第31話 「迸る」

 堀末は瞬きもせずに続ける。


「最初にあの通りのあの横断歩道に来たときは、その、本当は、君のことなんて正直どうでもよかったんだ。


 ひょっとしたら僕を警戒してるかな、ぐらいには思ってたけど。


 つまり君に一目惚れして刺したわけじゃない、ってこと。


 だって、それって、ただのヤバい奴じゃん。


 取りあえず目の前にいて刺しやすかったから刺したんだ。警戒するだけして何もしなかったんだから、まあ、楽だったよ。


 でも、問題はその後さ。


 君、僕の足にすがりついただろう?


 ああ、言わなくても分かってる。君は僕を止めようとしたんだろう?


 僕はすぐに君を殺したけど……でも僕は、本当は、嬉しかった。


 皆他人を無視して、自分だけ助かろうと走って逃げてったんだから――恋人と一緒にいたくせにその恋人を突き飛ばして逃げた男もいたっけ、その逆もいたけど、あのあとどうなったんだろう――でも、君は。


 君だけは。


 あの瞬間の中でただ一人だけ、そして誰よりも他人のことを考えていた。純粋に、義務感などではなく、愛で自分を擲っていた。


 その愛に僕も打たれたんだ。


 胸がきゅんと詰まった。


 心が蠢いた。


 でもその瞬間にはどうしてそれを感じたのか、そもそもその感情が何なのか分からなかったんだ。


 僕は拘留されている間それだけを考えていたんだ。多分、不起訴になったのもそれが理由だったと思う。


 市販の辞書は全部記憶してたんだけど、ああいうのはこういうときまるで役に立たなかったよ。暗記型の人間は弱いねぇ。


 ずっとずっとずっと、君の首筋と、君のわき腹と、君の命とを考えてたんだ。


 ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、ね。


 そして、気がついた。

 僕は、君のことが好きになったんだ、とね。

 僕が他人を好きになったのは君が初めてなんだ。


 だって、今までの人は皆、僕を心のどこかで見下してたんだもん。僕のことを見ないっていうのはそういうことだろ? 人を見ないで恋できる奴は頭が足らない。


 とにかく、初恋なんだよ。


 その初恋の人を、僕は恋に落ちる前に殺してしまったんだ。そう思ったとき、僕は……。


 最ッ高に興奮した。


 恋に落ちるっていうのは、その人を自分より上に見るってことだろ? 自分より大切に思うってことだろ? 相手が思ってくれるかはともかく――。


 でも、僕にとって一番大事なのは僕自身だから。

 唯一僕を見てくれる僕自身だから。


 だからそれが二番になることは永遠にないんだ。僕が君に恋して、僕が君を殺した、と理解したとき、つまり僕自身がもう一度一番になったとき、僕は、その、公衆の面前じゃ言えないからボカすけど、要するに『下品なこと』になった。

 僕は、というより『僕の下半身』はというのが近いかな。


 うん。

 これも初めてのことだったね。


 でも、それってある種、人間としては当然のことなんだから、それがようやくできるようになったってことは……僕は、君のおかげで人間になれたってことなんじゃないかな?


 君のおかげで、僕は人として死ねたってことなんじゃないかな?


 ああ――多分僕はね、君に感謝しているんだな。


 何もなかった僕が人間になれたことに、化け物ですらなかった僕が人間になれたことに、僕は僕なりに感謝しているんだ。


 だから、僕は君にもう一度会えたとき、信じてもいなかった神様に祈りたくなったよ。


 すぐに離れ離れになってしまったけどね。


 僕は異世界人商に売り飛ばされた。


 まあ見張りを殺してその日の内に脱走したけど……まあ、そんなわけでそのとき見た君のことを僕は少なからず、見間違いだった、と思ったんだ。


 でも、網膜にこびりついた君の姿は誰を殺しても離れることはなかった。何人殺しても消えることはなかった。


 君に似ている少年を殺しても君の好きそうな女の子を殺しても君が成長したらこうなるだろう男を殺しても君の母親みたいな女を殺しても君を見守ってくれそうなお爺さんを殺しても君を理解してくれそうなお婆さんを殺しても君と友達になってくれそうな人を殺しても君と知り合いになってくれそうな人を殺しても君とは接点もないだろう人を殺しても君の嫌いそうな人を殺しても、僕は満たされなかったんだ。


 結局、こっちでも皆自分のことしか考えてないんだもん。


 だから逆に、あの君が本物だったんだ、とそのとき分かった。そして、出会ったときの準備を始めた。当然のことだよね。


 この機体――『モイスヒェン』って言うんだけど、これも、そのとき手に入れたものだよ。


 本当のことを言うと、ルメンシスの市街地にある魔術工房に転がってたんだ――本当だよ! 僕は嘘をついたりしないって!


