STAGE16

 私だけの騎士に。

 それは翻訳すれば、宝珠の巫女の守護騎士の任を降り自分のもとに来て欲しいという、求婚の言葉となる。そして同時に、正式の約束がいまだ取り交わされていないことを示唆する台詞でもあった。

 少なくとも、灰色の髪の新人騎士とスタインの令嬢のやりとりを好奇心丸出しで見守っている列席者らにとっては、そうだ。むろん、すべて含めて国務卿一流の演出かと疑うものも、いくらもいるだろうが。

 だが自分たち二人には。クリスは内心で呟く。

 白珠の巫女エアリアス=セシル=ラフィードから、守護騎士クリス=スタインに告げられたそれは、文字通り巫女の唯一の騎士であること――守護騎士で居続けることを請うた、最後のねがいであるに違いなかった。

 そういえば一番初めに巫女が望んだのもそれだったと、クリスはなつかしく思い出す。

 跪いた騎士の、白い手袋に包まれた手が、クリスの青いドレスの裾をほんの少し持ち上げた。

 精緻な花の刺繍が施された布地に、灰色の髪の騎士は恭しい口接けを与える。そして顔を上げて、穏やかに微笑んだ。

 心臓がどきりと鳴るのが、耳に聞こえたような気がした。

(どうか、そばにいてください)

 髪に口接けて、そう自分に囁いたのも、おなじ唇だった。

(――残酷なひと)

 クリスは苦笑した。そして手放されたドレスの裾を引きながら一歩下がると、手にしたレイピアの鞘から刀身を抜き放った。

 それが了承の合図と、あやまたずエアは悟ったようだった。またにこりと笑うと立ち上がり、半身に細い剣を構える。広間のその場所だけがしんと静まり返った。

 始めの合図は必要なかった。たがいの呼吸をはかる短い間をおいて、まるで同時に銀の光がふたつ煌めいた。



 クリスの黄金の髪を飾っていた花が、またひとつ、はらりと床に散った。

 美しく繊細に結い上げられた髪は、あちらこちらでゆがみほつれて、身動きのたびにきらきらとゆらめく。

 斜めに大きく裂けた緋色のマントが翻って、見物人の視界に赤い残像を残した。

 世にも稀なこの打ち合いが始まって、すでに四半刻は過ぎている。互いにかすり傷すらいまだなく、ただ荒くなった呼吸と額の汗と、仕立て職人が見たら歎くであろう着衣の惨状とが、その激しさを物語るものだった。

 手首の銀の菫をしゃらんと鳴らして、クリスは正面に突きを繰り出した。きぃんと金属音、弾かれた勢いを回転力に変えて脇を取り、高い位置から振り下したレイピアは虚空を薙ぐ。身軽いステップで跳び退ったエアが仕掛けてきた二段の突きを半身にかわしてそのまま真後ろに数歩、下がったところで細い踵がドレスの裾を引っ掛けた。

 バランスを崩すまいと、力を込めた左の足首が鈍く痛む。周囲に悟られぬようにこっそりと、クリスは舌打ちをした。

 ――これほどに不自由か。

 いまさらのようにそう思った。細く高い踵と指先を締めつける窮屈な爪先は足許をひどく不安定にする。一撃にじゅうぶんな体重を乗せる、力強い踏み込みなどこの靴では出来はしない。ひとつ床を蹴るたびにぐらつくバランスを、足首と膝とで強引に支えるので精一杯だ。ドレスの裾は動くたびに汗をかいた足にまとわりつくし、やわらかく肩を覆うレースの袖は、つねならば自在に剣を操る腕の障害物にしかならない。

 足許に視線を転じた一瞬に、間近に迫る気配がある。意識するよりはやく、銀のきらめきを絡めとるように跳ね上げながら懐を狙う。けれども今度も長い裾が邪魔をして、意図したよりも半歩足りない踏み込みが、間合いの外に逃げられる隙になった。

 半年、じかに教えた。だからクリスはエアの力量を誰よりも良く知っている。相当の使い手に育てたという自負もある。だが力量を知るからこそ、絶対に自分は負けないという自負もまた、あった。生半な腕で十七の少女が若手一を名乗れるほど、フェデリア騎士隊は甘い世界ではない。

