第七章 ロメス来襲 -4-

 応接室に華やかな紅茶の香りが広がる。

 機能重視で広さもあまりないウィルの執務室と違って、応接室は広く贅沢な造りであった。紛い物ではない本物の木材を使った内装や家具は、落ち着いた色調とアンティークなデザインで統一されている。しかもそれらは丹念に磨き上げられ、傷どころか曇りひとつない。インテリアといったものに興味のない者でも、この調度類を見れば、ここが〈森の精〉ヴァルトガイストで一番手のかけられた部屋だと判るはずだ。

 元々この部屋は、ウィルが司令官として着任するまで、代々司令官室として使われていたものだった。しかし堅苦しいのが苦手なウィルは、この部屋のあまりの重厚さを敬遠して、隣の副官室を自分のオフィスにしてしまったのである。結果、主をなくしたこの部屋は、大切な客をもてなす時にだけ使われることとなった。

 その応接室の中央に設えられた大きなテーブルの末席に、エビネ准尉は着いていた。尻がもぞもぞと落ち着かないのは、柔らかすぎるクッションのせいだけではあるまい。

 彼は緊張のあまり、紅茶の香りを愉しむどころか、茶碗に手を触れることさえもできずにいた。目の前の異様な光景と重苦しい雰囲気にどうしていいか解からず、眼だけをキョロキョロさせて、テーブルを取り囲んでいる者たちの様子を窺っている。

 周りに居並ぶは、客人二人と〈森の精〉ヴァルトガイスト幹部のヴィンツブラウト、ディスクリート両大佐、直属の上官である広報部長のルビン中佐といったお歴々の顔。そのお偉方が硬い表情で黙々と茶を飲んでいる場に同席することは、ただの〈ヒヨッコ〉にとって拷問に等しい。

 しかも、落ちつかない原因はそれだけではなかった。

 その客人の一人は、当分――いや、もう会うこともないかもしれないと思っていた人物だったのだ。その人物がいま目の前にいる。これが動揺せずにおれようか。

 一晩を医療部のベッドで過ごしたエビネは、私物を取りに自分のロッカーのある司令部ビルへと足を運んだ。そこで出会った下士官の話から、彼は中将の訪問を知ることとなったわけだが、もしその下士官が詳しい事情を知っていたら、エビネに降りかかる災難を未然に防げただろう。しかし、ただ「中将が来る」としか知らされていなかった下士官は、慌しい雰囲気を訝しむエビネに対し、知っていることをそのまま伝えてしまった。その結果、エビネは出迎えの列に加わり、思いがけない人との再会に至ったのである。

 その「思いがけない人」であるロメスは、エビネの斜向かいに座って悠然とティーカップを傾けていた。しかしエビネの視線に気づくとカップを置き、わずかばかり口の端を笑みの形に吊り上げて言った。

「幽霊でも見たという顔だな、エビネ准尉」

「はい……あ、いえっ、あの……驚きました。まさか、木星にいらっしゃるとは思いませんでしたので……」

 しどろもどろ答えたエビネに、ロメスは先ほどまでの冷徹な仮面を脱ぎ捨てて微笑んだ。アイスブルーの瞳が柔らかな色を帯びる。

 そして笑顔を保ったまま、唐突に、何の前振りもなく、さらりと用件を述べた。

「貴官を迎えに来たのだよ」

「え?」

 エビネはきょとんと目を丸くした。その反応を受け止めて、ロメスはここへ来た経緯を語りはじめる。

「エビネ准尉、この人事は間違っていたのだよ。システムのトラブルが原因で、本来とは違った辞令が発令されたのだ。本当は事前通達のとおり、貴官は私の副官になるのが正しい」

「システムのトラブル……」

「そう、どういうわけか、『プログラムにバグがあった』のだとか。それで、本来この〈森の精〉ヴァルトガイストに来るはずだった者と、准尉の名前が入れ替わってしまったらしい」

