アイドル・シンドローム ~地下アイドル細腕繁盛記~

フミヅキ

第一章 宝石箱の中で瑠璃は踊る

第一章 宝石箱の中で瑠璃は踊る①

 わたしの職業はアイドルだ。


 とはいっても、テレビでよく見る大手のアイドルさん達とは違い、ライブハウスでの活動がメインのいわゆるライブアイドル・地下アイドルと呼ばれる存在。アイドルだけでは食べられないのでアルバイトと掛け持ちしているレベルで、当然、世間での知名度はない。


 わたしは今日もライブイベントに出演するため、同じグループの千沙子の手を右手で、キャリーバッグの取っ手を左手で引きながら街を歩いている。千沙子がニットキャップとマスクに覆われた顔を俯かせているのも、男性マネージャーの鈴本さんがもう一つのキャリーバッグを引いてわたし達を先導するのもいつもの光景だ。


 平日の昼間でも下北沢の駅前は賑やかだった。食べ物屋さんや洋服屋さんが軒を連ねる細い道を、わたし達は雑踏に交じりながら目的のビルまで黙々と歩いていく。わたし達は古びたそのビルの地下に続く階段を、キャリーバッグを抱えながら下った。


「ハッピープリンセスです。よろしくお願いします!」

「今日もよろしくお願いします!」

「…………」


 鈴本さんとわたしとでライブハウスのスタッフさん達に挨拶し、それに続いて千沙子がわずかに頭を下げた。


 スタッフさん達と打ち合わせする鈴本さんと別れて、わたしと千沙子は楽屋に向かう。まだ誰もいない楽屋で、千沙子はさっそくキャリーから衣装を取り出して着替え始めた。二ヶ月前に出したシングルに合わせて作ってもらった赤いタータンチェックのワンピースだ。着替えが終わると、千沙子はわたしの服の袖をちょこんと掴んで軽く揺すった。


「ラピスちゃん、あ、頭と、おけ、お化粧……お願い……」


 ボソボソと聞き取りづらい声だった。でも、彼女がわたしのことを「泉ちゃん」ではなく「ラピスちゃん」と呼ぶのは、「御園千沙子」が「御園ルビー」になるスイッチが入り始めたサインなのだ。


「いいよ。おいで」

「うん……」


 千沙子は備え付けの大きな鏡の前に座り、ニットキャップとマスクを外した。

 うつろな目の、表情の乏しい女の子が鏡に映る。整った顔とも相まって、今の彼女はお人形さんのようにも見えた。


「じゃあ、始めるよ」


 わたしは千沙子の頭を優しくポンポンと叩いてから、化粧ポーチのブラシを取り出し、まずは彼女の髪を梳かすことから始めた。ある程度髪の絡まりがほどけたら、霧吹きで水を吹き掛けつつドライヤーを使ってブローする。そうすると、ブラシが通るたびにセミロングの黒髪がさらさらと流れ、つやつやと輝きを増していった。まるで星を抱く夜空のような深い黒と煌めきの調和に思わず溜息が零れる。その後はヘアスプレーを吹きかけながら頭の高い位置で髪を一つにくくり、前髪とサイドの髪もきっちり整える。


「よし、いい感じ!」


 最後に真っ赤なリボンを結んで手を放すと、千沙子のポニーテールが甘い匂いを振りまきながら可憐に揺れた。


 お次はメイク。化粧水と乳液で肌を整えてから、化粧下地を指で優しく伸ばしていく。まだ十九歳の千沙子の肌はキメ細かくて弾力があり、その吸い付くような触り心地はいつまでも触れていたいくらいだ。若い女の子の肌をタダで触れるなんて、メンバーとしての役得の一つだろう。


「ふふふ!」


 わたしの口から思わず笑い声が漏れると、千沙子が鏡越しに不思議そうな顔をした。


「な、なあに? なんで……笑う?」

「ちーちゃんが可愛いなって思って」

「う……え……え……わたし……が?」


 ルビーになりきれていない千沙子は恥ずかしがるような、嫌がるような、苦しむような、嬉しがるような、なんともいえない表情をする。不器用で可愛い女の子なのだ、彼女は。


 わたしは少し赤く染まった千沙子の頬を軽く撫でてから、次の工程に移る。ファンデーションで肌の色身を整えたら、アイシャドウとアイラインで目をパッチリと描き出す。リップとグロスで唇をぷっくりと演出し、チークで頬を上気させ、アイブロウで眉を優美に整え、最後にマスカラで目の印象をさらに強める。


 そんなメイクの工程を経るうちに、「御園千沙子」の表情が「御園ルビー」のそれに変わっていった。

 沈んでいた瞳は陽の光にきらめく朝露みたいに輝き出し、無表情だった口元は蕾がほころぶように笑みの形を浮かべて、彼女の顔が――彼女の全身が溌剌とした可愛らしさを纏っていく。メイクが終わる頃には彼女はとびきりの笑顔を浮かべていて、それは真夏の日差しに輝くヒマワリみたいな表情だった。


