第33話(綾編)


 連休明けの朝。

 いつもより早く目が覚める。薄暗い部屋の天井が瞳の中に入って、鳥のさえずりや車の通り過ぎる音を耳にした。

 朝が来たんだと、ボンヤリした頭で理解する。

 枕元に置いたスマホを覗く。起きるまでまだ大分時間があった。けど二度寝する気もなければ起き上がろうとする気もない。

「……」

 どちらも選ばずしばらくの間天井を眺めていた。カーテンの隙間から漏れたわずかな日の光が天井へ差さっている。

 頭の中がからっぽで、目に入るものを見て、耳に入るものを聞いているだけの時間だった。その間体は欠伸ひとつも出ないほどに動かない。

 けど――。

 今日は愛海に話し掛けないと……。

 それが頭の中に浮かんだ瞬間、頭の中のボンヤリ感が消えてなくなる。気力がなかったはずの体が動く。

 登校してすぐ。お昼休み。放課後。

 タイミングはいつにするかと上体を起こして膝を抱える。

 ――やっぱりお昼休みかな。

 早い方がいいなら登校してすぐにだとは思うけど、休み明けの朝から話し掛けるのはダメなような気がした。

 もちろんスマホが一番早いことはわかってる。でも口で言わずにそれに頼るというのに抵抗があったせいか、浮かべた選択肢からすぐに外した。

 もし愛海が今日学校を休んだらそれを選ぶしかない。でも彼女が今日学校に来ることは知っていた。

 昨日の朝志穂から連絡があった。

 二日間連絡の取れなかった愛海と直接会って話をしたらしい。本人の口から今日学校に来ると聞いたことをわざわざ教えてくれた。

 ありがとう。後は自分でちゃんと言う。

 そう言って志穂との電話はそれだけで終わらせた。愛海が来るとわかっただけでもう十分だった。

 今日、学校で愛海に会う。

 会うことの怖さは当然ある。

 ……でもだからといって、やめようなんて気持ちはない。


『――綾のことが好き』


 真っ直ぐにそれを向けてくれた彼女の勇気を思い返すと、そんな気持ちは起こらない。

 ――絶対に会って話そう。

 そう決意してベッドから離れる。まだ早い時間だけど、このままモヤモヤと考え込んでしまうのが嫌だった。

 最初にカーテンを開けに足を動かす。

 目覚めた瞬間から今日は晴れだと思った。それも快晴の空だと確信。

 天気予報を見ていないのにそうだと思えたのは、鳥の声を聞いたからとかカーテンから漏れた光の強さを見たからでもない。

 目覚める前に見た青色が焼き付いて離れなかったのだ。

「……」

 シャッと音を出して開けた先、雲一つない海のような青空を見る。

 私を出迎えたそれは強く映えていて、日を抑え込んでいるように感じさせる。

 朝を家の中へ入れようと窓を開けてみた。鳥の声、車の過ぎる音、どこかのポストが揺れ動く音の後、冷たい空気が体に触れてくる。

 それが心地良くて、スゥーっと鼻から息を吸い込んでみた。朝らしいこの冷たさと静けさが体の内側も刺激し胸を高鳴らせる。

 今こうして見上げる青と夢の中で見た青。

 同じように思えて重ねてみたけれど、重なった瞬間に違うと否定する。

 さっきまで漂っていたあの海に胸を震わすこの感覚はなかった。

 今見上げているこの空に青を蹴散らすほどの強い光はなかった。

「……」

 またあの海の中にいた。

 そこで強い光を見ていた。

 いつの間にか闇を抜け、青い海へと戻っていた自分の体。

 青い世界に覆われた体で水上に浮かぶ光を見上げていた。

 あれを目指して自力で闇を抜けたのだろうか。

 それとも位置は以前と同じで、水上の光が深い水の底にまで届いたのだろうか。

 どちらかわからず夢の中の私は答えを求めようとしていた。水面に浮かぶ眩しさに目を細めて見てみる。

 そんなことで答えなどわかるわけもない。

 光は水に揺らされて形を覚束なくさせているにも関わらず、真っ直ぐに強い光を向け続けていた。

 そうやって……ずっと深い水の底にまで届けてくれていたのだろうか。

 動こうとしない私に向かってきてくれたのだろうか。


 気づけば――それに向かって右手を伸ばしていた。




 陽菜といつもの場所で待ち合わせ、いつも通りの時刻に自分のクラスへと辿り着く。修学旅行に三連休がくっついたせいか、教室に入る前の廊下からやけに静かだった。

「――なんか少ないね」

 そしていつもならすでに登校しているはずのクラスメイト達が少ない。私と陽菜を入れても十人にも満たない。

「みんな旅行ボケが続いてるんだよ」と、椅子に座ったシュワちゃんが教室に入った私達に手を振っている。いつも朝一番に学校へ来る彼女は休み明けとは思わせないほどにはつらつとしている。

「おはよ、シュワちゃん」

「おはよー二人供」

 いつもより大分少ないクラスメイトと挨拶を交わしながら席へ着く。

「アタシも今日の朝はキツかったなぁ」と、静かな教室を見渡しながら陽菜は大欠伸。登校中にも出していたそれはこれで4回目だ。

「旅行前に先生が言ってた通りになったね」

「全クラスそうみたいだよ」

 シュワちゃんは他のクラスの方も見に言っていたようだ。それを聞いて愛海の顔が頭の中に浮かぶ。

 教壇上の時計を見上げ、もうクラスにいるだろうかと考えてしまうのは、はやる気持ちとホームルームが始まるまでにまだ時間があるせいだろう。今すぐ愛海に会いに行きたいと焦ってしまう。

