未来への手紙
青空奏佑
序章
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砂浜はどこまでも続き、広がる海は一時も休むことなく揺らいでいる。
砂浜に出来た足跡は海水に呑まれ、夕日がすべてを赤色に染め上げた。海の声がどこか儚げに夕時の空気に溶け込んでいる。
そんな中、僕は大きな黒いピアノを前にして鍵盤をジッと見つめた。
白と黒の鍵盤が交互に並んでいて、このピアノは誰かに弾かれることをずっと待っているようだった。
きっとこのピアノは僕のことをずっと待っていてくれたのだ。僕は根拠もなくそんな事を思って身勝手に嬉しくなる。そうして白い鍵盤を一つ人差し指で押し込むのだ。
どこまでも続く砂浜。どこまでも広がる海。音は一本の線のようにこの世界を駆けて行く。
そのことが嬉しくて、僕は続けて白い鍵盤を人差し指で押し込んだ。
ポーン、ポーン、ポーン、一本の線が駆け抜けて、僕は気が付けば両手の指すべてを使ってピアノを弾いていた。
音の線は複雑に絡まって美しくどこまでも伸びて行く。ピアノの奏でる音は僕自身の声のようで、僕がピアノを弾くことはずっと昔から決められていたのだと、そんな事を思っていた。
指を鍵盤の上で踊らせて、顔を上げて、真横を見る。
そこには君の姿があった。水平線に沈む夕日を背にして、瞳を閉じる君の姿がある。
君は海の音とピアノの音に合わせて小さく体を揺らしていて、僕の肩に君の肩が触れ合って、きっと幸せというのはこういうことを言うのだろう。
こんな時間がいつまでも続けばいい。僕はずっとピアノを弾いて、ずっと幸せを噛みしめていて、ずっとこのままでありたいと心の底から願った。
でも夕日は沈むのだ。夕日が沈めば夜が来る。
夜の海はとても寂しげで、不安を体現したようにゆらゆらと揺らめいている。
そんな中、人が一人砂浜を歩いて僕達の所にやって来た。
その人は僕の隣で座っている君に向かって微笑む。すると、君は瞳を開けて笑みを浮かべその人の元へ駆けて行った。
そうして君はその人と手を繋いで砂浜を歩いて行く。砂浜には二人の足跡が残る。
僕はそんな二人の後ろ姿を見ていることしか出来なかった。
本当は君にいつまでもそばにいて欲しかったけれど、行かないで欲しいと声を上げたかったけれど。でも僕はそう出来なかった。
だって、僕はこのピアノから離れるわけにはいかなかったから。ピアノは僕の体の一部で、ピアノは僕のすべてだったから。
そんな僕に出来る事はずっとピアノを奏で続けることだけだ。
僕の傍にいてほしい。離れて行かないで欲しい。そんな思いをのせてピアノを弾くことしか出来なかった。
でも僕の気持ちは届かない。僕の奏でているピアノの音が君に届くことはない。
君はその人と幸せそうに話していて、ギュッと手を繋いで夜の砂浜を歩いて行く。そんな君が、ピアノを弾くことしか出来ない僕に振り向くことなどないのだ。
僕の幸せと君の幸せは違うのだ。だから君はその人とこんな物寂しい世界から出て行く。
後ろ姿は夜に消え、君はもうどこにもいない。
それでも僕はピアノを弾き続けた。夜になっても、ずっと一人で弾き続けた。
もう僕の声を、ピアノの音を聞いてくれる人はいないことなど分かっている。こんなことをしたって意味がないことも分かっている。それでも僕はピアノを弾き続けるしかなかった。僕にはこれしかなかったからだ。
海は休むことなく揺らぎ続け、海水がゆっくりと砂浜を呑み込んでいく。
足首まで海水に浸かった。腰まで海水に浸かった。動くことの出来ない僕とピアノはゆっくりと海に呑まれていく。
「…………」
とても冷たかった。
手は鍵盤と共に海に浸かり、ジワジワと冷たい海水が首を這い上がって来る。
ピアノの音は鈍り、ついにその時が来たのだと僕は瞳を閉じた。
頭の先まで海に呑まれ、ピアノの鍵盤を叩くように弾いても音は出ない。
瞳を開けると、頭上に満月が浮かんでいた。その揺らぐ満月に向かいピアノの鍵盤が吐き出した空気の泡がポツポツと昇って行く。
綺麗だと思えたのは一瞬だ。すぐに苦しくなって胸が詰まった。
いつまでピアノを弾き続ければいいのだろう。もう音すら出ないのに、こんなにも苦しいのに、それでも僕は弾き続けなければならない。
いつから苦しみもがくようにピアノを弾くようになってしまったのだろう。その事実がどうしようもなく悲しくて、自然と流れた涙は海水に溶け込んでいった。
ゆっくりと暗い海の底へ。僕はピアノと共にどこまでも落ちて行く。
月の光さえもう届かない。ただ真っ暗で、ただ息苦しいだけの世界。
意識が遠のいて、それでもピアノを弾き続けて。だけど結局僕は鍵盤から指を離してしまった。
すべては無駄たった。すべては間違いで勘違いだった。もう涙すら流れない。
気が付けば、ずっと一緒にいたピアノすら見失った。もうピアノに縋りつくことすら出来ない。
重い黒に塗りつぶされた世界で僕は一人瞳を閉じる。
僕はすべてを諦めて、静かに息を止めるのだった。
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