 ロメスはちらりと、意味ありげにウィルを見た。先ほどエビネに向けた優しげな笑みは、一瞬ではあったが再び冷ややかなものへと変化する。しかしエビネは考え込むようにテーブルの木目模様見つめていたため、その変化に気づかなかった。

 エビネに目を戻したロメスは、穏やかな口調で言葉を続ける。

「すぐに貴官の行方を突き止めた私は、再三、こちらのヴィンツブラウト大佐に貴官の返還を求めた。しかし大佐は、その通達を全て無視なされたのだ。それで、これでは話にならないと思い、こうやって直接貴官を迎えに来たというわけだ」

「お待ちいただきたい」

 黙って聞いていたウィルが、堪りかねて口を挟んだ。「無視」という表現が、聞き捨てならなかった。

「いつこちらが無視したと仰る? 貴官からのメールに、自分は逐一返事を差し上げていたつもりだが?」

 低く抑えた声で、ウィルは土星からの客人を非難する。同じ階級とはいえ、後任のウィルが口調を崩すべきではなかったが、まだるっこしい敬語など使っていられなかった。それに初っ端から気勢で呑まれてしまっては、後々やりにくくなる。

 しかしロメスはわずかに眉を顰めただけで、ウィルの非礼を咎めなかった。

「ほお、『命令に従ったまで』と言い張るだけで、何の調査も行おうとしなかったことが、『無視』ではないと言われるのか」

「そういう貴官こそ、こんな奇襲のようなことをして卑怯だとは思わないのか、ロメス大佐?」

「卑怯だと? それに奇襲とは、どういう意味か?」

 ウィルの煽りに、ロメスは顔を真っ赤にして憤慨した。

「予告もなく押しかけてくるのが奇襲ではなく、何だと仰る?」

「これは異なことを。私は土星を発つ時から、『こちらに伺うつもりだ』と記載していたが?」

「なに?」

 ウィルの眉が跳ね上がった。何かが食い違っている。それを質そうと、さらにウィルは口を開きかけた。だが一瞬早く、ハフナー中将の一喝が遮った。

「いい加減にしないか、ヴィンツブラウト大佐。いまはロメス大佐とエビネ准尉が話しているのだ」

「……はい」

 中将に叱責されて、ウィルは渋々引き下がった。しかしそれが不満だったのか、むくれ顔でテーブルに置いた自分の端末に向かって苛立ちをぶつけはじめた。

 一方ロメスは優越感に満ちた表情で、悔しそうな顔の〈森の精〉ヴァルトガイスト司令官を一笑する。しかしウィルが無視しつづけると、ロメスは「やれやれ」とばかりに肩をすくめ、再びエビネに向き直って口を開いた。

「タイタン司令本部――いや、土星方面軍には貴官が必要なのだ。そして貴官の真価は、土星系にあってこそ発揮されるものだと信じている。准尉はこのようなところで終わる人間ではない。まずは私の副官を勤め、後々にはタイタン司令官付の副官、または幕僚幹部へと上り詰めていくのだ。その才能が貴官にはある。さあ、私と一緒に土星へ戻ろうではないか」

 くさい台詞に白けている〈森の精〉ヴァルトガイストの面々をよそに、ロメスは芝居がかったように声を張り上げ、右手をエビネに差し出した。

 だがエビネは茫然とするばかりだ。ロメスの語る「出世街道」はあまりに壮大過ぎる。

 エビネは呆けたようにロメスの顔を見ていたが、すぐにうろたえた視線を辺りに漂わせた。どう対処すべきか助言を求めて上官たちの顔を見回す。しかし〈森の精〉ヴァルトガイスト司令官たちは横目で自分を見るだけで、何も言おうとしなかった。

 ただ、彼らは彼らでエビネがどう答えるのか様子を見ていただけなのだが、困惑しきっている新米士官にとって、その態度は冷たく突き放されたように感じた。自分の〈森の精〉ヴァルトガイストにおける存在価値を否定したも同然――そんな司令官たちの態度に、エビネの心の奥でもやもやとしている〈森の精〉ヴァルトガイストへの不信感が、はっきりとした形をとりはじめてゆく。

