第44話


 目が覚めると、川の流れはいくぶんか穏やかになっていた。あの状況でよく眠っていられたものだ、と咲耶サヤは自分に呆れたが、呼々ココはそれで良かったのだと苦笑した。


「とりあえず山は下りました。たぶん日向ヒムカの都の近くまで来たと思います。けれど、どこまで阿依良アイラの手が伸びているか……。船を下りるところは慎重に選びませんと」


 川はだんだんと幅を広げはじめていた。しかし、岸の景色は相変わらず森が続いている。朝の森には霧が立ち込め、うかつに船を止めて入り込むわけにはいかなかった。二人はぐすぐずといつまでも船に乗っていたが、夕暮れ時になるとさすがに空腹に耐えがたくなり、森の一角に船をとめて下りた。


 彼女たちは木の実を拾って少し腹の足しにしながら、川に沿って歩いた。しばらく行くと手ごろに開けたところを見つけたので、今夜はここに野宿することにした。


 咲耶が薪になりそうな小枝を拾い歩いている間に、鎧を脱いだ呼々は手際よく川からアヤメを取ってきていた。それから器用に火をおこして魚を焼き、片手間で焚き火の周りの片付けまできっちりとこなした。


 手伝えることがなくなって咲耶が所在無そうにしていると、呼々は香ばしく焼きあがった魚の串を手渡してくれた。


「塩もないので旨くはないかもしれませんが。熱いのでお気をつけください」


 ありがとう、と受け取った咲耶は、木の根に座り込んで、やっと落ち着いた気分になって魚をかじり始めた。味はよく分からなかったが、温かかったので何だか安心した。ものを口にしたことで、生きていることをやっと実感できたのだ。


 呼々も火のそばに腰を落ち着かせ、魚をほおばった。とりあえず二人は黙って食べていた。


(呼々に頼ってばかりだわ……わたし)


 残りの魚の焼かれ具合を確かめながら食べている呼々を見つめ、咲耶は考えていた。自分のことは自分でできるようにならなければいけない。倶馬曾が失われた今、咲耶は皆にかしずかれるような存在ではなくなったのだから。


 平らげた串を手に、じっと見つめていたからだろう。呼々は咲耶の視線に気づくと、もう一本、今焼きあがったところの魚の串をくれた。


「どうぞ。たくさん食べてくださいね。まずは体力をつけなくては」


 優しく微笑んで彼女は言う。それで、咲耶はよけいに申し訳ない気持ちになってしまった。明るく振舞っているが、呼々は姉を皆なくしてしまったのだ。血のつながった身内を失うという心地は、咲耶にははかれないものだった。


「……ありがとう、呼々」


 ぽつりと言うと、呼々は少し驚いたようだった。しかし、少し沈んだ咲耶の顔からすぐに心中を察したらしく、彼女は気丈な笑顔で咲耶に歩み寄った。


「咲耶さま、姉上たちは陽里ヒノサトの戦士の誉れです。陽巫女さまも、辛くはありましたがきちりとお役目を果たされました。ですから、残されたわたくしたちがぼんやりしているわけにはまいりません」


 呼々は咲耶の隣に腰をおろし、にこっと微笑んだ。


「とにかく、人里を探してみましょう。いつまでも放浪しているわけにはいきませんから。神器の在りかを知っている人を探さなくては」

「そうね……」


 咲耶は頷き、赤々と燃える焚火を見つめた。


「陽巫女さまの言葉は難しくて、よくわからなかった。けれど、わたしが何をするべきかははっきりわかったわ。禍の王を討たなくてはならない。倭のために」


 ぱちぱちと木のはぜる音を鳴らしながら燃える火の中に、咲耶は焼け崩れる宮の姿を見ていた。火の海と化した陽里を見ていた。そして耳奥には、年端もいかない娘たちの悲鳴がありありとよみがえってきていた。


