神鹿ノ国ノ伝〔かむじかのくにのつたえ〕

紺野

秋津編

隠り処の泊瀬



 凄まじい嵐の中、二人は海に切り立った崖に駆け出た。そして手を取り合い、暗く渦巻く風に髪を乱しながら、恍惚こうこつとした瞳で見つめ合った。


 女は微笑んだ。


「やっと……旅立ってゆけるのですね。やっと」

「そうだとも」


 夫である男は、さらに強く彼女の手を握った。


「行こう、二人で。この地から解き放たれて。――約束しよう、たとえ波の下ではぐれても、必ず再びこの手を取ることを。全てを超えて一つになることを……。そうしてやっと、わたしとそなたは結ばれるのだ」


 声音は、荒れ狂う雨風にも揺るがない強い意志を宿していた。 


 横殴りの雨の向こうには、物々しい軍隊が迫って来ていた。そして見事なたてがみの黒馬に乗った青年が躍り出た。


「馬鹿な真似はおやめください!」


 彼の後ろに、続々と兵士たちが追いついてくる。


 肩を震わせた妻を強く抱きしめ、男は青年に向かって告げた。


「もはや、わたし達を縛るものなど何もない。罪さえもわれらを引き裂くことはできぬのだ」

「兄上……!」 


 豪雨の中で必死に声を張り上げる弟に、男は見下したように口元を歪めて笑った。一つの勝利を手にした笑みだった。


「残念だったな、弟よ。お前の思い通りになどさせるものか。神器はすでに秋津あきつを離れた。――見ているがいい、あの鏡と玉は、いつか必ずお前たちの血筋を絶やす。わざわいを降らせる。これはしゅだ、お前への最後の言霊だ、穴穂あなほ


 言いきると、男は妻に向き直った。そして温かな愛情の溢れる瞳で、やさしく語った。


「さぁ、行こう。我らが父の高天原たかまがはらではなく、我らが母の黄泉よみではなく。同胞の豊秋津洲とよあきつしまを逃れ、ただ自由のある彼方の都へ。約束された我らの国へ」


 女は目を細め、夫の目に映る自分を見た。


「ええ。愛しき我がなせの君、あなたとならどこまでも」

「ともに。愛しき我がなにも……」


 男は慈しむように、若い妻の髪を撫でた。


   こも泊瀬はつせの山の

   大狭おおおにははた張り立て

   さ小狭おおにははた張り立て

   大狭おおおにし なかさだる 思ひ妻あはれ

   槻弓つくゆみやせるやりも

   梓弓あずさゆみてりてりも

   のちも取り見る 思ひ妻あはれ


   こも泊瀬はつせの河の

   かみつ瀬に斎杭いくいを打ち

   しもつ瀬に真杭まくいを打ち

   斎杭いくいには鏡を懸け

   真杭まくいには真玉またまを懸け

   真玉またまが思ふいも

   鏡が思ふ妻

   ありと言はばこそよ

   家にも行かめ 国をも偲はめ…

 


 男が捧げるように歌い上げると、次の瞬間には二人の姿は崖の向こうに消えていた。

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