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音楽室の窓ガラスを開け、ずっと外の様子を眺めていた。思えば、こうして太陽が沈み、夕暮れから少しずつ夜へと移り変わる様子を見届けるのは久しぶりだ。
ポツポツと海上に広がる空に星が浮かび始め、赤と紺の混じった紫色のような色に空は染まり、雲は鈍く輝く。ゆったりとした変化で、それこそ眠りにつくかのように自然と世界は夜へと落ちて行った。
「お待たせ。電気もつけないで何しているの」
そんな声が聞こえて来て、振り返るとそこには彼女がいる。
「何か面白いものでも見えた?」
「どうだろう」
世界が明るくなったり暗くなったりするというのは目に見えて大きな変化だ。そんな移り変わりを毎日のように繰り返していて、それが何だかとても驚くべきことのように感じられると共にとても不思議なことだと僕は思う。
「帰ろうか」と、そんな彼女の声が僕を学校の音楽室に引き戻す。僕は「そうだね」と返し、ピアノを閉じ、音楽室の扉に鍵をかけ、学校を出て彼女と共に帰路に就いた。
冬の夜。右手側には海。左手側には彼女。暗くなった通学路を歩く。
僕がマフラーで口を隠すと、彼女は夜空を見上げて白い息を吐く。
「こうして一緒に帰っていると、なんだか小学生に戻ったみたいだよね」
「そうだね」
ふと、数か月前の僕が今の僕を見たら何と思うだろうとそんなことが頭を過った。もう一度ピアノを弾こうとしていて、もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女とこんな風にまるで小学生に戻ったかのように一緒に帰っている。もしかしたらこれは夢なのではないのかと、そう疑ってしまうほどに数か月前の僕からしたら夢でしか見ることが許されないような光景が現実として広がっている。
数時間前、あの音楽室での出来事も、二人の子供から僕のピアノを褒められたことも、すべてが夢の出来事であるように感じられる。
「さっきの男の子と女の子、晴君と琴音さんだっけ? あの二人は秋野さんが受け持っている生徒なの?」
「そうだよ。小学二年生で、私が担任をしているクラスの子」
彼女は「クラス、といっても生徒はあの二人しかいないんだけどね」と頬を掻きながら笑った。
「信世君、ピアノの練習のために音楽室にいたっていうことは、つまりそういうことだよね?」
少し早足になった彼女は僕の数歩前に出て振り返る。
「そうだね」
つまり、閉校式でピアノを弾くことに決めたということ。ピアノをもう一度弾くと、僕はそう決めた。
「ピアノを弾かなくなってかなりの時間が経ってしまったから、閉校式で上手く演奏できないかもしれないけど」
「大丈夫だよ。晴君も琴音ちゃんも、また聞きたいって言っていたでしょ。だから大丈夫」
「そっか」
「うん」
それから、彼女は前を向いて歩き始めながら「閉校式か~」とため息交じりに呟いた。
「もう、どうしようもないことなんだろうね」
そう言う彼女の声はどこか悲しい。本当にあの学校はなくなってしまうのだ。彼女の言う通り廃校になるのは仕方のないことなのだと思う。今あの学校に通っている生徒は八人。数年ぶりにこの町の駅に来た時にも感じたが、悲しいほど僕の故郷は小さくなりすぎた。シャッターはおりて、田畑は荒れて、人は減って、衰退という名のついた沼にゆっくりと呑み込まれていくかのように僕には見える。
「秋野さんはやっぱりあの学校は無くなって欲しくないって思っているよね」
それは聞くまでもない。彼女はまだあの学校に通っていた時に抱いていた夢を叶えていて、あの学校で夢を現実のものにしている。そうでなくても僕達にとってあの学校は思い出が現実に体現したようなものなのだ。あの学校が壊されて無くなってしまうということは、つまり僕等の思い出が壊されて跡形もなく消え去ってしまうことを意味しているようでならない。
「僕も、あの学校がなくなってしまうのは嫌だな」
忘れてしまいたい思い出と忘れたくない思い出。心に負った傷と心に刻まれた傷。その舞台がこの町で、あの学校だ。
「せめて壊さないでって町の皆に署名をしてもらって訴えたこともあったんだけど、結局ダメだったの」
「そうなの?」
「うん。鳴海君とか、色々な人に協力してもらって働きかけたんだ」
「知らなかった……」
そんなこと、僕は知らなかった。僕はこの町のことを捨てて、あの学校も一度捨てたのだからそれも当然なのかもしれない。
「校舎を何か別の施設として利用しようだとか、そういう意見をまとめたりしたんだけどね。でも、やっぱりダメだったの」
他の施設。福祉施設だとか、役所の庁舎だとか、そういう提案もしたが、どれも結局は却下されてしまったという。
「結局立地が悪いからどうしようもないんだって。こんな所にそんな施設を作っても町に住んでいるわずかな人しか利用者は見込めない。それと、そもそも校舎自体がもうボロボロらしくて、新しい施設として活用しようとしてもリフォームとかでお金がかかる。だったら壊したほうが良いだとか、そんな風に言われちゃった」
そうして彼女は、「どうしようもないんだよ」と、そう繰り返しながら僕の前を歩く。
「どうしようもないことは確かにあるのだと思う。信世君はさ、変わってしまったって話していたよね。それは私もそうだよ。なんだろうね、よく分からないんだけど、変わったなぁってそう思うよ」
僕は、彼女に何と声をかければいいのか分からなかった。彼女にかけるべき言葉なんてどこにもないし、あったとしても僕が彼女に言う資格などないような気がした。
だって、僕は一度切り捨てたから。もう一度この町に逃げるように帰って来て、もう一度ピアノを弾こうなんて意気込んではいる。でもだからといって一度切り捨てた事実は変わらない。
そう、変わらないのだ。終わったものは変わらない。今何をしたところであの学校は無くなる。それはもう覆しようもない現実なのだ。
彼女は悲しいと、あの夜の日にそう言っていた。幸せだけれど悲しいことがあると、確かにそう言っていた。その悲しみの深さを僕が知ることなど出来ないだろう。どん底に落ちて、やっと這い上がろうとしている僕なのだ。そんな僕が、一体彼女のために何が出来ると言うのだろう。
きっと救われたかった。何から救われたいのかは明確に分からないし、どうすれば救われるのかも分からないけれど、僕はきっと救いを求めている。
彼女が僕のピアノの音色が好きだと言うのなら、あの少年と少女がもう一度僕のピアノが聞きたいというのなら、それは彼女達にとって救いになってくれるのだろうか。
もしそうなってくれたのなら、きっと僕は救われる。
冬の夜に波の音を聞きながら少し前を行く彼女の背中を見つめて、もう何度目なのかも分からないくだらない悩みのその先で、結局僕の口から出てくる言葉はどうしようもなく馬鹿らしい言葉だ。
「ピアノ、弾くから」
別の方向を向いていたとしても。もう決して交わることはないのだとしても、それでも君が、僕の弾くピアノの音が好きだというのなら、例えそれがどこまでも自己完結的で虚しい選択であろうとも、それでも僕はずっと奏で続けるべきだった。
「それと、ごめんなさい」
何もかもに、ごめんなさい。
その罪を背負うから、もう一度ピアノの鍵盤に触れることを許してほしい。
前を行く君は「楽しみにしてる」と、そう微笑んでくれた。
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