「――神器を見つけ出さなきゃ、一刻も早く」


 咲耶はぎゅっと両手を握り締めた。


「くやしいわ。陽巫女さまのお話を最後まできちんと聞くことができなかった。きっと大切なことをおっしゃっていたのに。……けれど、確か神器の『鏡』は倶馬曾にあるとおっしゃっていたわよね。まずはそれを探しましょう」 

「『玉』は禍の王が持っているともお聞きしました。すると、残る『剣』は……まさか、秋津に?」

「そうかもしれないわ」


 咲耶は頷き、いっそう眼差しを強くして、明るく踊る炎を見据えた。


「もしそうだとしたら、海を渡ってでも秋津に行く。禍の王を討つためならどこにだって行くわ。必ず『鏡』と『剣』をそろえてみせる。二つをそろえれば、きっと『玉』を滅ぼすことができるはず……陽巫女さまの最後の願いを叶えることができるんだわ」


 強く握られた咲耶の手が小さく震えた。呼々は咲耶にそっともたれかかり、静かに言った。同じ火を見つめながら。


「咲耶さま。一つ、お願いがあります。二つの神器をそろえ、禍の王を討ち滅ぼした、そのときには。……どこか遠くの田舎に身をひそめ、国の巫女の生を捨てて静かに暮らしてください」

「呼々? 何を言うの、突然」


 咲耶は驚いて彼女を見たが、呼々は真摯な瞳でさらに切に訴えた。


「宮にたどり着く前に、呵々姉上が陽巫女さまのお言葉を伝えに来ていたでしょう。このまま逃げなさいと」


 咲耶はわずかに頷く。


「それはきっと、咲耶さま、あなたに姫巫女としての責を押しつけたくなかったからです。何も知らないまま、ただの娘に戻って、どこか戦の火の届かないところで幸せに暮らしてほしいと……陽巫女さまは、本当はそれこそを願っていたのです。わたくしにはわかります。――けれど、あなたは宮に戻り、使命を受け取ってしまった」


 呼々は初めて哀しげな表情を見せた。


「ならばせめて、使命を終えたあかつきには、普通の一人の娘に戻って下さい。国のことなどは、いずれ、しかるべきものが現われて勝手に治めるでしょう。あなたがかの者を討った後の面倒事など、他人に任せておけばいい。……あなたが必要以上に戦い、傷つくことはないのです」


 咲耶を優しく抱きしめ、呼々は言う。


「お願いです、咲耶さま。これは、わたくしのわがまま。けれど、どうしても、あなたには安穏な暮らしの中で幸せになってほしいのです」

「呼々……」


 咲耶はつぶやいたきり、しばらく口をつぐんでいたが、やがて微笑んで頷いた。


「わかったわ。呼々が言うなら、そうする。それが陽巫女さまの本当の願いだというのも、何となくわかる気がするから」


 抱きしめ返すように呼々の背中に腕を回し、咲耶は目を伏せた。


「わたしは女王になる器ではなかったのだわ、きっと。もしそうであったなら、あんなふうに倶馬曾は滅んだりしなかった。陽里や宮が焼かれることはなかっただろうと思うの。わたしにできるのは、最後の姫巫女として禍の王を討つことだけ。だから、それが終わったら……どこにでもいる普通の女の子になって、普通に暮らすわ」

