第12話 「星と月と彼女と悪人と」
礼一少年が次に目覚めたのはヨハナが夕飯を彼の部屋に運んできてくれたときだった。長い間食べなかったあとにいきなり沢山食べると亡くなる方もいるので、とヨハナはその食事の量が少ないことについて説明した。知っています、インスリンのせいでしたっけ、と礼一少年が言うと、彼女は首を傾げるばかりだった。それどころか異世界のまじないだと考えたようで、礼一少年に他にはどんなまじないがあるのかと部屋を出るまでの五分間質問攻めにした。もちろん礼一少年のもつ医学知識など雑学レベル程度であるからそれなりに、まあ嘘はつかない程度に誤魔化しておいた。
礼一少年はそれをあっという間に食べ終わった。というのもパン一つと少しのスープしかなかったからだ。これでは質問攻めにしていた時間のほうが長かろう。しかし困ったことに、その速さが予想外だったのか何か仕事をしているのか、部屋を出るときに食器を取りに来ると言ったのに、彼女は待てど暮らせど来る気配が無かった。幸い、プレートに乗っていたので、まだ満足には歩けない礼一少年にも運べそうだった。彼は悩んだ末に、孤児院の中の様子を見に行くのも悪くなかろうとして、それを運ぶことにした。
すでに夜遅く、孤児院の廊下は真っ暗であった。子どもたちの遊ぶ声が聞こえそうなものだったが、その廊下がブラックホールのごとく音を飲み込んでしまったように静かであった。ひょっとすると子どもたちの棟が別にあるのかもしれないと思ったが、そんなに広い敷地があるようには見えなかった。早めに眠らせているに違いない、と礼一少年は考えた。朝早く起きる生活なのかもしれないが、灯りが一つもついていないところを見ると節約も兼ねているに違いない。幸い礼一少年は案外夜目が効くようだった。彼は適当にウロウロして食器を返すにふさわしい場所を探し始めた。その間に、彼は色々な推測を立てていた。
確かにインスリンの話は、雑学の部類であるから知らなくても無理はない。しかしその後だ。彼の言ったことを列記してあの地上の地獄こと東京でアンケートをとったとしたら、その中で一つも「知っている」に票が入らないような選択肢はあるまい。まだ比較的常識であるような話にすら、彼女は無知であった。ひょっとすると、この世界は、と主語を広げることもできるだろう。あの病院擬きで消毒用アルコールがあったのは、単にそういう「おまじない」が、偶然正解になってしまっているのだと解釈すればそう問題あるまい。
被服だって、デザインは近代的なのだがそれでも少し古いというか、少なくとも工業製品という感じが見られない。しかしその一方で、あの巨人だとか、あの自動車のような乗り物が生み出せるような科学力、というか、鋳造技術とか設計力とかが平然と辺りをうろついているのだった。テレビだってあるらしい。今通り過ぎた部屋にそれらしいものがあった。となればこれは歪だ、と礼一少年は思った。明らかに、技術が均等に進歩していない。この世界には魔術や魔法があるのだから、礼一少年の科学的世界観を当てはめるのは少しばかりお門違いではあるのだが。
それでもって、この孤児院はかなり経済的に貧窮しているようだ、と考えた。明記しておくならば、それは飽食の国で生まれ育った彼の常識での推測だったから、因果関係はこの世界と非常にズレていた。しかし今、礼一少年は台所の流しを見つけたので、そこに、この道のりの最初のうちは、と付け加える必要があるが。闇に紛れているような様子でそこにあったのは、似たような大きさの器がいくつか積み上げてある光景だった。恐らく、礼一少年より少し多く食べたかそうでないかというぐらいだろう。これらそれぞれに別々の料理を入れるというのは少し想像し難い。そうなれば人数があまりに少なくなってしまう。だから皿の枚数だけ子供がいるのだろうが、何にせよ、食費を削ろうとするのは深刻な貧困の証だ。