 片やロメスは、もう土星を離れてしまった新米士官である自分を、わざわざ木星まで連れ戻しに来たのだと言う。それがエビネには意外だった。エビネの知るロメスがそのような行動に出るとは、思いもしなかった。

 というのもエビネの知っているロメスなら、エビネが土星を発ったと知った時点でまだ土星にいる士官なりを再度調達するか、自分と入れ替わりに土星へ来た者をそのまま使うはずだからだ。なにしろ惑星間の人員移動にかかる経費は馬鹿にならない。すでに移動を終えている新米士官を仕事も覚えないうちからそのまま元いた場所に戻すというのは、経費の無駄遣いに他ならないのだ。「無駄なく合理的に」が口癖のロメスがその禁を犯すなど、天地がひっくり返ってもあり得ない話だった。

 しかし実際は違った。彼はここまでやって来て、自分に向かって手を差し伸べた。自分の価値を見出し、必要だと言ってくれた。それがとても嬉しかった。

 エビネの心は揺れた。

 思わず差し出された手を取りたくなる。「必要とされていない処で働くより、必要とされている処で働きたい」という思いが強まってゆく。

 だが〈森の精〉ヴァルトガイストへ行くと決めたのは紛れもない自分だ。それも「デメリットがあるかもしれない」と充分に納得した上での決心だ。その結果がどう出ようと、誰にも文句は言えないし、後悔してはならないのだ。

 何事においても、後悔だけはしない。

 それがエビネの信条であり、それを守りつづけることにプライドを持っていた。

 しかしいまエビネは、その信条を貫き通せる自信を失いつつあった。

 ロメスの手を取るにしろ〈森の精〉ヴァルトガイストに残るにしろ、自分が心から納得できる理由がなければ、どちらを選んでも悔いが残る。

 そんな思いが、エビネをためらわせた。

「エビネ准尉?」

 やり場をなくした視線をテーブルの上に落として押し黙るエビネに、ロメスはあからさまに眉を顰めた。自分の申し出にエビネが答えをためらうとは、思いもよらなかったようだ。彼は若干怒気を含ませた調子で、もう一度声をかける。

「准尉が迷う必要はない。何も考えずに私と一緒に土星へ戻ればいいのだ――さあ、いますぐ官舎に戻り、荷物を整えるように。准尉の用意が整い次第、土星へ帰還するからそのつもりで。では、退出してよし」

「えっ?」

 エビネは弾かれたように顔を上げると、まず信じられないといった顔でロメスを見、次に困ったようにウィルを振り返った。この場にあってエビネに命令できるのは、直属の上官である〈森の精〉ヴァルトガイストの面々か、最高位にある中将だけであり、客人のロメスではない。新人のエビネでさえわきまえていることを、ロメスが知らないはずはなかった。

 ロメスはすでに、エビネを取り返したつもりになっている。だからわざと命令して、エビネの所有権を主張しているのだ。

 〈森の精〉ヴァルトガイスト司令官もそれを悟ったのだろう。困惑するエビネに向かって、安心させるように目でうなづく。そしてロメスの気を惹くように軽く咳払いすると、事務的な口調で告げた。

「エビネ准尉に対する指揮権は小官にある。勝手に退出を許可されては困る」

「おお、それは失礼。こちらの話は以上だ。次はそちらが准尉と話されるといい」

 ロメスはウィルの抗議を余裕の表情で受け流した。その顔には、「ウィルがいくら説得したとて、エビネは一介の広報部員として終わるより、幕僚幹部への道を選ぶに決まっている」と書いてある。手ぶらで帰る可能性は、全く考えていないらしい。