「咲耶さま」


 呼々はうっすらと涙ぐんで咲耶を見た。咲耶はもう一度、にこりと頷いて見せた。


「約束するわ、呼々」


 肌寒い風が通り過ぎる木立の隙間で、二人は身を寄せ合うようにして眠った。固い土の上でも、へとへとに疲れていれば少しも気にならなかった。


 やがて、風にさそわれるままに厚い雲が夜空を覆いはじめ、音もなく月を隠した。


 ぽつ、と暗い天から雫が落ちる。二、三度その雫に頬を叩かれて、呼々は目を覚ました。


「雨……」


 しまったな、と思って空を青い見上げているうちに、だんだんと雨粒は勢いを増してきた。間をおかず本降りになってくるだろう。


「咲耶さま」


 呼々は慌てて咲耶をゆすり起こした。


「お目覚め下さい、寝ていては風邪の気を得ます」

「ん……なぁに」


 寝ぼけながら咲耶は体を起こした。そのあいだにも雨足は増し、焚き火は見る見る小さくなっていった。


 咲耶はやっと状況を把握して飛び上がった。


「雨なの。どうしよう、呼々。雨宿りのできるところなんてあったかしら」


 呼々はあくまでも冷静に答えた。


「幸いにもこの辺りには巨木が多くあります。根元に人が入れるくらいの隙間があるものもいくつか見かけました。今夜はそこでしのぎましょう」


 焚き火の炎をてきぱきと小枝の束に移す呼々に、咲耶はほっと胸をなでおろした。やはり、誰よりも頼りになるのは呼々だ。


「さぁ、急ぎましょう、咲耶さま―」


 慰め程度の松明を持って立ち上がった呼々は、ぎくりと顔色を変えた。彼女の見やった方向に、しっかりと燃えている火の影がいくつか揺れていた。そしてその火はずかずかと近づいてきて、ぼんやりとだが正体を見せた。


 大きな松明を持った、男兵隊だった。彼らは遠くから野太い声で呼びかけてきた。


「おい、誰だ、そこにいる奴は」


 咲耶と呼々は青ざめて声も出せなかった。男たちの目元や頬には、阿依良の男が彫る刺青があったのだ。逃げなくてはと分かっているのに、足が凍りついてしまったかのように動かない。


 そのうちに、男たちの方も、こちらが若い女だと気づいたらしかった。つばを呑むような一瞬の空白があり、彼らの声は上ずった。


「女か――そんなところで何をしている」

「ヘェ……、こりゃ、陽里の巫女さんの生き残りじゃねぇか」

「残党は皆殺しという令が出ているぞ。狩れば褒美が出るが……持っていくのは首だけで足りるよな」


 咲耶は全身をこわばらせた。指先が冷たい。かばうように呼々が咲耶を背に隠し、無言で兵士たちを睨んだ。


「――おとなしくしな!」


 男たちが地面を蹴って飛びかかってきた瞬間、呼々は手の火を思い切り投げつけた。思いがけない攻撃に彼らは怯む。


「咲耶さま、走って!」


 呼々に腕を引かれ、咲耶は引きずられるようにして駆け出した。かすかに薄明るくのぞく星明りだけをたよりに、深い森の中を逃げ惑う。小雨の向こうから男たちの怒声が追ってきていた。


 しばらくも走らないうちに、呼々は探していた大樹をみつけた。茂みに隠された根元には、ぽっかりと空洞が口を開けている。そこは高さも奥行きもたいしてなく、小柄な咲耶が縮こまって入るのがやっとの大きさだった。


 激しく混乱していた咲耶は、何が何だかわからないうちに、その狭い隙間に押し込められていた。


 雨に濡れた髪をかきあげ、呼々は切羽詰った表情で咲耶を覗き込んだ。暗い闇の中でも、咲耶は彼女の強い眼差しを受けることができた。


「咲耶さま、ここでじっとしていてください。いいですね」

「――呼々?」


 咲耶は何度も瞬いて呼々を見つめた。不安が不気味に沁みていく。


 かすかに雨音が大きくなった。


 どこだ、出て来い、という男たちの怒鳴り声が、少しずつ近づいてくる。彼らに理性があるとはかけらも期待できなかった。


 寒さにではなく、咲耶は震えた。呼々は背後に迫りくる男たちの気配を気にしつつ、咲耶に覆いかぶさって雨から守るようにしていた。


「……咲耶さま。わたくしが奴らの気を引いて引き離します。あなたは動かずにここに隠れていてください。必ず戻りますから」

「だめ」


 叫ぶように咲耶は言った。呼々が戻って来られると思っていないことは分かっていた。しかし、呼々は聞かなかった。彼女は懐から懐剣を取り出すと、咲耶の手を取ってなかば無理やり握らせた。


「けれど、もしもあのような男たちに見つかってしまったなら、これで身を守ってください。喉元を狙えば殺すこともできます。けっしてためらってはいけませんよ。何よりご自身を優先させてください、必ず」

