第3話 正義と悪 2

 ケレベクが笑った。


「おおかたジーライルのつかいっ走りだろう」


 ギョクハンもファルザードも硬直した。


「根性の曲がったジョルファ人の若造だ。違うか」

「……えーっと……」

「可哀想にな。お前らは踊らされてる。あいつはアズィーズが自分の手を汚すのが好きじゃねぇから他人にこういうことをやらせるんだ。俺は何度も用事があるんならテメエの足で歩いてこいって言っているんだがな」


 ギョクハンは複雑な心境だった。これでアズィーズとジーライルが怒風組側の人間でないことははっきりしたが、余計に混乱する。


「あの。アズィーズ様とジーライルって、何者なんですか?」


 同じことを思っているらしい。ファルザードが単刀直入に訊いた。


「僕ら、何にも聞かされずに、皇帝スルタンに会わせてやるから怒風組をやっつけてこい、って言われてここまで来たんですけど」


 構成員の一人が進み出てきて、ケレベクの空になった酒杯に葡萄酒を注いだ。


「知らねぇのか。お前らどこから来た」

「ワルダです」

「ちぃっとばっかし遠いな。しかし奴らの影響力もそんなもんか」


 酒杯をふたたび手に取る。


「知らねぇんなら知らねぇまんま帰ったほうがいい。へたに中央の政治のごたごたに巻き込まれるとつらいぞ」

「いや、もうここまで来ちゃいましたし……」

「だがアズィーズを通せば皇帝スルタンに会えるのは本当だ。奴らは騙しているわけじゃあない。本当に俺の首を持って帰ったら口利きをしてくれるはずだ。その辺の約束は守るだろう、奴らは自分たちを正義の味方だと思っているからな」


 ケレベクに「お前らも飲むか」と問われた。二人とも慌てて首を横に振った。


「残念だがあいつらとは仲良くやれない。言うことを聞いてやることはできねぇ」

「それってどうしてですか」


 ファルザードが問いかける。


「あなたたちの正義とアズィーズ様の正義が相いれないからですか」


 ケレベクは声を上げて笑った。


「そんな哲学的な話じゃあない」

「では――」

「俺は俺が正義の味方だと思っちゃいない。むしろ悪だ。強いて言うなら悪を貫くことが俺の正義なんだ。わかるか」


 彼は「必要悪だ」と言う。


「世間様が混乱している。表社会はしたたかな連中で作られてるから事が起こってもみんなうまく生き残るんだろうが、草葉の陰で生きる有象無象はそうはいかない。俺たちはそういう連中の受け皿になっている」


 そして、「見ろ」と言って左手を掲げ、後ろのほうにいる構成員たちを指し示した。


「ここにいるのはみんな不幸な境遇でな。だいたいは逃亡奴隷で、もとの身分に戻ったら苦しい奴らばかりだ。だがそういう連中を虐げることで表社会はうまく回っている」


 右手で酒杯を口元に持ってくる。一口飲む。


「表社会の連中は全部悪い任侠アイヤールのせいだと言えば満足するんだ。自分たちが悪いなんてこれっぽっちも思っちゃいない。だが俺はそれでいいと思う。俺たちは法の外にある秩序だ、法の内側にいる連中とは別の世界で生きてる」


 ファルザードが言った。


「法の外に秩序なんておかしくないでしょうか。僕にとっては法こそ秩序だし、逆に言えば法さえ守れば人間は自由でいいと思っています。あなたたちも自分で自分を束縛しないで解放されたらいいんじゃないでしょうか」

「若いなボウズ」


 ケレベクの表情はなおも穏やかだ。眼光は鋭く威圧感はぬぐえないが、すぐに攻撃されるとも思わなかった。


「どこに行っても不文律からは逃れられない。血縁、地縁、主従関係、どこに行っても付きまとう。お前らもいつか気づくだろう、人間は人間をやっている限り何らかの掟に支配されるんだ」


 ファルザードは押し黙った。むしろ性奴隷として売り買いされた経験のあるファルザードこそその不文律の重圧を感じているのかもしれなかった。


「だったら、自分の好きな秩序を選べたらいい。表社会の束縛から逃れて裏社会の色に染まるんだ。それが人間に許された最後の自由だ」


 また、酒杯を置いた。


「帰りな――と言いたいところだが」


 そこで、問われた。

「帰る家はあるか? お前ら何教徒だ。お前らも奴隷なんじゃねぇのか」


 ギョクハンは唾を飲んだ。


「うちに来るか。俺が世話してやるぞ」


 ケレベクが手招く。その太い指は力強い。


「無理しておうちに帰る必要はない。ここにいてもいい」


 選択肢を突きつけられた。


「自由に選んでいい。つらいおうちに帰るか、楽しいうちの子になるか、だ」


 しばらくの間、場が沈黙に支配された。

 息を呑む。自分の鼓動を聞く。手汗をかく。

 ギョクハンは、ゆっくり、口を開いた。


「いや、何言ってんだ? 俺、家に帰るし」


 つい、言ってしまった。


「自由に選んでいいんならザイナブ様を選ぶに決まってんだろ。法を守って誰かに仕えたら不幸みたいな言い方するのやめてほしい。俺は俺を評価してくださるザイナブ様についていく。ザイナブ様を選んでいるのは俺自身だ」