「では遠慮なく」

 ロメスの勧めをウィルは素直に受けた。エビネに向き直って静かに口を開く。

「ロメス大佐は何がなんでも准尉を連れて帰りたいようだが、我々としては准尉に残ってもらいたい。准尉も知ってのとおり、〈森の精〉ヴァルトガイストは〈機構軍・航空隊〉において重要な任務についている。それを優れた観察力と広い視野を持った貴官に、ぜひ手伝ってもらいたい」

 ロメスの「素晴らしき出世街道」に対抗するために、ウィルは「任務の重要性とそれに携わる誇り」でもって、エビネの関心を惹こうとした。と同時に、ロメスに対して「准尉は極秘任務に携わっているのだ」とアピールし、「機密保持」の点から、そう簡単にエビネを〈森の精〉ヴァルトガイストから動かすことはできないないのだと匂わせる。

 とは言うものの、もし体験飛行がもう一日遅ければ、この「機密保持」という札は使えなかったところだ。フライト後に「実際の任務の内容」を明かすよう、アダルに指示しておいて正解だった。内心冷や汗を拭いながら、ウィルは機転の利く自分を誉めた。

 そんな内心をおもてには一切出さず、〈森の精〉ヴァルトガイスト基地司令官は淡々と言葉を続ける。

「それに、せっかく木星まで来たのだから、せめて一年間以上はここで勤め、〈木星圏勤務章〉をはじめとする木星圏内で取得できる資格や徽章バッジで准尉の制服を賑やかにしてもらいたい。確かに〈森の精〉ヴァルトガイストでは出世の道は険しいかと思うが、それは決して行き止まりではない。准尉の努力次第でどうとでも拓けるものだ、とだけ言っておく。そして今後の身の振り方は准尉自身が決めることであり、我々は『残れ』とも『帰れ』とも強制するつもりはない」

 ウィルは、エビネの向上心と好奇心の強さを喚起してやる。しかもロメスのように頭ごなしに決めつけるのではなく、最終的な決定権をエビネ自身に委ねた。

 もちろん〈森の精〉ヴァルトガイスト司令官の本音としては、いまエビネに去られるのは非常に痛い。

 広報部は慢性的に人手が足りない状態であった。飛行技術の指導で〈機構軍〉艦隊に出向している〈星組〉に随伴する部員が常に数名いるためだ。

 今回ようやく新人を手に入れて、少しは他の部員の負担が減らせるようになったのだ。なのに、ここで元の状態に戻すのは酷であろう。

 それに、ここまで〈森の精〉ヴァルトガイストに順応できる新人が、この後すぐに得られるという保障はどこにもない。こんな逸材をみすみす手放す馬鹿などいない。

 しかしウィルは、あえて「残れ」とは言わなかった。自分とロメスとの違いを明確にしたかったこともあるが、ヴァルトラントがしでかしたことや、それを知ってて見過ごした自分への負い目もあったからだ。いや、根本的な原因は、経理部長やミス・バーバラの苦情を強気で突っぱねることができなかった自分にあるのだ。

 自分と〈グレムリン〉が捻じ曲げてしまった道を、エビネ自身に修正させることによって、全てうまく収まれば――と、ウィルは考えていた。そのためには、このすぐ後に行われるロメスとの対話で、「エビネに選択権がある」ということをロメスに認めさせ、エビネが答えを出すまでの時間を稼ぐ必要がある。

 自分のなすべきことをはっきりと意識したウィルは、ロメスとの論戦に向けて気を引き締めた。そして、これまで多くの部下たちを鼓舞してきた樫色の瞳を、エビネに向けた。

「急いで答えを出す必要はない。何日かかってもいい。よく考えた上で、准尉の納得した答えを聞かせて欲しい」

 そう締めくくると、ウィルはエビネに退出許可を出した。

 エビネは力なく返事し、席を立って上官たちに敬礼する。だが心ここにあらずのようで、いつも好奇心に輝いている瞳は暗く、何も映してはいなかった。何を信じればいいのか解からなくなった新米准尉の心に、ウィルの言葉は届いていなかったのだ。

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