「どうして――これをわたしにくれてしまったら、呼々はどうするのよ」


 ぞっとして咲耶は青くなった。けれども呼々はやはり取り合わず、早口に言った。


「そして、日が昇ったなら立ち上がり、どうか人里まで逃げのびてください。その小刀を手放してはなりません。わかりますね、夜が明けたら逃げるのですよ。男たちに充分注意して。……わたくしが戻らなくても、きっとご無事に」

「だめよ。そんなの、絶対にだめ。呼々……ッ」


 弱々しく、咲耶は何度も首を振った。茂みから出て行こうとする呼々にしがみつき、なんとかとどめようとした。


「呼々が行くならわたしも行く。わたしも一緒に戦うわ」

「馬鹿なことを言わないでください」


 呼々は叱りつけるように言った。


「わたくしは陽里の戦士です。陽里の戦士は、己の巫女を守ることが何よりの使命。咲耶さまが陽巫女さまのご遺志を継ぎ、禍の王を討つというのなら、わたくしも使命を捨てることはできません。あなたを守りとおします――この命に代えても」


 咲耶はおびえきって呼々を見上げた。震える手から滑り落ちた懐剣を、呼々が拾いあげる。彼女は視線を下げて、静かな声音で言った。


「……咲耶さま。あなたは、今ここで、違う人生を選ぶこともできます。陽里のことを忘れ、使命を捨てて、ただの娘に生まれ変わって生きることも。あなたがもしそれを望むなら、わたくしも戦士としての使命を脱ぎ捨てます。二人で、どこかひっそりとしたと田舎に逃れましょう。わたくしが一生あなたを養います。決して不自由はさせませんから」


 咲耶は濡れた目で呼々を見つめた。暗闇の中で雨が強くなっていく。頬を濡らしているのは雨なのか涙なのか、もう分からなくなっていた。


「呼々」


 咲耶は嘆願するように彼女の名を呼ぶばかりで、どうしても頷くことができなかった。それだけは、できなかった。さきほど平凡な女の子になると約束したのは、あくまでも禍の王を討った後ならばこそだったのだ。


 ここで頷けば、呼々は思いとどまり、あかつきまで咲耶とともに潜んでいてくれるのかもしれない。運良く二人一緒に生きのびることだって叶うかもしれない。頷きさえすれば――


 けれど、禍の王を討つという、この使命だけは、どうしても手放すことができなかった。陽巫女が遺したたった一つの望み。姫巫女になるはずだった咲耶に託された、唯一の責なのだ。


 泣きながら首を振り続ける咲耶を、呼々はきつく抱きしめた。体は雨に冷やされて凍えそうだったが、触れ合ったところから熱が溢れてくるようだった。それは呼々の内に流れる熱い生命の熱だった。


「どうか許してください……分かっていて、無理を言いました。――けれど、あなたがあなたの使命を譲れないように、わたくしもわたくしの使命を譲れないのです。わかっていただけましたね。あなたをここで死なせるわけにはいかない」


 呼々は手の内の懐剣を、再び咲耶の手に押し込めた。


「いやよ……呼々、呼々がいなければわたしはだめなの。一人じゃだめなのよ」

「いいえ。あなたはお強い。必ず使命を果たされるでしょう。わたくしは信じております」

「うそよ、わたしは強くなんかない……置いていかないで、行かないで、呼々」


 いや、いやだ、と幼子のようにだだをこねる咲耶に、呼々は力強く彼女を抱きしめたまま微笑んだ。


「咲耶さま……愛しい人。あなたがわたくしのすべて。咲耶さまが生きている限り、わたくしには希望があります。たとえこの肉体が滅びたとしても、魂はいつも、いつまでもおそばにおります」

「いやぁ……ッ、呼々……!」


 呼々はあやすように咲耶の髪を梳き、清らかに微笑んだまま身を離した。そして、涙やら雨やらでぐちゃぐちゃの咲耶の頬を優しく撫でた。


「……お慕いしておりました。ずっと、ずっと……。あなたが陽里にやってきた、あの幼き日から。わたくしはあなただけを見つめてきました。咲耶さま、どうか、どうかお幸せに。幸福に生きてください、わたくしの分まで」