 ――やめよう。

 陽菜からもお昼休みにした方がいいと言われたのだ。それまで待とう。

 ホームルームが始まる10分前になると眠そうな顔をしたクラスメイトが続々と顔を出し始め、教室内はいつもの活気へと戻ってきた。

 先生からの気分切り替えろよという声の後に授業が始まり、忘れていた日常の空気が教室内へと流れ出す。でもきっと今日だけではクラス内のボンヤリ感は直らないだろう。

 一日が長く感じる。

 授業合間の休み時間に誰かがそう言っているのが聞こえた。他の誰かの頷く声に私も心の中で同意する。

 けど――みんなとは違っていると思った。

 緊張と怖さ。今の私が持っているのはそれだ。

 手にしたコレは授業中も休み時間もずっと続いていた。早くコレを消してしまいたいと気持ちが焦る。

 早く愛海に会いたい。

「……」

 お昼休みまでがとても長く感じた。



 そしてお昼休み。ようやく愛海と出会えた。

 先にお昼を買ってから愛海のクラスへ向かおうと陽菜と一緒に購買部へ行ったときだった。志穂を発見し、その背中に声をかけようと近づいた際、隣に愛海がいるのに気づく。てっきり教室にいると思い込んでいたせいか体が固まってしまった。

 そして私の視線に気づいた愛海がこっちを振り返る。

「……」

 目が合ったのに、言葉が出なくてあ然としている私を見た愛海が目を丸くする。

「……」

 そして俯いて目を逸らされてしまう。いけないと焦った。

 ――動かないと。

 そう思って近寄ろうとしたそのときだった。俯いたままの愛海がズカズカとこっちに向かって早足で歩み寄って来る。陰を落とした顔のまま、結構な速さを持って一直線に歩いてくる愛海は私の前でピタッと足を止めた。

「――ごきげんよう」

 私を見上げる顔でそう挨拶された。

「……ごきげんよう」

 怖さのあまり一歩引いてしまったけど、なんとか目を合わせたまま同じ挨拶で返した。なんでそんなお嬢様みたいな挨拶になっちゃったんだろう。

「もう――大丈夫なの?」

 でもこちらを見上げる愛海の顔は不安げだった。相変わらず真っ直ぐな目で見てくるけれど、今にも泣きそうに瞳を揺らす。

「……」

 無言でコクリと頷くだけの返事になってしまった。彼女を安心させる為にも笑顔で答えた方が良かっただろうか。

「――そっか」

 良かったと、ホッとした顔をしてくれる。

「こら、怖がってるよ」と、志穂が隣に来てぽんと愛海の頭を叩く。

「ぬ、そんなことないよ」

「いや、ちょっと勢いがね」とムッとした愛海に陽菜が言った。

「下向きながら真っ直ぐ向かって来るから驚いたよ。なぁ綾」

 正直、ちょっと怖かったのは否定できない。

「それは……ごめん綾」と愛海が真面目にふさぎ込むので慌ててしまう。

「ううん、全然大丈夫だから。むしろ私の方こそごめんなさい……」

 自分からいかずに愛海に話し掛けさせてしまったのだ。

 彼女が謝る必要なんて全然なかった。

「……」

 でもうまくそれを伝えられずに口が止まってしまう。そのせいで四人の間に嫌な空気が流れだした。

「――愛海が購買部にいるなんて珍しいね」と、その侵入を許さないと言った風に陽菜がフォローを出す。

「志穂に連れ出されたんだよ。一人じゃ寂しいって言うからさ」と愛海が焦りながらもそれに反応する。

「こんな状況で嘘つかなくていいでしょ?」と志穂だけはいつも通りだ。こんな空気でも少しも動揺していない。

「肩肘張ってないで、綾に会いに来たって正直に言いなよ」

 全くお子ちゃまなんだからーと愛海の頭を撫でる。それが不満なのか愛海がムッと不機嫌な顔をした。

「――おい、空気読めD寄りのEカップ」

 けれどその一言で志穂の冷静さが一瞬で崩れた。

「あんたが読め!」と、顔を真っ赤にして志穂が愛海に襲いかかる。愛海の首を両手で絞めるとそのまま壁まで押して行き、壁に背中をつけた彼女を壁伝いに吊るし上げていった。

 愛海が「うれじー!」と声を上げている。嬉しいって言っているように聴こえたけど、間違いなく苦しいだ。

「足浮いてる浮いてる!」と陽菜が慌てて止めに入るも、なぜか志穂が暴れ出す。解放された愛海も含めて混戦状態へと悪化してしまった。

「……」

 戦い始めた三人を茫然として見ていたけれど、すぐに頬が緩んだ。

 怖さと緊張が吹き飛ぶ。

 ずっと体の中を流れていたものは一体どこへ行ってしまったのだろうかと思うくらい、一瞬だった。

「――愛海、志穂、陽菜」

 私の声にピタッと動きを止めた三人。揃ってこっちを見る三人の顔に向かって「一緒にお昼食べませんか?」と、今度はちゃんと笑顔で提案する。

「――うん」

「はい」

「そうしよう」と三人が頷く。

 それから先は緊張がなくなったおかげで普通に会話することができた。

 自分からちゃんと話題を出して愛海と話をした。

 なんだか久しぶりに愛海と再会したような気がした。

 そして愛海と志穂の二人を見ていて思った。

 二人に自分の過去を話そう。

 そう決意する。今までは言うのが怖かったけど今は違っている。

 二人に話すのは少しも怖くない。

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