現実から目を逸らすようにそこに食器を置いて元の道を辿って戻ろうと思った。しかし、少し向こうに明かりが見えた。ぼんやりとした小さな光で、ロウソクか何かのようだった。
「……? そこに誰かいらっしゃるんですか?」
ヨハナの声だった。礼一少年は安心して自分であることを名乗った。それから明かりの元へ近づいていった。すると、はっきりとしないオレンジの光の中にヨハナの顔が優しげな笑みをもって揺れていた。
「食器を片付けに来たんですが、あの部屋のところで大丈夫でしたか」
「ああ、子供たちを寝かしつけるのに精一杯で、すっかり忘れていました――ええ。そこで合ってますよ。お手数おかけして申し訳ありません。帰りは送りますよ」
「すみません、助かります」
礼一少年はようやく体の痛みに気がついた。さっきまでは何ともなかったくせに突然彼女がいると思った途端に疲れが出たのだ。そのとき、彼女に頼ろうとする自分がいることに礼一少年は気がついた。彼女は、自分より少しばかり年上に見えるだけであるにもかかわらずである。結局彼は、少しだけ休ませてください、とヨハナに頼んでしまった。もちろん彼女は快諾し、そればかりか心配までした。それが彼には非常に心地よいものだった。
「大丈夫ですか」
「ええ、少し落ち着いてきました」
もちろん、これは大嘘だ。礼一少年は最初から、歩けなくなるほどの疲労状態にはなっていない。ただその感じ方を彼の側で変えただけだったのである。言ってしまえば、初めから落ち着いていたのである。
ロウソクのほのかなオレンジの光の中にいるヨハナを見たいが故に彼は立ち止まったのだった。彼女の絹のような白い肌は、夕日のようなそれに照らされてより輝きを増し、そこに小さく張り付いている唇はリンゴのように赤かった。しかし、夕日というものは彼に忘れたい記憶を思い起こさせる。あの地獄と枯れ木に服を引っかけたようなあの男のことだった。彼がここにいるはずもないのに、もしここにいたらと考えていた。彼女の柔らかいだろう腹は裂かれ、彼女の笑顔は二度と見られなくなるだろう。それどころか、彼女だと分からないぐらいになってしまうかもしれない。あの男に限ったことではない。突如あの巨人が襲ってこないとも限らない。よほど幸運じゃない限り、あれに勝つのは無理だ。そもそも、彼女の細腕で何ができるだろう……?
「ヨハナさん」
礼一少年は言った。
「僕をずっとここにおいてはもらえませんか」
火の向こうの彼女が目を少し見開いたのが礼一少年には見えた。
「えっと、それはどういう……?」
「そのままの意味ですよ。そりゃ、食べる口が一つ増えるんですから決めかねるに違いないでしょうけど、でも男手が必要なときは頼れるでしょう?」
「それは、そうですが……私は恩を売るために助けたのではないのです、あなたに働いてもらうというのは、その、困ります」
「別に恩返しではありませんよ」
「それでも、恩返しと同じことではないですか」
「確かに同じ結果のようでしょうが、でもはっきりと根本が違います」
「どう違うのですか」
「どうもこうも、これは何もかも違います。恩とかじゃなく、ただ単にあなたを個人的に助けたいのです」
「面白いことを、言うんですね」
「そうですか?」
「そうですよ」
彼女は、さっきまで曇っていた顔をはっきりと微笑みに変えて言った。
「分かりました、それだけ言うならいいでしょう。一人ぐらいなら何とかなるでしょうし、部屋だって今日使ってるのを使えばいいでしょう。それに、畑仕事とかは確かに力が必要ですから――でも、朝早いですよ?」
「構いませんよ、それより、部屋に戻りましょう。少し冷えてきてしまった」
もちろん、これも冷えてなどいなかった。礼一少年は寒くなどなかった。彼はこの静かな喜びが体から溢れない内に彼女から隠れ、眠ろうと考えたのだった。
「おやすみなさい、ヨハナさん」
「おやすみなさい、レイイチさん」
礼一少年は、部屋の明かりを消した。
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