第3話 アブー・アリー邸 1

 イディグナ河西岸、ヒザーナの北側の高台に、円城、という旧市街がある。文字どおり円形の城壁が巡らされていて、内側は城塞であり高級住宅街でもある。緊急時に円城の中心の宮殿へ召集される上級の武官や文官の住まいが軒を連ねているのだ。


 その一角、財務に関わる上級書記カーティブアブー・アリーの住まいに、ギョクハンとファルザードはいた。

 二階の奥の宝物庫である。

 ここに、アブー・アリーが俸禄や領地からの税でこつこつと貯蓄して作った金塊の山と、いつどこで手に入れたのかファルザードの握り拳より大きい金剛石ダイヤモンド、彼の妻たちの所有物である数々の宝飾品が積まれていた。


 そして、それを、アブー・アリーが部屋の隅から見つめている。


 怒風組は財宝とアブー・アリーの命を狙ってこの部屋にやって来る――一同はそう確信していた。


 室内には、アブー・アリーの他に、アズィーズの紹介で来た――というだけでなぜか通してもらえた、アズィーズが何者なのかますます怪しくなったがそれは今は脇に置いておいて――ギョクハンとファルザード、アブー・アリーの私兵の傭役軍人マムルーク四人が待機している。ギョクハンと傭役軍人マムルーク四人が力を合わせれば難なく迎撃できるだろうとふんでいた。


 誰がいても、正々堂々略奪することにこだわる怒風組は、アブー・アリーがいる上に財宝が積まれているここにまっすぐ突っ込んでくるだろう。


 読みどおり、その時はまるで待ち合わせの約束をしていたかのように訪れた。


 部屋の外、正門の方から、非常事態を告げる警笛の音が聞こえてきた。怒風組が現れたのだ。なんと、正面玄関から入ってこようというのである。私兵だけを残してアブー・アリーの家族や女奴隷たちを避難させておいてよかった。


 怒鳴り合う声が聞こえてくる。部屋の外で警護に当たっていた私兵たちと怒風組の刺客が乱闘騒ぎを起こしている証拠だ。しかし私兵たちには刺客を殺さずこの部屋に誘導するよう言いつけてある。


 音がどんどん近づいてくる。


 階段を駆け上がる足音がする。


 こちらに迫ってくる。


 ギョクハンと傭役軍人マムルークたちは棒を構えた。剣では斬り殺してしまうからだ。棒で撲殺してしまう可能性もなくはないが、使いようによっては昏倒させるだけで捕まえることもできる。


