星蒼玉

秋月忍

第一部 市井の封魔士

第一話 鳩屋 壱

――腹、へった……。

 昨日となりに住むおまつが差し入れてくれた沢庵のわずかな残りを、白湯をすすりながら、シャクシャクかみしめる。

 春が近いとはいえ、まだまだ寒い。湯を沸かして暖かい汁物を飲みたいところだが、味噌も切らしていた。

――不景気にも、困ったものだ。

 少しも満たされない腹をさすりながら、赤羽晃志郎あかばねこうしろうは外に出た。十分に日は昇っていたが、吐く息はまだ白い。

「あら、だんな、おでかけですか」

 井戸端で洗濯をしていたおまつが声をかけてきた。すでに、長屋の女たちが井戸端に集まっている。

「ほんと。今日も、いいおとこだねえ」

「あんた、色目使ってると、亭主がヤキモチやくわよ」

「なにいってるの、アレがそんなタマなわけないでしょ。少しは妬いてほしいくらいよ」

 この長屋に住む独り者の男は晃志郎ひとりということもあり、長屋の女房たちは何かと世話を焼く。晃志郎がまだ二十歳で、どこか幼さが残る顔立ちだということもあってか、目の離せぬ弟のように思えるらしい。賑やかしい女たちの会話は、ほとんど毎日の社交辞令のようなものだ。

「杉蔵の足は良くなったのかい?」

 晃志郎は、にぎやかな女たちの一人に声をかけた。

「はい。おかげさまで、だんなからいただいた膏薬が効いたようです。今日から、仕事に出かけました」

 晃志郎を拝むかのように、杉蔵の女房は礼を言った。

「痛みは引いても完全ではないだろうから、気を付けるように言っておいたほうがいいぞ。特に寒い日は体の動きが悪くなる」

「ありがとうございます」

――定まった仕事があるのは、うらやましいことだ。

 卑屈になりがちな内心を隠して、晃志郎は女たちと別れた。

 大いなる都「和良比わらび」では、ありとあらゆる職がある。晃志郎も生家を出てから、他人の恋文の代筆から、血なまぐさい用心棒稼業まで、それこそ選り好みすることなくこなしてきた。

 しかし、そういった仕事がパタリと途絶えてしまう時期が少なからずある。

 もう十日も仕事のあてがなく、蓄えがつきていた。

――このままでは、飢え死にだ。

 晃志郎は軽く首を振って、なじみの口入屋である「大塚屋」ののれんをくぐった。

「おや、赤羽さま」

 いいところに来た、と言わんばかりに、主人の清兵衛が顔を輝かせた。

 座敷に座っている清兵衛の隣で、顔色の悪い女が品定めをするように晃志郎を見ている。

「おあきさん、うってつけの人物が来ましたよ」  

 清兵衛はうれしそうに、晃志郎を手招きした。

「こちらは、赤羽晃志郎さまで、腕も立つし、信用のおける方です。封魔のお出来になるお武家さまの中でもいちばんです。赤羽様、こちらは、鳩屋の娘さんでおあきさんです」

 おあきはそっと頭を下げた。

「赤羽だ。よろしく頼む」

 晃志郎は顔を引き締めながら頭を下げた。

 『鳩屋』といえば、『和良比』の西にある『白門』にほど近い老舗の高級料亭である。訪れる客はいわゆる富裕層であって、庶民には手の届かない場所だ。晃志郎も店の評判は耳にしたことがあるが、行ったことはない。

 おあきと名乗った女を見て、晃志郎は眉をよせた。

 よく見れば、まだ若くそれなりに美しい女だが、生気がまるでなかった。目は深く落ち窪み、肌は疲労のためくすんでいる。

「なにか怪異でも、ありましたか?」

 仕事の内容を聞く前に、晃志郎は尋ねた。清兵衛が晃志郎を推す仕事ならば、それは単なる用心棒のようなものとは思えなかった。おあきは苦悩をにじませながらも頷いた。

「二月ほど前から、ひともいないのに廊下を何かが通ったような音がしたり、夜中に庭が荒らされたりというようなことが続いております」

「封魔奉行には、お届けになりましたか」

「いえ。父が店の評判を落とすといって、許しませんので……」

 その昔、この世にこの世でないものがあふれた時代があった。

 生と死の理から外れたそれは、虚冥きょめいという異界からやってきて、殺戮と憎悪を地上にもたらした。それらはもともとは特定の姿を持たぬ『虚ろ』な存在でありながら、地上のものに触れると憎悪をまとった『魔性』と化すのだ。大地が死臭に満ちた戦乱の時代を乗り越えて、ひとびとはそれら虚冥のものを封じる法を編み出した。

 そして、ひとの住むべき都市として作られた『和良比』には、都市の構造そのものに封魔がほどこされている。だが、それでもすべての魔を封じることは難しい。彼奴らは、ひとの心から生ずることも珍しくないからだ。

 都市の中で発見された魔は、大きくならぬうちに封魔奉行所が抱える封魔士たちが滅することになっているが、鳩屋のように奉行所に届けることで公になることを嫌がる者たちも多い。

「怪異は音や庭が荒らされただけですか?」

「……」

 おあきは口をつぐんだ。わずかにためらいの色がある。

「……父が、父の様子がどうにもおかしいのです」

 怪異が起こるようになって間もなく、温和であった父親が常にイライラするようになった。

 それだけであったなら、寝不足や不安からの心理的なものだともいえる。

 だが今月に入り、明らかな奇行が目立つようになった。

 朝、布団から起きると父の寝床は土くれで汚れている。畳には、猫が爪を研いだような跡。起きている時間も、部屋からはほとんど出なくなり、ものも食べなくなった。

 それでも、七日前までは、店の主として朝と夕の二度は台所に顔を出して筋道立った指示を与えていたが、三日前からはそれもせず、誰が声をかけてもおびえたように部屋から出なくなってしまった。

「医者にも見てもらいましたが、かなり衰弱しております。食べていないということもありますが、それ以上のことはわからないのです」

 おあきの言葉に苦悩がにじみ出る。

 奉行所に届け出をしないのは店の評判だけを気にしてのことではないだろう。万が一、父が魔にとりつかれていたとしたら、父親に奉行所がどんな仕打ちをするのかと、明らかに恐れている。

「もはやこれ以上放置することもできず、こちらに封魔を生業にされている方がいらっしゃるとお聞きして参りました」

 すがるように、おあきは頭を下げた。

「封魔の報酬の相場は五百文から。よろしいですか?」

 晃志郎は確認するように口を開いた。

「では、お受け下さるので?」

 おあきの顔がパッと輝いた。

「承知した。しかし、できれば……」晃志郎は言いにくそうに続けた

「まず飯を食わしてはもらえないかな。朝からろくに食べていないのだ」

 ぐう、と、晃志郎の腹のなる音が店中に響いた。



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