第33話 特別な場所
「――――はぁはぁ、さすがにもう……限界、かも……」
全力疾走で昇降口から六年一組の教室へ……これがいけなかった。
ご存知の通り教室は地上四階の高さにあり、たどり着くには階段を使うしかない。そしてぼく、月代灯夜の体力は平均的な女子のそれにもわずかに劣る程度しかない。
この事実から導き出された結論が、現在のぼくの惨状を表している。視界はかすみ、激しく呼吸を乱してよろよろと歩く、まるで瀕死の病人のような姿。心臓はばくばくと脈打ち、休息を求めて悲鳴を上げている。
思えばここまで肉体を酷使した事は、いままでの人生で初めてかもしれない――――それほどまでに疲労しながらも、ぼくはまだ静流ちゃんを見つけられずにいた。
「教室に、荷物は……あった。まだ学校の中にいるのは、確か……なのに」
彼女が行きそうな場所はどこだろうか。わずかな記憶をたどって情報を探す……彼女と親しかったのはもう二年近く前、それもそう長い期間じゃない。けれど何か、何かあったはずだ。確かあれは……
酸素不足の脳内に浮かぶイメージの数々。その中から「特別な場所」を探す……女の子が泣きながら行く所だ。人気がなくて静かな場所のはず。それを計算に入れると……
……あった! ぼくは疲れ切った体に鞭打って、再び階段を目指す。目的地は――――屋上。ぼくは彼女から聞いたのだ。閉鎖されて入れないはずのそこへの侵入法を。
もう可能性うんぬんは問題じゃない。思いついた場所にとにかく向かうだけだ。
上り階段に再び息を切らせながら、萎えた足を踏み出す。必死に体を押し上げた先には、昨日も訪れた荷物置き場があった。屋上へ通じるドアはこの先だ。
不意にぎぎぃ、と上の方から音がした。誰かいる! 疲れも忘れて駆け寄ったぼくの前にあるのは、別段変わりない荷物置き場があるだけ……いや、屋上へのドアがわずかに開いている。人の気配を感じて屋上へ逃れた何者かがいるのだ!
「ドア自体の鍵は壊れていて誰でも開けられるのよ。けれどドアの前には監視カメラがあるから、真正面から行けばあっという間に御用というわけ。でもね、抜け道があるのよ……」
彼女に聞いた話を思い出しながら、体を屈めて這うように荷物の影を進む――――ここの監視カメラには死角がある。本来は正面全体をカバーするはずが、あまりに積まれ過ぎた荷物のせいで見えない部分が生じていたのだ。
この不具合は数年前から何の対策もされていない……おそらく、この事実を知っているのは一部の生徒だけなのだろう。
そびえ立つ壊れたロッカーの脇を抜けて、ようやくドアまでたどり着く。この向こうに居るのが静流ちゃんだという保証はない。けれど……
ごくり、とつばを飲み込んで、ぼくはドアを押し開けた。
はたして彼女は――――居た。傾き始めた陽の光に照らされて、冷ややかな風に髪を揺らしながらたたずむ少女。
「静流ちゃん!」
「月代……君」
ぼくを見てたじろぐ彼女。まさかここまで追い詰められるとは思っていなかったのだろう。その瞳にはわずかに怯えの色さえ見える。
――――よくよく考えてみれば、女の子を追い回すってなんだかストーカーまがいの行為だよね……
「私に何か用なの? 言いたい事でもあるの?」
怒気をはらんだ、静流ちゃんの言葉。ぼくが彼女に言いたい事といえば……
「ごめんなさい!」
言うと同時に、深々と頭を下げる。
心からの謝罪――――何が原因かわからないとはいえ、嫌われるからにはぼくが悪いはずなのだ。だから、謝る。謝った上で初めて、彼女に問いただす事ができる。どうしてぼくを嫌いになったのか、その理由を。
「何よ、それ……」
「ぼくを嫌いになったなら、ぼくに悪いところがあったんだよね? だから、ごめんなさい!」
頭を下げたまま、彼女の返答を待つ。ばくん、ばくんという音が頭に響いて、まるで心臓が耳元にあるようだ。
「……あなた、何もわかってない」
ぽつりと、つぶやく声。
「何がごめんなさいよ。謝る理由もわからないくせに!」
怒気を強めて叫ぶ静流ちゃん。図星だ。けれど、ぼくには彼女に謝るという選択肢しか思いつかなかったのだ。
「あなたは、いつもそう。自分を悪者にして貧乏くじばかり引いてる。周りの目を気にして、自分を殺して――――」
その時だ。ぼくの背筋に名状しがたい悪寒が駆け抜けたのは。つい最近にも感じた事がある、異様な気配。それがどんどん大きく膨らんでいく……ぼくのすぐ目の前で!
「自分がいい子に見られたいとか、そんな理由じゃないのは分かってる! けれど、あなたが良かれと思ってした事で――――」
顔を上げたぼくが目にしたのは、怒りにまかせてまくし立てる静流ちゃんと……その背後にそびえ立つ異形の姿。
プールの水面から生えたそれは水そのもののようで、しかし明らかに異質な存在だった。鎌首をもたげた蛇のようにそそり立っていたそれは徐々にその形を変え……透き通った女性の姿を得るに至る。
――――水の、妖精。そうとしか言いようのない美しい姿。しかしその眼に宿った光は、身にまとった気配は……明らかに悪意に満ちていた。
「どうしてあなたが謝るの……悪者は私なのに、どうして謝るの!」
ぼくがその悪意の矛先に思い至った時、すべては手遅れだった。
「静流ちゃん、危な――――」
水の妖精の体が弾け、幾条もの水流となって静流ちゃんを包み込む。悲鳴を上げる間も無く、少女は水底へと引きずり込まれていた。
「静流ちゃーん!」
慌ててプールに駆け寄るぼくを
避けなければ! でも、頭ではわかっていても体がついてこない。全力疾走を繰り返した
そんな事情もお構いなしに、容赦なく叩き付けられる水流。あっ、と思った時にはすでに、ぼくの体は宙へと弾き飛ばされていた。
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