 とにかく丁度よかったから、工房の人たちを皆殺しにしてこの機体を頂いたんだ。いい機体だよ、これ。ネーミングはドイツだけど……。


 ああ、君の居場所が孤児院だと知ったのは、新聞記者の後をつけて、その情報を盗んだからだ。


 ゴリアテ・レスリングなんて間抜けな名前はしてるけど、あれでも生還者はなかなか珍しいから、記事になるんだろうね。それで追っかけてたみたい。


 それと、まあ、コロシアム関連かな。時期的にはどうだったか――。


 ちなみにその記者は殺したよ。君のことをゴシップにしようとしてたからね。


 そしてそれからあの孤児院をずっと見張って、君をつけて、あの市場で完全に君だと確信した。


 自分が刺されるかもしれないと知りながらもこの……えっと、何だっけ……そうそう、ヨハナちゃんを守ろうとした。その無私の精神は――この世界にだって、そうそうあるもんじゃない。


 でもね、あのね、そんなことどうだっていいぐらい、僕は君のことが好きなんだよ。

 好きなんだ。

 好き。

 愛してる。

 そういうところが好きなんだ。」


 だからね、僕は。と彼は始めたときと同様に突然回転を止めて、ニッコリ、と目を見開いたまま笑う。


 その目は激しく充血していて、不気味な様相を更に強めていた。


 この世の全てを燃やし尽くしたとしたら、その色に少しは近づくだろうか。


「君をもう一度殺そうと思うんだ。


 うん。


 身勝手で申し訳ない。


 でも僕が世界で一番偉いのはどこの世界でも変わらないから。


 その、こういうことを言える立場じゃないけど、安心してほしい。


 君を殺した後、えっと、何だっけな、年を取ると忘れっぽく……そうだった、ヨハナちゃんもそっちに送ってあげるから。


 そんで、ヨハナちゃんが寂しくないように、この街を全部ぶっ壊して、そっちに送るよ。


 要するに、こうした無差別攻撃はその準備も兼ねてのことなんだよね。


 あの市場も孤児院もミヤシタ商会もルメンシス大聖堂もコロシアムも何もかも――破壊するつもりだよ。


 君がこの子に付随する全てを守ろうとするなら、僕は君に付随する全てを殺してあげることを約束しよう。


 ……どうかな?」

「…………」

「沈黙……か、だろうね」


 と、何も言わない礼一少年に、間髪入れずに堀末は答えた。ニヤリとした三日月状の恐怖的笑顔のまま、続ける。その瞳は当然闇色に充血したままだ。


「でも――このまま誰かのために戦い続けるの?


 その先に何があるかも知らないまま?


 いや――君は本当は知っているんじゃないかな?


 事実、君はヨハナちゃん……で、合ってるっけ? まあこの子を助けて、何か救われたかな?


 何か報われたかな?

 具体的な面で言えば、彼女が恋人になったかな?

 俗世的な面で言えば、孤児院の経営権を手に入れたのかな?


 ――答えは、ゼロだ。君は何も手に入れていない。死にそうな体で僕を止めようとしても、誰も君を英雄だとは言ってくれなかったよ?


 それと同じじゃないかな?


 それとも、僕みたいに何もかも壊したいのかな?」


 そこまで言って、はあ、と堀末は息をつく。一転して呆れたように、だ。そうして、堀末は失望混じりに礼一少年を見るのだった。


「あのさぁ……これじゃあ僕がただベラベラ一人で話してるだけの気色悪い人みたいじゃん。

 何か答えてよ~……。

 それに――何でこれだけ隙作ってるのにただの一発も撃たないの?

 ひょっとして馬鹿だったの君? 僕はそれでもいいけど……愛せるけど……」


 そこで、礼一少年はようやく意識を取り戻したような、そんな気がした。


 さっきまで自分が何かしら、世界の外にいたような気分だった。


 頭のいいとおだてられた小学生が間違って大学の講義を聞いたなら、きっとこんな気分になるのだろう。


 ただ、ぼうっとしていた、というには意識がはっきりとしすぎていて、だが意識し続けていたというには、少し自由が足らなかった。


 だが、彼は反射的に引き金を引いていた。


 聞いたことのない大きな音が右腕を伝ってコックピットへ響く。


 それに驚いたので、すぐにトリガーから指を外してしまったので単発になった。


 が、その砲弾自体は、デカい図体にすら当たらず、空中へ飛んでいく。


 対する堀末は、避けようとすらしていなかった。


 当たらないと見切って、機体の肩に突っ立っていただけ。


 それから、当たったふりでもするように、するりと機体の裏へ落ちるように隠れた――足場があるのか、地面には落ちない。


 弾だって、もちろん当たっていない。


 代わりに、モイスヒェンの首が虚空から礼一少年の機体を睨みつけた。呆けていた機体の節々に、力のこもったように礼一少年には思えた。


 乗り込んだのだ、機体へ。


「いいね――殺し合おう。ベラベラ喋ってても面白くない。人質だって戦いの邪魔だし、ここに置いていこう。


 僕は堀末平治。


 中島礼一君、君を誰よりこよなく愛するものだ。


 僕は君を愛するが故に殺すと宣言しよう。


 宣誓しよう――否、宣戦布告しよう。


 号砲は既に鳴った。


 なら、正々堂々、侃々諤々、戦々恐々殺し合おうじゃないか」


 モイスヒェンは左手の中のヨハナをそっと近くの建物の上に置いた。


 そして、その瞬間に――轟音。

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