 ――それが今はよく言って互角、むしろ劣勢になる場面のほうが多い。一切の手加減抜きに打ち込んでくるエアリアスに嬉しさを覚えながらそれ以上に、思ったとおりに動けない状況が歯軋りするほど悔しくて仕方がなかった。

 これが女性として、貴族令嬢として在るということ――

(……ちがう)

 このもどかしさを抱えながらも、剣を握れるならまだいい。本当ならそれすらも、女であるクリスには許されないことだ。そして自分に逢うまでのエアにも、許されていなかったことだった。彼は、ほんとうはごく普通の少年であったのに。

 騎士隊に憧れていたといつかエアは言った。

 乗馬と剣が好きで好きで、それゆえに騎士を目指した自分とエアと、なんら変わりはなかった。ただ、自分にはチャンスが与えられ、彼にはまったく違う務めが与えられたという、それだけのこと。誰よりも近くにいて誰よりも理解していると、そう思っていた自分が道化のようだ。

 ふたつのレイピアがまたぶつかり合って火花を散らす。

 間近に紫の瞳が見えた。まっすぐに真摯に、迫ってくる視線の強さ。

(――あなたを護りたかった)

 それはエアがとても大切だからだ。そして自分が、騎士であったからだ。

 自分を好きだと言ってくれたエアが、騎士になりたかったと言った少年のエアが、おなじ強さでおなじことを願っていたと、どうしていままで理解せずにいたのだろう。

 世界でただひとり自分だけが、そのことに気付けるはずだったのに。

(なんて驕り――)

 ずきずきと足が痛みを訴える。無駄な動きを強いられる腕が重く、頭を動かすたびに髪がひきつれて集中を逸らす。鋭い突きをかわす動きは、次第に緩慢になっていた。

 もう、いくらも保〔も〕たない。

 いっそ派手に負けてしまおうか。そうして彼とともにいる日々を取り戻せばいい。

 そんな考えがちらりと、頭をよぎった。



 ひときわ大きな金属音が上がった。


「あっ」

 細剣が一振り、もちぬしの手から弾かれて飛んだ。悲鳴とともに見物人の輪の一部が崩れる。ひとり動かずに待ち受けていた黒髪の騎士が、組んでいた腕をほどくと危なげなく抜き身のそれの柄〔つか〕を手の中に収めた。

「勝負あったり、だな?」

「お見事!」

 いささか複雑そうに呟いたユーリグに続いてエドマンドが、緊張の糸を断ち切る朗らかな声を上げた。

 剣を弾かれ、丸腰になった相手の胸許、衣服を切り裂くぎりぎりの場所に突きつけていたレイピアを、その声を合図にクリスが引いた。わあっと歓声が上がった。

「参りました。とても、及びません。……ありがとうございました」

 ユーリグから受け取った自身のレイピアを鞘に納め、クリスに向き直ると灰色の髪の騎士はふかぶかと頭をたれた。ふたたび上げられた顔にはくもりのない微笑みがある。けれどもその紫水晶の瞳の底にある光を、クリスは見間違いはしなかった。

 失礼いたします、そう告げて踵を返そうとしたエアの手を、クリスはつかまえる。

「一本取ったのは私ですから……私のお願いを聞いてくださいますか?」

「……え?」

 驚いた瞳がクリスを射抜いた。手がほんの少し震えた。

 ――これは裏切りになるだろうか。

 自問の答えは見つからないままに、クリスはドレスの下の片膝を折って、とらえた手の指先に唇をふれさせた。灰色の髪の騎士がクリスに名乗ったときとちょうど同じ、貴婦人に対する完璧な騎士の仕草だった。

「クリス……クリスタル嬢?」

 戸惑いを隠せないエアリアスに、クリスは心の底からの笑みを贈った。

「貴方に永遠の忠誠を」

 負けの代償としてではなく。

 仕方なく従ったものではなく、自分の選択としてそれを捧げたいと、最後の一瞬にそう決めていた。

「クリスは貴方だけの騎士です。――わがあるじ、白の宝珠の巫女よ」


 エアリアスが大きく目を見開き、

 そしてとても嬉しそうに笑った。

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