第37話 トロッコ問題の正解は?

〈登場人物〉

サヤカ……小学5年生の女の子。

ウサ……サヤカが3歳の誕生日にもらった人語を解するヌイグルミ。



サヤカ「ねえ、ウサ。今日学校で、『トロッコ問題』っていう問題が出されたんだけど、知ってる?」


ウサ「知ってるよ。『列車が線路上を走っているとブレーキがきかなくなる。列車の進路上には逃げられない状態の人が5人いる。列車は進路を切り替えて支線に入ることができるが、支線にも逃げられない状態の人が1人いる。果たして、進路を切り替えるべきかどうか』っていう問題でしょう?」


サヤカ「うん。『総合』の時間に出されて、ずーっと考えているんだけど、なんかうまく考えることができなくて」


ウサ「じゃあ、一緒に考えてみましょうか。まず、普通の気持ちとしては、これは進路を切り替えた方がいいよね。だって、5人が犠牲になるのと、1人が犠牲になるのとでは、1人が犠牲になる方が、犠牲が少なくて済むからね」


サヤカ「うん……でもさ、ウサ、そもそも、どうして、その5人と1人は、線路の上なんかにいたんだろう」


ウサ「この5人と1人っていうのは、線路を修理している作業員っていう設定になっているの。でも、この設定を外して考えてみると、また面白いかもしれないよね。どうして、線路に入り込んだのか。作業員じゃない一般の人だとしたら、5人で入り込んでいる方が、1人で入り込んでいるよりも、なにか不純な動機を感じるよね。5人で悪ノリして線路に入り込んで遊んでいたみたいな。その場合は、5人の方を轢いた方がいいかもしれないね。自業自得だから」


サヤカ「……でも、仮にそうだとしても、そのときにそんな事情までは判断できないよね」


ウサ「そうね。じゃあ、とりあえず、5人と1人には線路に入り込んだことに関して責任が無いとして、考えを進めてみましょう」


サヤカ「ねえ、ウサ。人間の命ってかけがえのないものだよね。そうだとしたら、5人と1人で1人を轢いた方が、犠牲が少ないって考え方はできないんじゃないかな?」


ウサ「うん。サヤカちゃんの言うとおり、人間の命って、それぞれに一つしかないもので、かけがえのないものだって考えると、5人よりも1人を犠牲にした方が損害が少ないってことは言えなくなるね。そういう風に、数に置き換えることができないってことが、かけがえのないものだっていうそのことだからね」


サヤカ「でもさあ、だったら、この問題って、ちょっとおかしくないかなあ。先生はね、この問題は人間の命の大切さについて考えさせる問題だって言ってたんだけど、この問題自体が人間の命が、一つ一つかけがえのないものだって言う意味では、大切じゃないんだっていうことを、初めから前提にしているような気がするんだけど」


ウサ「5人と1人、多数と少数という言い方自体がもうそうなっているね。こういう問いの立て方をすると、5人を犠牲にするよりも、1人を犠牲にする方が損害が少ないから、そうすべきっていう答えにしかならないわ。人間の命を数で考えるということは、人間の命をかけがえのないものとしてではなく、損得で考えるということなんだからね。この問題には正解が無いって言われているけど、この問題自体が確実に、1人を犠牲にする方を選択することを要求していると言えると思う」


サヤカ「じゃあ、1人を犠牲にすべきっていうのが、トロッコ問題の正解なの?」


ウサ「正解というよりは、そうとしか考えられないということだけどね」


サヤカ「ねえ、ウサ……こんなこと言ったら引かれるかもしれないけど……」


ウサ「どうしたの?」


サヤカ「わたしね……これ、どっちでもいいんじゃないかなって思うの」


ウサ「どういうこと?」


サヤカ「5人を犠牲にしても、1人を犠牲にしても、わたし気にしないような気がするんだけど。もしも、その犠牲になる人の中に、家族とか友達とか親しい人がいたら別だよ。でも、全然関係ない人たちだったら、気にかけないような気がするの。……こういうのって、よくないよね?」


ウサ「よくないことないよ。というより、それは、普通の感覚じゃないかな」


サヤカ「そうなの?」


ウサ「そうよ。現に今まさにこの世界のどこかで確実に誰かが不幸な事故に遭って死んでいるだろうけれど、多くの人はそんなことは気にしてないからね。それは、自分にとって親しい人じゃないから、自分とは関係ないって思えるからよ。ただ、この『トロッコ問題』の場合は、実際に自分がその決断をしなければいけないってことだろうから、そうすると、どっちでもいいということは言いにくくなるんじゃないかな?」


サヤカ「……だとしたら、やっぱり1人を犠牲にする方かな。5人犠牲にしたら、1人を犠牲にするよりも、その人たちの親しい人の悲しみとか恨みがより大きくなるから」


ウサ「今サヤカちゃんが、犠牲になる人の中に親しい人がいたら別だって言ったけど、犠牲になる人がどういう人なのかというところは考えてみてもいいところだと思うわ。犠牲になる1人の方がもしも親しい人、たとえば、自分の母親で、犠牲になる5人の方が全然知らない人たちだとしたら、1人を助けて5人を犠牲にしたとしても、道徳的に責められる可能性は低くなるでしょうね。あるいは、1人の方が子どもで、5人の方が老人の場合とかね。1人の方が普通の人で、5人の方が死刑囚とか」


サヤカ「でもさ、ウサ。そうやって、状況を細かく考えていくとさ、状況はそれぞれの時に別ってことになってさ、だったら、別々のその時に判断しなくちゃいけないことになるわけでしょ? それを今考えることなんてできなくなっちゃうんじゃないかなあ?」


ウサ「その通りなんだけど、それを言ったらおしまいっていうところがあって、こういう問題は、そもそもあんまり現実的な話じゃないからね。ところでね、サヤカちゃん、実は『トロッコ問題』は、もう乗り越えられてしまっているのよ」


サヤカ「え、乗り越えられてしまっているってどういうこと?」


ウサ「『トロッコ問題』を、多数のために少数を犠牲にしていいかっていう問題だとするとね、わたしたちは、もう既に、多数のために少数を犠牲にしている世界に生きているのよ」


サヤカ「どういうこと?」


ウサ「たとえば、自動車っていうものがあるでしょ? 自動車によって亡くなった人は平成29年では3,600人を超えているんだけど、この自動車交通っていうシステムは、多数の人の利便性のために、3,600人っていう少数を犠牲にするものだって言えないかな? あるいは、サヤカちゃんも通っている小学校があるよね。文部科学省が今年の2月に発表したデータによると、小学生の不登校児は全体の1%に当たるみたいなんだけど、不登校児が出るにも関わらず小学校教育っていうシステムが続いているってことは、全体の99%という多数のために、1%という少数を犠牲にしていると言えないかな? こういう風にね、わたしたちは、現に多数が少数を犠牲にしている世界に生きているの」


サヤカ「……じゃあ、この『トロッコ問題』っていったい何のために考え出されたの? だって、もうその問題が乗り越えられている世界に、わたしたちは住んでいるっていうのに」


ウサ「それを考えるには、ある問題が乗り越えられているっていうことは、その問題が乗り越えられていること自体が意識されないということだってことを知る必要があるわ。たとえば、サヤカちゃんは、朝起きたときに人に向かって『おはよう』って言うことに、問題意識を持ちはしないでしょう? 問題意識を持たないということが、問題が乗り越えられているということなの。でも、そうだとしても、朝起きたときにどうして『おはよう』って言うべきなんだろうって、考えることはできるよね。『トロッコ問題』を考えるっていうのは、それと同じことよ」

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