●四ペエジ

 その後も私の仕事は変わらず続いた。

 御坊ちゃまが学校に行き、家では真面目に勉強をする事も、旦那様が家を出ずに、仕事や読書ばかりして過ごすことも何も変わらない。

 でも……穏やかだと思っていた日常の裏に、深い闇がある事に気づいてしまってからは、暗く気重な日々だった。


「美佐。巴里パリでは街中で、蜂を飼って蜜をとってるそうだよ。花の都の蜂蜜は、どんな味がするのだろうね」


 御坊ちゃまはそう言って、パリの町並みの挿絵が描かれた本を見せてくれた。仏語は読めなかったが、モノクロの挿絵に描かれた街は美しく、どのような色彩を帯びているのか想像して、少しだけ気分が明るくなった。

 私が吸血鬼の話を聞いた日から、御坊ちゃまは心配してくださったのだろう。時々こうして私を慰めるように明るく楽しい話をしてくださる。その優しさに心をうたれ、少しづつ私は落ちついていった。


「御坊ちゃまのお話は欧羅巴ヨーロッパの事ばかり。ご興味がおありなのですね。行ってみたいのですか?」

「……そうだね。行ってみたい……が、遠すぎる。かなり費用もかかる事だし、そう簡単に行けるところではないよ」


 確かに欧羅巴に留学する人は、まだごく一部のエリートだけで、遠い異国のことだ。私の想像もつかないほど、難しいことなのだろう。

 でも桐之院家は裕福な家であるし、御坊ちゃまは帝大でも優秀な成績だ。旦那様の伝手で寄付を集めたり、もしかしたら国費で留学もできるかもしれない。それなのに……御坊ちゃまは、永遠に叶わぬ夢のように欧羅巴のことを語った。


「留学のこと、旦那様に相談してみたことはあるのですか?」


 御坊ちゃまは眼を伏せしばらく押し黙る。その長い睫毛の下の黒い瞳は、夜の闇のように深く沈んでいた。


「……話をしたことはないね。父上は僕の将来のことも、勉強のことも、あまり興味がないように見える。あの人は……昔からそうだ。何を考えているのか、十年たってもまるでわからない」


 深く悲しむ姿に、どれ程長く思い悩んできたのか……と思うと、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。ふと眼を上げた御坊ちゃまは切ない笑顔を浮かべて私を見た。


「ありがとう、美佐。僕の為に泣いてくれて」


 そう言われて気づいた。自分の頬が涙に濡れている。御坊ちゃまはそっと指で私の涙を拭い、柔らかく微笑んだ。


「留学の話も、父上に対する悩みも、今まで誰にも言わなかった。美佐はとても素直で優しいから、僕も正直に心の内を口にすることができる。ありがとう」


 お寂しい御坊ちゃまの気持ちを、少しでも慰めることができるのであれば、とても嬉しかった。

 それと同時にとても申し訳なかった。この言葉も全て、日誌に書かなければいけない。そのことを御坊ちゃまは知らない。

 日誌に書かずにこっそりと心の中に隠してしまおうかとも思ったが、旦那様が御坊ちゃまの心の内をお知りになって、少しでも御坊ちゃまのことを気にかけてくださったら……と願って、結局日誌に書くことにした。




 日誌に書いて、旦那様は読んだ。御坊ちゃまの悩みを知ったはず。何か変化があるかと思ったのだが、その後も今までと何も変わらない日々が過ぎて行った。


 年があけ、冬の終わりが近づき、梅の香りが漂いはじめ、緩やかに春に向けて暖かくなっていく。桐之院家の庭に植えられた桜の蕾が膨らみはじめても、未だに何も変わらない日々が、物悲しく過ぎ去った。


 ある日御坊ちゃまが私を誘って、屋敷の庭を一緒に歩いた。珍しい植物を見かけると、御坊ちゃまは丁寧に説明してくださった。


「春になれば少しづつ花も咲き始めるだろう」


 その言葉に庭が明るくなるような気がして、自然と頬が緩む。御坊ちゃまも釣られたように、優しい笑顔を浮かべていらした。

 御坊ちゃまが桜の木の下で足を止め、せつなく見上げた。


「もうじき桜が咲くね。来年の桜が咲く頃に、僕は学校を卒業しているだろう」

「まだ先の話でも……おめでとうございます」

「ありがとう。でもね……僕はその後、どうしたらいいんだろうね」


 ぽつりと言葉を零す。憂いを帯びた瞳を見た時に、やっと御坊ちゃまが庭を歩きたいと言った理由がわかった。この話を誰かにしたかったのだろう。


「どうしたら……というと、卒業後の進路ですか? 旦那様のお仕事を継がれるのでは?」

「……父上から仕事を継げと言われたことはない。将来の話をしたこともない。学校では色んなことを勧められるんだ」


 教師達は色々言うらしい。学校で教鞭をふるわないか? お国の為に公僕にならないか? 留学してみないのか? などと。

 留学を勧められ、御坊ちゃまの心が揺れ動いているのが、見ていてわかる。


「御坊ちゃまの大切な将来の話ですし、旦那様に一度お話してみた方がよろしいのでは? もしかしたら留学のお許しもいただけるかもしれませんし」

「……だといいね」


 それから数日後の夜、旦那様に大切な話がしたいと言った。

 私も同席してくれと御坊ちゃまに言われ、女中が聞いてよいものかとも思ったのだが、旦那様も同席しなさいと命じたので、お二人の話あいを見守ることになった。


 ──まさかこのことが、この家にさらなる影を落とすとは、想いもよらずに。

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