こいの水槽あいに夢ちゅう
violet
第1話
子犬を抱いているかのような肌触りがした。恐らくそれは布団の感触だった。
エタノールの清潔な香り。ひんやりとした空気。しかし寒すぎず、涼しい。空調が効いているのか、それともそういった季節なのか。
私が感じることが出来る情報はそれだけだった。触覚と嗅覚と、たまに味覚が刺激されるだけの日々。もともと難聴だった私は音を一切感じることが出来なくなり、並みの視力だった私の視覚は光を受け付けなくなってしまった。
ああ、意識が朦朧とする。もう眠る時間らしい。眠る時間が夜とは限らない。私は今、朝に寝ようとしているのかもしれない。もしかしたら一日に何度も寝ているのかもしれない。しかし私に知る術は無い。
さらに意識が遠のく。世界から隔絶された私を、受け入れてくれる世界にゆっくり落ちていく。
暗闇で何も見えなくとも、ゆっくりと落下していく感覚。やがて、じゃぶじゃぶと沢山の気泡が私を追い越して浮上していく。真っ暗な世界から青い光が下から差し込む。
私は夢に落ちた。
*
上下が反転する。仰向けだった私の身体は、もはやうつ伏せとなって海の底を見上げている。沈んでいたはずなのに浮上している。
深海のように暗く、青く、静か。
ふと、私の足先を見た。そこに足と呼べるものはなかった。代わりに白い尾ひれがあった。
イルカの尾ひれだ。私はシロイルカになっていた。私はその尾ひれを勢いよく動かして、水面に急ぐ。
ばしゃん。
水面から飛び上がって世界を見渡した。強烈な太陽の日差し。青い空。白い雲。私を見る人々。白いペンキで塗られたコンクリートの壁。ガラスの水槽。海鳥の鳴き声。
ざぶん。
私は水しぶきを上げながら再度水中に潜る。大量の気泡が浮上していく。そこは深海ではなく、水族館の水槽。私が待ち望んでいた世界。世界の光が差し込んで、世界の音が響く世界。
水の冷たい感触が気持ち良い。ぶくぶくと鳴る気泡の音が気持ち良い。目に映る光景が楽しい。
どこか見覚えのある水族館。不思議と馴染みのある場所。水槽の向こう側には私を眺める人、次のエリアに進む人。
ぽんぽん。
水槽の向こう側の幼児がガラスを叩いた。
いいよ。
私はその幼児の近くまで寄る。私はおなかを幼児に向けながら円を描くように泳いだ。シロイルカにしかできない、器用な泳ぎ方だ。
きゃっきゃとはしゃぐ幼児。嬉しい。喜んでくれている。それならお得意のバブルリングでも披露してあげようかしら。
とそこで、幼児とその家族の隣で私を見つめる男性。またあなたですか。
私は彼のもとに寄る。彼はいつも真面目な顔で私を見つめるものだから、私も仕方がなく彼のもとに寄るのだ。
「また君か」
彼は苦手な笑顔を浮かべる。もっと自然に笑えるようにサービスしてあげよう。
私は顔を彼に向け、口を素早く大きく開いて、素早く閉じる。
ぱくぱくぱく。
シロイルカは他のイルカと違って口まわりがとても柔らかいから、こんな芸当も出来る。
「はは! 何だそれ」
ただ口を開けて閉じるの繰り返し。それを真正面でしたものだから、大そう間抜けに見えたことだろう。
ほら、ちゃんと笑えたね。
*
私は目を覚ました。私の目覚めはいつも曖昧だ。
ああ、またこの感触。この匂い。夢うつつの中、私は触覚と嗅覚で現実であると判断する。私を追い出した世界。仲間外れにした世界に戻ってきたと認識する。
何かが口に入れられた。恐らく薬だ。しかし毒物かもしれなかった。だってこの場所が本当に病院かどうかも私にはわからないのだ。
まあ毒だったとして、死んでしまっても構わないと思った。だってこの限られた情報のみの世界で、私はいったいどうすれば良いのか。そもそも私は生きているのか。いっそこの世界が夢で、あの世界が現実であれば良かったのに。
恐らく結構な時間が経っただろうところで睡魔がやってきた。ふと目と耳に違和感を感じた。ほんの些細な感覚だったので、私はあっさりと夢に落ちた。
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