「呼々」


 彼女の名を呼んだ唇に、温かな唇が静かに重ねられたのを咲耶は感じた。けれどそれは本当に一瞬のことだった。はっと目を見開いたときには、呼々はもう咲耶の手を離れ、茂みから飛び出していた。


 彼女が消えた暗闇から、雨音にかき消された声の破片が飛び散る。


「いたぞ、女だ」

「つかまえろ」

「逃がすな」


 その薄汚い怒声さえも、遠ざかって消えていく。


(呼々ぉ……ッ!)


 咲耶は叫んだが、もう声にはならなかった。呼々がいなくなってしまった瞬間に、雨がいきなり強くなった気がした。すべての音を遮り、封じ込めてしまうような大雨。


 呼々を追いかけることも、立ち上がることすらできず、咲耶は一人で激しく泣いた。だが、いくら泣いても喚いても、すべて雨に呑み込まれて絶望の暗闇に溶けていくだけだった。


 川の激流を思わせるようなどしゃぶりの中、咲耶は泣きじゃくる。世界は真っ暗だった。手にあるのは懐剣だけ。呼々のぬくもりが幻のように残る、陽里の戦士の証だけだった。


(どうして……どうしてなの。どうしてみんないなくなってしまうの。陽巫女さま、呼々、みんな。みんないなくなってしまう。誰のせいなの。どうしてなの……)


 何度も繰り返し問ううちに、記憶のかけらから声が聞こえた。


 ――『禍の王』。

 ――『阿依良の穂尊ホタカ』。


(……許さない……)


 咲耶は無意識にこぶしを握り、手の内の懐剣をかたく握り締めていた。目蓋の裏に、一瞬、熱い炎が踊った。


(許さない。穂尊。そして禍の王……。絶対に許さない。絶対に、絶対に……わたしが殺してやる。二人とも、わたしが、この手で殺してやるわ)


 咲耶の中の何かがひび割れ、鋭い破片となって胸を刺した。痛い――けれど、陽巫女や陽里のみんなが受けた痛みはこんなものではないはずだ。


 この痛みを、禍の王にも思い知らせてやらなければ気がすまない。もう、倭のためだとか姫巫女の使命だとかとは関係なかった。ただ、憎い。あいつらのせいで陽巫女は死んだ、陽里は滅ぼされたのだ。怨んで何が悪い。


(こんなの、怨まずにはいられない……。怨むわ、怨み続ける。そして必ず、仇を討つ。いつか必ず討ってやるわ)


 苔むした大樹の根元に抱かれ、咲耶は小さくなって、全身で呼々の懐剣を抱きしめた。そして憎しみに燃えた瞳で雨闇を見据えながら、誓った。


(禍の王は、わたしが討つ……!)


 小さくうずくまったまま、咲耶は暗闇ばかりを見つめていた。雨は降り続き、地が水に打たれる音だけが耳に響く。何重にもこだまし、一生続くのではないかとすら思えてくる。


 夜明けなど、きっと永遠に訪れない。


(呼々……)


 咲耶は繰り返し繰り返し、彼女の名を呼んでいた。


 きっと帰ってくる。呼々は帰ってくる。夜明けが来ないのは、世界が呼々の帰りを待っているから。だからきっと、呼々は帰ってくる……。咲耶は必死に心で叫び続け、かすかな希望にすがりついていた。


