第9話
二人は寝具の上に横になっても、物が少なく広いだけの部屋の中では、なかなか落ち着けなかった。体も心もぐったりと疲れているのだが、色々なことがぐるぐると頭の中をめぐって、すぐに眠りに落ちることができなかった。
「……稚武、起きている?」
「おう」
二人は互いに天井を見つめながら、声だけで会話した。
「……すごいことになってしまったね…」
陳腐な台詞だと自分でも思ったが、風羽矢には他に言いようがなかった。
「君は、君のいるべきところに帰ってきた。だけど、本当に、それに僕を連れてきて良かったのかい。……僕はこんな、どこの馬の骨とも知れないような奴なのに」
「それ以上言ったら殴るぞ、本気で」
動かないまでも、稚武は本当に殴りかかりそうな声音で言った。
風羽矢は、また馬鹿なことを言ってしまったと気づいた。もう彼についていくしかないと決心したはずなのに。卑屈な態度は稚武のもっとも嫌うところだ。
「うん、ごめん…もう二度と言わないよ」
「絶対だぜ。そういえばお前、さっき、俺のためなら死んでも良いようなことを
「わかってる」
稚武の気性からして、自分のために他人が犠牲になることを嫌うのは当然だろう。風羽矢は彼の癇に触れないように話した。
「僕だって、僕のために誰かに死なれたら寝覚めが悪いもの。大丈夫だよ、自分の命を粗末にしたりしない」
「この先、どういう事態が待ち受けているかも分からないんだぜ。それでも、俺より自分のことを優先するんだぞ。絶対だからな」
「はいはい」
「誓えよ」
「誓うよ」
むきになっている稚武に、風羽矢は思わず笑みをこぼした。
「心配しないで。僕はこう見えても自分中心に動いているやつだし、図太いんだから。…本当だよ。僕は君のために死んだりしない。まぁ、君と一緒に死ぬことを選ぶかもね」
「おい」
焦ったような声にかまわず、風羽矢は澄んだ声音でさらに言った。
「君だってそうするんだろう。……稚武は僕のために死んだりしないだろうけど、僕を一人で死なせることもできないんじゃない?」
稚武は不覚にも押し黙った。そんなことは今まで考えたこともなかったが、想像してみると確かに、自分は風羽矢を失うことを選ばないだろうという気がした。それから、だけど、と思いなおす。
「俺は多分、風羽矢も死なせないし、俺も死なないことを選ぶ。どうにかして」
「うん。僕も同じ。当たり前だろ」
風羽矢は楽しそうに笑った。稚武のために死にたいとは思わないが、彼のために生きるのならいいだろうと思った。言えばまた怒るので、口にはしなかったが。
それでも稚武は何か感じ取ったらしく、不機嫌に言った。
「明日になったら突然、俺を『
「それは無茶だよ、稚武」
風羽矢は驚いて言った。
「どうしたって、君は
「かまわないだろ」
「いくらなんでも無理だよ」
本当に気楽に考えているらしい稚武に、風羽矢は非難めいた口調になった。
「君は気にしなくたって、周りの人はそうは思わないだろう。僕みたいな得体の知れない奴がそばにいたら、それだけで嫌な顔をする人もいるはずだ。皇子は皇子と呼ばれなくてはならないんだよ、稚武。君だって、周囲に認められなくちゃ困るだろう」
「……認められるために、か……」
「そう。
風羽矢の言うことは正論だった。夜闇の中、稚武は渋面でうなり、不満をありありと声に出した。
「……今だから言うけど、俺はずっと、本当の父親って人に会ってみたかった」
「うん」
風羽矢は彼からはっきりと聞いたことはなかったが、同じ養われ子として、それは分かりきっていた気持ちだった。自分だって、何度となく父と母のことを考えて夜を過ごしたりしたのだ。
「
「でも本当に、君は皇子だった」
言い聞かせるように言う風羽矢に、稚武はすぐ返した。
「現実から逃げるつもりはないんだ。俺はそんなにやわじゃない。……ただ」
「ただ?」
「俺は父親に会ってみたかった、いつかひょいと会えたら、俺のことを認めてほしいとは思ってた。宮古が生んだ、俺という存在のことを。それは本当だ。……だけど、皇子になりたかったわけじゃない。皇子としてみんなに認められても、べつに嬉しくない」
