は水気で背中や腹にくっついたTシャツの裾を伸ばしながら訊いた。普段なら部屋の中で多少肌を乾かしてから服を着るのだろう。彼の仕草にはささやかな苛立ちが感じられた。

「まだ要くんも開けてないのよね、だったら私が先に取るのはいけないと思って。開けたら動き出しちゃうんでしょ。CMでやってたけど」舞子は仄かに顔を赤くして答える。それから電卓のACキーをもう二度、何の意味もなく叩いた。

 松浦は舞子の横に立ってデスクの本立てに団扇が差し込んであるのを抜き取った。横のデスクに寄り掛かってシャツの裾を扇ぐ。舞子に風が当たらないように角度を気にしている。

「その絵は?」松浦は訊いた。

「うん。義体の関節の止め方をどうしようかと思って。あの、タリスに頼まれているの」

「義体の制作を?」

「そう」

 松浦はちょっと唇を曲げる。なぜタリスが義体を頼むのかはについては追及しないことに決めたようだ。

「外殻構造じゃないの?」

「うん。骨格の回りに筋肉をつけてみようと思って。伸縮が表に出る分その方が皮膚の感じが自然になると思うの。まあ、ともかく、私はこの話をしに来たんじゃないわ」舞子は股の上に置いたままの卵を松浦に渡してコピー用紙や電卓をブリーフケースに戻す。

「じゃあ開けてみよう」

 松浦は団扇を置いて隣のデスクに座る。膝の上で支えて卵の殻を外す。中でトカゲ型のロボット――インファン・ゲッコーがもぞもぞと動く。白い皮膚、大きな琥珀色の目、縦長の瞳、歯のない大きな口、丸い指先、小さな爪、太い尻尾。寝返りのような、それとも夢の中にいるような緩慢な動き。電気製品にありがちな絶縁体を引っこ抜くとかバッテリを入れるといった作業はどうやら必要ない。卵を開けた瞬間の感動が売りの商品だ。

 二人は卵の中の様子をじっと見ていた。言葉もない。ゲッコーが次にどんな動きをするのか注意深く見守っている。世界の他のことなんかまるで意識の中にないみたいだ。ゲッコーはひとしきりもぞもぞしたあとしばらく動かなくなった。自分から何もしなくても何かが見えている、何かが聞こえる、何かに触れている、そうした一方的な感覚の流れ込みに身を任せていた。動かない。でも何かを感じている。気を失っているわけじゃない。それは虹彩や顎の下の微かな動きを見ればわかる。

「本当に何にもわからないみたい。……もしかして音に反応してる?」舞子は呟いた。

「ああ。そうみたいだ」松浦もうっすらとした声で答えた。「でもまだ音という刺激の種類も知らないし、自分の耳の機能も、使い方もわかっていない。まして耳で音を聞くというリンクもできていない」

「今はただ何らかの刺激に過ぎないのね」

「それが何なのか確かめようとしている。確かめたいけど体が動かない。動かすものだという認識もない。何となく動いてしまっているだけだ」

 二人が喋る度にゲッコーは背筋を伸ばすような動作をしていた。警戒しているとか、聴こうとしているとか、そんなふうではない。ゲッコーの表面はほんの少し透明感のある白いシリコンのような柔らかい肌で覆われている。関節を曲げると皺ができる。

「でもそのうち行動半径が広がって、色々できるようになったらちょっと危ないわね」

「卵から十メートルくらいが行動半径の限界だって」松浦はゲッコーの胴体を上下に優しく挟んで持ち上げて机の上に下ろした。ゲッコーは鼻先で松浦の手を追い、手が離れるとしばらくその姿勢のまま固まっていた。

「それは設定してあるの?」

「というかその距離になると不安を感じるようになってるみたいなんだ。そう書いてあった。ロボの不安っていうのは微妙にわからないけど」

「ああ、だから卵の殻で持ち歩くんだ」

「そう」

「でも、ともかくすごいおもちゃよね。体の動かし方さえプログラムしないなんて」

「感心するのはまだ早いよ」

「そう、これから予想のつかない成長をしていくのよね」

「親みたいなセリフだ」

「ごめんなさいね、まして私のものでもないのに」

「子供だって親のものじゃないさ」

「もちろん」舞子はちょっと自分の唇を噛む。「そうよね」

 松浦は苦笑して自分の襟をぱたぱたする。卵の殻をデスクに置き、団扇を持って軽く何度か自分の顔を扇ぐ。

「舞子さんは買わないの?」

「うん……、どうしよう。見せてもらっちゃったし、本当のペットみたいに手間がかかりそうで」

「俺はそういうものだと思って頼んだけどな」

「要くんはどうしてインファン・ゲッコーにしたの?」舞子が訊いた。

「別にトカゲが好きってわけではないんだけど、このシリーズの中ではぱっと見一番愛嬌があったから」松浦は人差し指の先でゲッコーの額を撫でた。「舞子さんなら、買うとしたらどれ?」

