たえよいつか
甲姫
<一日目> Signal transduction
――人間の身体を構築する組織系統の内、自己のそれよりも共生している微生物の細胞の方が十倍多く棲んでいる――
かつて教授がそう言っていた。随分と昔のことだ。
その時、こう質問した気がする。
――では微生物と私たち自身の細胞は、どうやって互いを「見分け」ているのですか?
どうして、目を開ける寸前にこんなことを思い出すのだろう。
*
不可解な寝覚めで、一日が始まった。
「いっ」
目覚めたばかりで、目を擦ろうとした。それ自体はありふれた所作であったはずだ。なのに普通の結末を迎えることができなかったのは、我が身が縛られているからだった。
手首を束縛する固く締められた革ベルト。
そこで私は目を疑うことになる。
「なんだ此処は?!」
真っ白な天井。狭い部屋を照らすLEDライトは、作業用のそれを思わせる異様な明るさを放っていた。五千ルーメン行っていても驚かない。
私は何かの台の上で仰向けに横たわっている。しかも全裸であった。
鼻をつく消毒液の臭いに、背筋がゾッと冷えた。そして実際にも、天井横の換気口からびゅうびゅうと冷たい隙間風が流れ込んでいる。
――何故だ。何故私は実験動物が如く、手術台に固定されている!?
パニックのあまりに過呼吸を起こしかける。苦しい。わからない。この部屋に来た経緯はおろか、どういう風にして眠ったのかさえ思い出せない。暴れようにも、動かせるのは片手だけだった。
『落ち着きたまえ』
頭上から穏やかな男の声がした。それから、フシュー、と空気が押し出されるような奇怪な音が続く。
「これが落ち着いていられるか!」
反射的に私は怒鳴る。男が話したのが日本語で、私は自分が日本人であることをついでのように思い出した。
思い出したということは、忘れていたということ。事態の異常さに今更ながらに戦慄する。
『まあ、まあ。落ち着かないと、苦しいだけだろう。ちゃんと順を追って説明するから、少し鎮まりたまえ』
宥めるような男の声は、くぐもっている。私は眼球を一周させてみたが、望むものが目に入らない。もう一度ぐるりと見回ると今度は白い背景の中に動きがあった。これまた白い輪郭は、背後から覗き込む男の姿を成した。
私は訝しむしかなかった。何故なら、男は純白の
フシュー、とまたあの音が聴こえた。防護服の中に酸素ボンベを抱えているのだろうか。自然と私はそのように想像した。
『君は自分について何か憶えているかね』
「……何も」
ひとつだけ気付いたことがある。視界が、一定のレベルでぼやけていて安定しない。そこから推測するに、私は眼鏡などの視力補正の道具を必要とする人種だろう。吐息で防護服が曇っている所為もあるだろうが、私の弱い視力と相まって男の顔はどうしても見えなかった。
『歳とか、名前とか、人間関係についても? じっくり考えてもいいのだよ』
「言ったはずだ。わからないものはわからない」
中年男の呑気なトーンに、私は若干しびれを切らす。
本当は一つだけ思い出せたことがあった。
夢の中で私は学生時代の記憶をなぞっていた。大学院生だった頃に受けた、とある教授の講義の一片を。だが見ず知らずの、まるで信用ならない防護服男に、それを話す気にはならない。
『ではこちらの知る情報を教えよう。君は三十三歳男性、日本という極東の島国を故郷としている。とある遺伝子研究のラボに勤務していたが、不幸な事件に巻き込まれてこんなことになってしまっている。ああ、僕はこの件を任されているチームの主任だ』
――不幸な事件。
なんて恐ろしい響きだ。私はその詳細を訊ねる勇気が、まだ持てなかった。
「今貴方が羅列した個人情報の中に、私の名前が無かった。それは教えてはくれないのか」
『いや。実は我々にもわからないんだ』
「どういうことだ」
『ラボに勤務していた同年代の日本人男性は他に三人も居てね。君たちを識別する為のデータが今は入手困難となっている。君が四名の内の誰かであることは間違いないハズだけど』
主任とやらは肩を竦めてみせた。逆さで見るその動作には、何故かイラッとした。
「貴方が私の記憶を消したのか」
『そんなことはしていないよ。君が記憶を失った理由ははっきりとはわからない。外傷はないはずだから、精神的にショックを受けたのではないかね。脳震盪の線も弱い』
言われてみれば、革ベルトに擦れた手首以外、特に痛いとか違和感のある箇所は無い。五体満足、と言っていいのかは謎だが、怪我はしていないようだった。
『でもそれはいいんだ。君は自分が誰であったのか思い出さない方がいい。執着が沸いてしまうからね』
「どういう意味だ」
私は知らず声を低くしていた。
『君は二度とこの施設から出て、外の世界の空気を吸うことはできない』
「!?」
わけがわからないまま、ただ絶句した。
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