 そうやって、絶え間なく呼々を呼び続けていたからだろう。咲耶は何度も夢を見た。幼い頃に呼々と二人で遊んだときの夢ばかりだった。


 里の他の巫女たちと野原に遊びに出るときには、いつも呼々が半べそでついてくるものだった。幼い頃、呼々は年上のくせに咲耶よりも泣き虫であった。


『咲耶さまァ、待ってください。呼々も行きます、一緒に遊びますぅ……ッ』

『あら、呼々はだめよ。呼々みたいな弱虫は連れて行かないの』


 つんとして咲耶が言うと、呼々は何とかこらえようと必死になり、そのせいでいっそう顔がぼろぼろになるのだった。周りの巫女仲間がくすくす笑う。


『さ、咲耶さま、咲耶さまぁ……。――うっ、うわああん』

『もう、しようがないのね、呼々は。そんなことで、誇り高い陽里の戦士が務まるの? 呼々はあたしの戦士になるんだから、しっかりしてよね』


 呆れながら、仕方なく咲耶は呼々の手を引いてやった。重なった手が熱い。


 呼々は涙をぬぐいながら、何度もしゃくり上げて言った。


『はい、はい……っ。強くなります。呼々は……咲耶さまを、きちんとお守りできる、一人前の戦士に……っ』


 咲耶はにっと笑った。


『言ったわね、約束よ。みんなが羨ましがるような、素敵な戦士になってね』


 呼々は大きく頷いた。


 ――約束します、絶対に……。


(ずっと、忘れていた……) 


 これで何度、目が覚めたのか。そして無明の闇の中で独り小さくなっている今が現実なのかどうかさえ、咲耶にはもうわからなくなっていた。けれど、さきほどまで呼々の手を引いて野原を駆けていたのは、夢に間違いなかった。すでに思い出になった、過去のことだ。


(そうだわ。 呼々は最初からあんなに強かったわけではなかった。わたしと約束したから……だから、一生懸命強くなってくれたんだわ。ちゃんと約束を果たしてくれた。わたしのために)


 呼々が泣かなくなったのはいつからだったろう。いつの間に、あんなに立派な陽里の戦士になっていたのだろう。いつの間に、女の子の視線を独り占めするような、麗しい戦士に……。


 咲耶は呼々の懐剣をぎゅと抱きしめた。枯れていた涙が、また溢れてきた。


(そして、呼々はずっとわたしを見てくれていた。守っていてくれていた。ずっと、ずっと)


 哀しいのは、さざなみのように寄せてくる思い出が、もう失われて取り戻せないものだからではなかった。気が遠くなるほど呼々を想い、彼女を夢見るのに、それが過ぎた日の呼々しか与えてくれなかったからだ。


 夜明け前に呼々が迎えに来てくれることなど、夢に見ることさえ叶わないのだった。


(いいえ、違う。呼々は来てくれる。呼々はわたしをおいていったりはしないわ……)


 きっと、もうすぐ。遅くなりました、と困ったように笑いながら、呼々は来てくれる――


 強く願ったと同時に、突然、咲耶の右手が痛んだ。あの花形の痣だ。


(なに……?)


 きりきりとした痛みを押し込めるように、咲耶は右の手の平で懐剣をきつく握り締めた。胸の張り裂けるような痛みが、手に移ったのだろうか。


 そのとき、ふいをついて視界に光が差した。真白い清らかな光が、湿った闇を切り裂き、咲耶を照らした。


(朝?)


 まぶしすぎて、まともに目を開けていられなかった。純白の光に追い立てられて消滅していく暗闇の悲鳴が聞こえるようだった。


 咲耶は顔を歪め、目をすぼめて光から逃げようとしたが、光の中心から人の腕が伸びてきて思わず止まった。優しく差し伸べられた、慈しみの溢れるような手。


(呼々!)


 心で叫び、咲耶は導かれるように、ひどく素直にその手を取った。


「――そんなところで何やってるんだ、ちび」


(え?) 


 思いがけない聞き覚えのない声に、目を丸くする。ぐいっと強く腕を引かれ、茂みから引っ張り出されて、咲耶はその手の正体を茫然として凝視した。


「こんなところに隠れて、物好きなやつだな。ずいぶん汚い格好をしているけれど、お前、迷子か?」


 泥だらけの咲耶をじろじろと見つめ、呆れたように言う。


(違う――呼々じゃない)


 呼々よりずっと背が高い、肩幅もしっかりとした見知らぬ人物が、そこに立っていた。

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