「私もゲッコーがいいかなと思ってたの。じゃなかったらラビット」

「ああそう、ゲッコーは意外だな。きっとラビットだと思ったけど」

「確かにかわいいし、ゲッコーの方が大人しそうだから」舞子もそっとゲッコーの額を撫でる。

「さあ、どうかな。――君は大人しい性格なのかな?」松浦は机の上のゲッコーに目線を近づけて訊いた。

 ゲッコーはその質問に何ら反応を示さない。聞こえているのは確かだけど、自分に向けられた言葉だとも思わないし、意味もわからない。

 二人はしばらくゲッコーの動きを見守る。でも五分ほどして動きが緩慢になり、体を伏せて目を閉じてしまった。空腹のようだ。つまり充電が足りない。松浦が両手で掬い上げて卵に戻す。ゲッコーは少しだけ瞼を持ち上げて、でも卵の中に収まるとまたすぐに眠ってしまった。殻を閉じる。二人は顔を見合わせる。

「今日はありがとう。こんなに早く実物が見られると思わなかった」舞子が言った。

「舞子さんがゲッコーは意外だったけど、まあそういうことなら見せられてよかったよ」

「じゃあまた明日」舞子は腰を上げる。

「会えれば」

「明日、自動戦闘プログラムの試験よね?」

「うん」

「私もモニターに入る」

「それなら会う」

 二人はお互いに微笑する。舞子は部屋を出て石黒や寮の住人たちに挨拶して玄関で靴を履き裾の長い赤と黒のジャンパーを着込む。松浦は部屋に引き返して窓を開け、傘を広げて道を下っていく舞子に軽く手を振った。


 その夜、部屋で一人になった松浦はベッドに座ってタリスに話しかける。足を開き、膝に腕を置いて手を組み合わせる。

「わからないな」と松浦。

「私ですか?」タリスは答える。枕の横に松浦の携帯電話が置いてある。その外部スピーカーから声を出している。もちろんタリスがその中にいるわけじゃない。本体は別の場所にある。ただの電話回線、ハンズフリーだ。コールから受話までタリスが制御しているだけのこと。

「舞子さんが言ってた義体って、誰のための」松浦は訊いた。

「私ですよ」タリスは答える。

「タリスが自分で使う」

「はい」

「……何のために」

「二つ理由があります」

「二つ」松浦は繰り返す。「じゃあ、一つ目」

「人の体があればもっと多くの本を読めるようになるから。今のところこの世界の知の多くは人間が握っています。そしてそれらの知は少なからず現実の次元に留まっている。電子データ化されていなければネットワークで共有もされていないという意味です。電話やメールでの複写も受け付けていないものに関しては、それを見たいと思い立った人間が自分で見に行かなければなりませんね。車で、あるいは飛行機で自分の肉体を移動させて。それから図書館や文書館へ行って司書の方にお願いしなければいけない。そして私にもその方法を再現するしか手段がない。その時義体は必要です。ただし義体を制御するための私のネットワークはまだ空間的に限定されていますから、将来的に、というレベルです」

「なるほど。いい考えだ」

「いえ、必然です」タリスは素っ気なく返す。

「でもその言い方だと一つ目はメインじゃない。少なくとも今すぐに義体を用意する理由にはならない」松浦はそう言って指の組み合わせを右上から左上に替えた。

「二つ目」とタリス。「感覚の端末として人体を所有することに興味が湧いたのです。それによって私は擬似的に実在を手に入れることになる」

「君の物理的な存在ならサーバーということにならないだろうか」

「もちろん。でも身体が単一である必要もないのです。サーバーも私であり、機械仕掛けの体もまた私である。なにもおかしくない。例えばしばらく前に私のキャラクターを作りましたね。ディスプレイ用のアイコンですよ。あなたたちはそのキャラクターを私のイメージとして認識するようになった。物質ではないですがそれもまた一つの像、イメージです。もし私が義体を私の身体の一つとして所有したら、あなたたちがそれを私と感じるのかどうか試してみたいのですよ。私を矮小化して認識するようになるのかどうか」

「矮小化?」

「実際のところ義体は私の一部に過ぎないはずですが、矮小化というのは、他ならぬその義体と私の存在とをぴったり一致したもののように認識することです。つまりその義体こそがタリスなのだと誰かが感じるなら、それが矮小化です」

 松浦はしばらく考えてから、誰に聞かせるでもないようなうっすらとした発音で言った。「タリスが触れられるものになる。タリスをイメージする時、肉体的な手の感触や温度を呼び起こすことになる。まるで人が人を想う時のように。タリスはそうなりたいのだろうか。いいや、違うか。知りたいだけだ。テストしたいだけだね」

「はい」

「俺はそのままでいいよ。君に義体はいらない」

「それも一つの意見として受け取っておきます」

「ああ」松浦は目を瞑って横向きに倒れる。ちょうど枕の上に顔が半分沈み込む。やはり半分隠れた唇が曖昧な動きで何かを言った。

 それも一つ……

 でもそれは声にはならない。声でないものをタリスが聞くこともなかった。

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