ただ、父に認めてもらいたいだけなのだ。
風羽矢は不思議に思った。
「え? だって稚武、君は大王になるんだと昔から言っていたじゃないか。新しい大きな国を建てて、泊瀬を都にするって。確かに最初の計画からは外れてしまったけれど、日嗣の皇子になるということは、その夢に大きく近づくことなんだよ?」
「こんなふうに偉くなるのは、俺がなりたいものと本質が違うんだ。俺は俺の実力だけで王になりたかったのに。血筋を敬われてもありがたくない」
風羽矢は笑った。
「贅沢だね、稚武。でも君らしいよ」
稚武が稚武らしくあることが、なんだかとても嬉しかった。それこそ、これから先、自分が守っていくべきものなのだ。
稚武はため息をつき、ぽつりと言った。
「新しい名前が欲しかったわけじゃないのにな……。俺は、稚武という名を世間に広めてやりたかったのに」
「がっかりしないでよ。せっかく大王に――お父さんに戴いた名じゃないか」
そういう意味だけでは、稚武も新しい名を誇りに思っていた。故郷を名乗るのも悪くない。だが、それでは今までの『稚武』であった自分は何なのだ。胸にただようやるせなさを無視することはできなかった。
とげのある沈黙に、風羽矢がまどろみの淵で苦笑した。
「わかったよ、稚武……。僕だけは君のことを稚武と呼び続けるよ。ただし、他の人が聞いていないときだけ、ね。それで我慢してよ」
「本当だな、約束だぞ」
「うん。――僕はずっと君についていく。君の隣なら、強くもなれるし、きっと色んな世界が見られるだろう……楽しみだな……」
風羽矢の眠たげな声につられたように、稚武は大きく一つあくびをした。
「苦労もするぜ、きっと。危険な目にあうかもしれないし」
「だから退屈もしないよ」
それだけ言うと、風羽矢はくうくうと寝息を立て始めた。彼が稚武より先に寝入ってしまうのは少し珍しかった。
稚武も、もう寝てしまおうとまぶたを閉じた。
(……明日から、俺はみんなに皇子と呼ばれる存在になる。大王には俺の他に後継ぎにできる奴がいない。――俺は強くならなくてはいけないんだ……)
人々の希望を背負った皇太子として。この国の未来を担う、たった一人の者として。
しかし、稚武が自覚しているのはそういうものと少し違った。
(強くなりたい……)
それは、大王の役に立ちたいというのと同意義だった。
甘えているのかもしれない。無責任なのかもしれない。だが、稚武は自分の感情に嘘がつけるほど器用な人間ではなかった。
きっと、一生忘れないだろう。死ぬときにさえ思い出すだろう。稚武が「父は誰か」と尋ねた時の、大王の笑みを。言葉をも超えた、あの返事を。
自分は多分、大王を好きになるのを止められない。すでに、大王に突き放されたら世界が真っ暗になってしまう気さえしているのだ。
(久慈は、大王が孤独であると言った。俺がしっかりすれば、大王も少しは心が休まるだろうか。禍を呼ぶ神器を破壊し、
そのとき初めて、自分はあの人を父と呼べるかもしれない。……すでに大王は呼んでいいと言ってくれているものの、今の自分にはまだその資格がないと稚武は感じていた。
(強くなろう。大王に降りかかる
そう、誰より稚武こそが、大王の笑顔を望んでいるのだった。
風羽矢の規則的な寝息を聞いているうちに、稚武もだんだんと眠りに引き込まれていった。
(大丈夫だ)
風羽矢が隣にいてくれる。それだけで、何にでも立ち向かっていけるような気がしていた。
稚武は、自分が周りの大人が思っているほど強くないことを知っている。単に負けず嫌いなだけ、つい強がってしまうだけなのだ。
だが、二人なら。風羽矢と一緒なら、きっと切り抜けていける。背負うものはあまりに大きく、一人では潰されてしまうかもしれないが、風羽矢となら。
(恐れるものなんて何もない)
稚武はそう信じていた。
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