<三日目> Behavioral change
――地球上の生物には不思議が多い。ある寄生虫のライフサイクルは複雑でね、誕生から繁殖までの一生を完遂するまでに、
マラリアを伝染する蚊のようなわかりやすいシステムではなく、教授が語った答えは面白かった。
その寄生虫は幼虫の頃は蟻に宿り、やがては鳥の体内へと移動する。ゆえに鳥に食べてもらう為に蟻の脳波をハイジャックし、行動に影響を及ぼすのである。野原でも見つかりやすいように、餌として選ばれやすいようにと蟻を後ろ足立ちにさせるという――。
*
頭の奥で台詞が響く。それは誰の声であっただろうか。強いて言うなら、教授に似ていた。
――よろこべ、君は生存した――
「誰が喜べるか! こんな状況っ」
荒々しく跳ね起きた。
私にとって、このふざけた部屋のふざけた硬いベッドで迎える三度目の目覚めだ。正直、今が朝なのか夜なのかも知れない。LEDは四六時中ついているからだ。自身が疲れてさえいればどこででも眠れる人種であることを思い出したが、これほどの明るさの中でも眠れるのは見事としか言いようがない。
(疲れ、だと)
ふと気付いた、全身に蔓延する億劫さに。昨日だか一昨日だかもよく寝た方だった。麻酔の後遺症か環境の変化からのストレスかと何気なく考えていたが――
前触れかもしれない、と新たな緊張感が四肢を伝う。額に浮かんだ冷や汗を拭った。
(私が源泉、
昨夜話しかけてきた換気口の女は
『淀橋ィ。アンタ、逃げた方がいいよ』
(それが私の苗字か!)
『それより長谷川、このくそったれな施設に味方はいない。アタシんとこ来なよ』
(脱走? 私が真に人類への危機、疫病の発生源となりえるなら、此処で朽ちた方がマシだ)
記憶は無くても、人格には多少の正義感が内包されているらしい。
『マシなわけあるか。いいか斉藤、今は猶予があるみたいだが、すぐに実験が始まる。血液・唾液サンプルはもう採られてるがな、次は胃カメラ、バイオプシー、骨髄サンプル、とどうなっていくかわからない。命に関わる手術だってされるだろうよ』
脳内に、台の上で防護服を着た連中に開きにされる映像が鮮明に浮かんだ。
(何故だ。エピデミックが流行っていないのなら、過度な人体実験の必要性はまだ)
『ばーか。連中はアンタの人権をなんとも思っちゃいないんだよ。そういう契約だったもんな? 羽鳥さんよぉ』
ようやく私は悟った。呼び名はおそらく、ラボで働いていたという四人の日本人男性のそれを巡回している。この女も結局は、私が何者であるかを特定できていないのだ。私は心のどこかで落胆した。確率は四分の一とはいえ、曖昧なのはいい気分ではなかった。
(何を知っている)
『さあ、何も。答えはアンタが持ってんだよ。未来に繋がる記憶なら、思い出せるさ』
声はこころなしか遠ざかっている。私は焦った。
(待て! 未来とは何だ! なんとしても外の世界に戻れと言うのか)
――だがそれきり、女は答えなかった。
回想も終わると私は両手の拳を握り締める。
まともに物思いに耽る間もなく、この部屋唯一の扉が開いた。真っ白な防護服を着込んだ中年男が長方形の盆を手にして入ってきた。食事ではないと一瞬で見破り、私は言った。
「従順にさせる薬でも打つのか」
ぼんやりと目に映る注射針を指さす。
『そういった物も用意してある。ところが君はずっと協力的な態度を示しているので、使う必要はないと僕たちは結論付けている。これは抗菌剤だよ』
「そうか」
何も考えずに突然私は主任の肩を掴んだ。顔を覆う透明な四角い窓が、一気に曇る。
フシュー。
『急に何をするんだね』
フシュー、フシュー。視力が悪くても恐怖の気配はわかる。
内なる知識と勘が教えてくれる。酸素ボンベの容量は二十分と持たないだろう。いや、それよりもこの顔を覆う透明なプラスチックをぶち破いてしまいたい衝動に駆られる。
――何故?
そうしたいからだ。
「Chimera、自己と他者の隔たりを失くす」
謎の単語が舌から転がり落ちる。吐息のように微かな音量で。
「受け入れた。コロニーに選ばれた」
靄が掛かったみたいに頭がはっきりしない。同時に、何かがすんなりと腑に落ちていた。矛盾している。
どうかしてしまっている。なのに、どうもしない。
(私たちを侵したのは新種の菌なんかじゃない。最初から共にあったモノとの関係が、少し変わっただけだ)
唐突な認識。内心ではほくそ笑んでも、実際の表情筋は動かなかった。
『どうしたんだい』
装っているだけかもしれないが、主任は冷静に私の手を見つめている。
「なんでもない。注射を打つ前に、中身を詳しく教えてくれないか」
『ああ、構わないよ。主な材料は――』
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