 部屋の隅で、アブー・アリーとファルザードが身を寄せ合った。

 あちらは大丈夫そうだ。


 来た。


 部屋の戸が蹴り開けられた。


 突入してきたのは、黒い服をまとい、膝丈の筒袴ズボンをはいていて、黒い巻き布ターバンを巻いた、体格のいい男たちだった。


 黒服の男たちが野太い声で怒鳴る。


「アブー・アリーを出せ」


 傭役軍人マムルークたちが怒鳴り返す。


「そう簡単にやれるか」


 黒服の男たちが部屋の奥、隅のほうを見やる。


「その豚がアブー・アリーだな」


 恰幅のいいアブー・アリーの太い指のついた手が、ファルザードの華奢な体を抱き寄せた。ファルザードは真剣な顔をして黒服の男たちをにらみながらおとなしくしている。


「引き渡せ」

「やってみろ。力ずくでな!」

「望むところだ!」


 入ってきた男は全部で七人だった。

 彼らはいずれも短剣を手にしていた。

 切っ先が黒く濡れている。何か毒物を塗っているのだろう。触れたらどういう症状が出るかわからない。あの刃に触れることなく倒さなければならない。


 だが、向こうは刃渡りの短い剣で、こちらは腕より長い棒だ。長さ、つまり間合いなら分がある。


 男たちが叫びながら突進してきた。

 ギョクハンと四人の傭役軍人マムルークも駆け出した。

 金塊が窓から差し入る月光で怪しい光を放つ中、両者が激突した。


 ギョクハンの棒がぶつかってきた男の腹を打つ。

 男がひるんだところで棒の尻で男の脇腹を突く。

 男が倒れる。

 油断はならない。

 棒を大きく振って側頭部を思い切り叩いた。

 派手な音がした。頭蓋骨が割れたかもしれないが一人ぐらいならいいだろう。


 そのまま、隣の傭役軍人マムルークに襲いかかった男の背中を打つ。

 男が硬直する。

 そこを前から傭役軍人マムルークが踏むように蹴る。

 胸を突かれて男が倒れた。


 うめき声が聞こえてきた。そちらのほうを見ると、傭役軍人マムルークのうちの一人が左腕に刃を受けたようだ。その傷は浅そうだったが、左手が痙攣けいれんしている。


 黒服の男が、短剣の柄を両手で握って、傭役軍人マムルークの背中に突き立てようとする――


「させるか!」


 ギョクハンは棒を床について軸にして、両足で横から黒服の男を蹴った。

 黒服の男が吹っ飛んだ。

 壁にぶち当たる。

 あまりの衝撃だったためかゆっくり起き上がってきたところを、棒で胸を突いて黙らせた。男が床に崩れ落ちた。


 傭役軍人マムルークたちが苦戦している。相手もそれなりの手練れらしい。私兵とはいえ職業軍人である傭役軍人マムルークたちとほぼ互角に戦えるとは、となると、怒風組とはいったい何者なのだろう。


 考えているうちに、脇から黒い刃が突き出された。ギョクハンは身を引き、すんでのところでかわした。


 黒服の男の蹴りが繰り出される。一瞬棒から右手を離し、右腕で受ける。なかなか重い。相手は訓練を受けた人間のように思える。


 だからといって負ける気はしない。


 棒を両手で握り締めた。槍を回旋させる要領で棒を振る。男が一歩後ろに跳びすさってかわす。


「アブー・アリーめ!」


 怒鳴り声が聞こえてきた。


 部屋の隅にいるアブー・アリーに向かって一人の男が刃を振りかざしながら突進してきていた。


 あともう少しでアブー・アリーにたどりつく。


 アブー・アリーが、抱えていたファルザードを後ろに放り出すかのように押し退けた。

 そして、ファルザードをかばうように両足で立ち、身を低くして、黒服の男のふところに突っ込んだ。

 黒服の男が後ろに突き飛ばされてよろめいた。


 アブー・アリーの張り手が黒服の男の顔にめり込む。月明かりに白く小さなもの――歯が飛んでいった。


「テメエ、アブー・アリーじゃねぇな」


 黒服の男の一人が言うと、アブー・アリー――になりすましていた、アブー・アリーとよく似た体格の男が、顔を覆っていた巻き布ターバンを取り去った。きれいに剃り上げられたひげのない顎、編み込まれた黒髪、鋭い目元――トゥラン人だ。


「気づくのが遅いぞ」


 実は、彼はアブー・アリーの私兵の軍人奴隷マムルークの隊長なのだ。その服の下にある肉は本物のアブー・アリーと違って脂肪だけではない。分厚い脂の下に鎧のような筋肉がひしめいている。


「いつ入れ替わった!?」

「むざむざ貴様らの餌食になると思っておったのか」


 私兵の隊長が足を肩幅に開いて床を踏み締めた。彼だけは素手だがトゥラン相撲の達人だ。両腕を広げたさまは翼を広げた猛禽のようだった。


 待つことなく、黒服の男の左頬に張り手を喰らわせた。間を置かずに、右頬に張り手を叩き込んだ。黒服の男が昏倒した。


あるじとそのご家族には昼間のうちに円城の外、イディグナ河の東岸の安全なところへ避難していただいた。貴様らがお会いすることはない」

「テメエ……っ」

「我々は自ら主を選んだ軍人だ。貴様らはどう思っているのか知らんが、我々にとってアブー・アリー様は互いに利用価値のある存在なのだ」


 私兵の隊長の張り手が、別の黒服の男の顔面を突き飛ばした。


「義賊だと? 笑わせてくれるわ。犯罪者集団が正義を気取ってくれるな。我々には我々の道理があるのだ」

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