桐之院家の日誌
斉凛
●一ペエジ
枯れて静かな佇まいは、スクリーンに映ったモノクロキネマのようで。肌と空気の間に膜をこしらえ、世間と自分を隔離し、孤高の世界でひっそりと息をしていた。
「美佐。日誌を書きなさい。この家で見聞きしたもの全て、毎日記録すること。悠之介の言葉も、私の言葉も、一言一句正確に記録しなさい。それがお前の仕事だ」
灰色の髪を後ろに撫で付け、皺の目立つ顔に、哀愁を漂わせた
ただ……威圧的な力強さはなく、もの静かで理知的で、いつも寂し気であった。
子爵が中指で銀縁眼鏡のつるを押し上げ、レンズ越しに目で冊子を指し示す。
美佐は、胡桃色の和綴じの冊子に、丁寧に触れた。
「かしこまりました。旦那様」
美佐は独特のしゃべり方をする。
ゆっくりと、しかし滑舌が良い。大きくはないのに、人の心に深く染み込む水のような声だ。
美佐は記憶力もよかった。
朝起きて夜寝るまでに起こった事を、全て暗唱してみせて、周囲を驚かせたこともある。
人嫌いな子爵が、十五になったばかりの幼き美佐を女中に迎えた理由は、その二つにあるらしい。
美佐の返事に子爵は満足げに頷き、すぐに興味を失ったように秋の終わりを告げる庭を眺めた。
残り少ない葉がぶら下がる枝と、枯れ葉の絨毯の侘しさが、とても子爵に似合っていた。
庭を眺める子爵の姿は時が止まって見え、まるで写真で切り取ったように微動だにしない。
子爵が一人の世界に入ったとき、話かけても無駄だと、美佐は女中頭から聞いていた。だからそっと退出した。
美佐の祖父・善吉が昔、桐之院家の庭師をしていた。既に引退したが、祖父から桐之院家の噂を色々聞いている。良い噂も、悪い噂も。
――だからこそ、この目で見たものを、正確に記録する事は大切な事かもしれない。
美佐はさっそく筆をとり、初めてこの家に来た日の事を思い出した。
初めて私が桐之院家の門をくぐったのは、秋晴れの暖かな日だった。
泡のように消えた大戦景気のあと、経済は冬のように冷えきり、大震災の傷痕がまだ街の至る所に残っていて、人々の間に厭世的な雰囲気が蔓延していた。
そんな暗い世間とは隔絶されているかのように、桐之院家の屋敷の中は美しく整っていた。
名石、紅葉、桜、野薔薇、私の知らない海外の草木。それらが完璧な調和の元に、庭に配置されている。東京の中心からだいぶ離れているとはいえ随分広い敷地だ。
庭の見事さに見とれながら歩き、ようやく建物へとたどり着いた。
上品に佇むレンガ作りの立派な洋館は、みだりに触れてはいけないような、大きな威圧感を感じさせた。
私はその雰囲気にただただ圧倒され、屋敷の玄関で中に入る勇気も持てずに、呆然と立ち尽くしていた。
「お客さん? それとも……新しい女中さんかな?」
朗らかな明るい青年の声が背後から聞こえ、私は振り向いた。その麗しい顔立ちに一目でわかった。噂に名高き桐之院家のご子息・悠之介御坊ちゃまだと。
飛び級で帝大に入った俊英で、この世のものとは思えぬ美貌。天は二物を与えずというが、この人には当てはまらないのだろう。
「は、初めまして。今日からここで働かせて頂く事になったものです」
「へえ……こんな若い女中さんは珍しいな。ふふふ、父上に買われてきたのかな?」
揶揄いを含んだ無邪気な笑みに言葉を失う。
桐之院家の噂の中でもっとも酷いものは……御坊ちゃまは、美少年趣味の子爵に買われた、養子だという噂だ。
真偽もわからぬ酷い噂だが、当の本人は冗談でこんな事を口にするあたり、それほど気にしていないのだろう。