 ケレベクが声を上げて笑った。


「『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』か。いいご主人様に当たったんだな。よっぽどのべっぴんさんなんだろう」

「まあ美人だけど、顔というか、心がとてもお美しい方なんだ」

「それでいい」


 そして、「それでいいんだ」と繰り返す。


「俺に押し付けられる自由を自由だと思わない自由もあるさ」


 ファルザードが、隣で大きく息を吐いた。


「いいか、小僧」


 ケレベクの右目が、ギョクハンを見つめている。


「一回そうと決めたんなら最後まで貫け。刀折れ矢尽きるその最後の瞬間まで『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』を守れ。お前が信じるんならその信念は正義だ。お前の正義を絶対に忘れるんじゃねぇぞ。基準がぶれた時人は死ぬ」


 ギョクハンは、頷いた。


「そして、俺も俺の悪の道を譲らねぇ。俺も俺の基準を守る」


 ファルザードが「えっ、待ってくださいよ」と声を上げた。


「それって結局僕らはここに来た意味がなくなるじゃないですか。アズィーズ様とジーライルにどう報告すればいいんですか」


 ケレベクはまた笑った。よく笑う男だ。


「賢い坊やだ」


 そこで唐突に問われた。


「なんで皇帝スルタンに会いたいんだ」


 ギョクハンとファルザードは顔を見合わせた。


「……説明してもいいんじゃないか?」

「そう……だね。ギョクがザイナブ様の名前出しちゃったし」

「すまん」

「ここまで来たら、もういいよ」


 ファルザードがケレベクのほうを向く。


「ワルダ城は今ナハルに包囲されています。それで、ザイナブ様の命令で、皇帝スルタンに援軍を出してもらうよう頼みに行く、ということになりました。皇子様と結婚することになってもいいから、って。ムハッラムに知られないよう、できる限り、内密に」

「なるほどな」


 ケレベクが座椅子の背もたれから上半身を起こした。まっすぐ二人に向き合った。


「今の皇帝スルタンなんかあてにするんじゃねぇ! あの男は何もできねぇクズだ。あの男がしっかりしてたら俺たちなんざ必要なかったんだ」


 ケレベクの大きな声を聞くと、自分たちが怒鳴られた気がしてきて肩が震えてしまう。


「ここまで来たご褒美に俺が今の宮廷で一番の実力者を紹介してやる。皇帝スルタンはやめとけ」


 ファルザードが食いつく。


「やっぱり誰か宮廷で発言力のある人とつながっているんですね」

「やっぱりとは何だ」

「教えてください。どなたですか」


 ケレベクが、ゆっくり、立ち上がる。


「教えてやる前に。ひとつ、試験だ」


 上着を脱ぐ。たくましく分厚い傷だらけの上半身が出てくる。


「俺の道義だ。あの方を紹介する前に、お前らがあの方にお会いするに足る人間か確認する」


 上着を放り投げた。構成員の一人がそれを拾い上げた。そして三歩下がった。


「裏社会では力が掟を作る。力を示せ。俺が唸るくらい強いと思えたら、案内してやる」


 その掟は、わかりやすい。

 ギョクハンは、その秩序の中でなら戦える、と思った。

 ザイナブを救うために力を振るう――軍人であるギョクハンにとってこれほどわかりやすく納得しやすい正義はない。


「わかった。俺が二人分やる。俺が勝てたらその宮廷で一番の実力者とやらを紹介してくれ」

「いいぞ、約束だ。お前が負けたら、援軍は諦めて二人でおうちに帰るんだぞ。自力で『勇敢なる月カマル・アッシャジューア』を救え」

「ああ。約束だからな」


 ギョクハンも上着を脱いだ。それから腰の刀を二振りとも帯からはずした。「持ってろ」と言ってファルザードに渡す。ファルザードは受け取り、黙って三歩下がった。


「負けないでよ」

「任せとけ」


 ケレベクが緞帳を引きちぎった。そして床にぶちまけるように投げた。緞帳は絨毯の上にふわりと広がり、部屋の中に一辺がギョクハンの歩幅ふたつ分くらいずつの正方形の空間を作った。


「この中に立て」


 言われたとおり、緞帳の上に立った。舞台に上がった気分だ。


「この布の外に出たほうが負けだ」

「わかった。やってやる」


 構成員たちに「お前ら見てろ」と投げ掛ける。構成員たちが「はい、おかしら」と答える。


「勝負だ」


 ギョクハンとケレベクが、向かい合った。


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