日の光に透けた琥珀色の髪が風にそよぎ、唇は弓の様に美しいカーブを描く。朗らかなのにどこか憂いを含んだ瞳は、魔性とも言うべき魅力を放っている。
こんなに綺麗な男の人は初めて見た。きっとあまりに美しいから、おかしな噂がたつのだろう。
「いえ……その。私の祖父が昔ここで庭師をしてたもので……」
「ああ、もしかして善吉さん? 懐かしいな。昔、話をした事があるよ」
学生さんらしい黒の帽子と詰め襟姿がよく似合っていて、その姿に見とれていたら、御坊ちゃまの繊細な指が私の頬に触れた。
「柔肌の、熱き血潮に、触れもみで……」
口ずさんだ有名な短歌を美佐は聞いた事がある。確か与謝野晶子だ。酷く艶っぽい歌だったと記憶している。身体の芯から熱を発して、思わず顔が赤くなった。
「なかなかに純情な子だね。そして教養もある。面白い。実に面白い」
からからと楽し気に笑って去って行った。
明るく悪戯っ子で朗らかな人。それが悠之介御坊ちゃまの第一印象だった。
ただ……明るい笑顔の中で、わずかに憂いを含んだ瞳だけが、少し気になった。
その日の夜、私は初めて洋食を見た。旦那様も御坊ちゃまも、ナイフとフォークに手慣れた手つきで食べている。その姿は実に対照的だ。
「寺田さん。今日のビーフシチューはよいね。とてもコクあって美味しいよ」
側に控えていた専属の料理人の寺田さんは、御坊ちゃまの言葉に少し嬉しそうに頷いた。御坊ちゃまはニコニコと、実に美味しそうに召し上がっている。
白い皿に入った、茶色のビーフシチューから漂う香りは、食べたことのない私にも、美味しそうに感じられた。
反対に旦那様は、眉一つ動かさずに、淡々と召し上がっている。まるで味のないものを、ただ口に運んでるだけのような、機械的な仕草。
ふと食事の手を止め、じっと御坊ちゃまの顔を見た。
「悠之介。学校の調子はどうだ?」
旦那様に話かけられたのが嬉しいのか、御坊ちゃまは実に楽し気に、早口でまくしたてた。
「とても好調で、主席卒業もできるんじゃないかと言われています」
御坊ちゃまは旦那様の返事を期待する様に、じっと見つめる。しかし旦那様は相変わらず、何も感心が無いという風情で「そうか……」と言っただけだった。
みるからに御坊ちゃまが落胆するのが見て取れて、少しお可哀想だ。
食後にデザートという、甘い物を食べるのが西洋式だと聞いた。
御坊ちゃまの前にだされたのは、みずみずしい桃。良く熟れた果実が、ガラスの器の上で、輝いて見えた。
旦那様も同じ物かと思ったのに、旦那様の前に差し出されたのは、赤く透き通った寒天のような菓子。
それを見た途端、旦那様の眼が輝いた。感情を表に出す旦那様を、初めて見たので、驚いたのを覚えている。
「今日はゼリーか」
「はい。今日は良い素材が手に入りましたので」
旦那様はスプーンで一匙ゼリーをすくいあげ、口に運ぶ。口に含んだ途端に、頬を緩ませた。
「美味しい」
「ありがとうございます」
まるで他の物は眼に入っていないとばかりに、楽しそうにゼリーを食べ続ける旦那様を、呆然と見つめてしまった。その時くすくすと笑う声が聞こえてくる。
「美佐。父上は甘いものに眼がないのだよ」
御坊ちゃまは楽し気に言う。冗談かとも思ったが、旦那様の様子を見ると、嘘とも思えない。何事にも動じない旦那様が甘い物好き。それは思わず私も微笑んでしまうような可愛らしさだ。
――その時の私は何も知らなかったから。素直に笑っていた。
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