「ラピスちゃん、今日もお化粧してくれてありがとう!」


 さっきまでのボソボソした話し方が嘘のように、ハキハキと可愛らしい声で「ルビー」はわたしに言った。


「ラピスちゃんのヘアメイク、ルビーは大好きなんだ!」

「ふふふ。ありがとう。ルビーは今日も可愛いね」

「えへへ、ありがと! ルビーはラピスちゃんに可愛いって褒めてもらえるの、本当にすっごく嬉しい!」


 そう言って、ルビーはてらいなく朗らかに笑った。メイクの結果だけでは説明がつかないこの変化は、きっと千沙子が衣装とヘアメイクを通して自分自身に掛ける魔法なのだとわたしは思っている。


「じゃあ、ルビーはスタッフさん達にご挨拶してくるね!」

「いってらっしゃい。お行儀よくね」

「は~い。いってきまーす!」


 楽屋から飛び出していくルビーの、パタパタと鳥の羽ばたきのような軽やかな足音が心地よく響いた。それと入れ替わるように別のアイドルグループの子達がやってくる。


「ラピスちゃん、こんにちはー」

「こんにちは。今日もよろしくね」


 壁一面を覆うロックバンドのステッカーや落書きのせいでどちらかというと男臭い楽屋が、女の子達の甘い香りと、きゃらきゃらと笑う声によって華やかな空気に変わっていく。そんな楽屋へショートカットの女の子が顔を覗かせた。


「ラピスちゃん、お待たせ」


 彼女はうちの最年少メンバーの綾原ヒスイ、本名では綾原怜美だ。短く切った黒髪がよく似合うヒスイは、高校から直接来たのか、ブレザーにプリーツスカートの制服姿だった。


「ルビーちゃんはもう準備終わったんだね。今日も可愛かったな」

「今でよければヒスイのメイクもやってあげるよ」

「え、いいの?」


 遠慮するように上目遣いで窺うヒスイに、わたしは笑顔で頷き返す。彼女は少し照れたように頬を掻きながら、鏡の前に座った。わたしはルビーの時のようにヒスイの髪をブローすることから始める。


「ラピスちゃんはこういうの上手でうらやましいな。自分でもがんばるけど、うまく出来ないんだ」

「わたしだって、セルフでやるのはやっぱり難しいよ」


 ヒスイの好みに合わせて、内巻き気味に髪を整える。衣装に合わせて作ったタータンチェックの髪飾りをピンで固定し終えると、ヒスイがわたしの方を振り向いた。


「でも、ラピスちゃんはセルフも上手だよー。うらやましいもん」

「あはは。それは年の功だよ。ヒスイと違って、わたしは無駄に年取ってるからさ」

「えー……?」


 ヒスイが困ったような顔をしたので、わたしは自分の自虐的発言を後悔した。そんなわたしに、背後からツッコミが入れられる。


「また出たぜ、ラピスちゃんの年寄り発言。言われた方が気まずくなるんだからよー、やめろよな!」


 その聞き慣れた声に、わたしはわざとらしく溜息をつきながら振り返った。同じグループの桐生衣緒菜、ステージの名前で桐生コハクだ。アイドルと並行してモデルもしている彼女はニヤニヤ笑いながら、そのすらりとした長身でわたしを見下ろしていた。わたしも背の高い方だが、彼女には敵わない。今日は美脚が映える細身のパンツと、独特な形のロングカーディガンをバランスよく着こなしていて、相変わらずのお洒落さんぶり。


「年寄りは僻みっぽくてヤダな、ヒスイ?」

「コハクちゃん、そんな言い方……!」


 ヒスイがひやひやした顔をするけれど、コハクは余裕の表情を崩さない。


「だって、ホントのことじゃね?」

「そんなこと!」

「大丈夫、大丈夫。ラピスちゃん、めっちゃ優しいから許してくれるって。な~?」


 人懐っこい笑顔でわたしの顔を覗き込むコハクに、わたしはもう一度大きく溜息をつく。


「コハク、わたしには何を言ってもいいけど、他の人には気を付けないとダメだよ。まあ、わたしもあんまりネガティブなこと言わないように気をつけなきゃいけないけど……」


 途端にコハクが能天気に笑う。


「やっぱラピスちゃん、やっさし~」


 わたしの言葉をちゃんと聞いているのか、いないのか。わたしが何度目かの溜息をこぼした時、うちの最後のメンバーが楽屋に入ってきた。左右長さの違うアシンメトリーカットの金髪に、目には紫のカラーコンタクトを入れ、原宿系のカラフル・ポップな服を纏った穂積ルチル、本名は穂積真希絵だ。


「ラピスちゃんの言うとおりだニャ。お口にはよーく気をつけるナリよ、コハク。特に他のグループの人とか、スタッフさんとか、モデルのお仕事先の人とか、ファンのみんなにもだニャ!」

「なんだよ、ルチル! オメー、うちと同い年のくせに偉そうに言ってんじゃねえよ!」


 コハクは眉間に皺を寄せながらルチルを睨む。だが、ルチルは一五〇センチない小柄ながら、臆することなくニヤニヤと笑い返す。


「ルチルはコハクを心配してあげてるナリよ。だって、コハクはかなりアホでバカだからニャ。考えなしで、ガサツで、言葉も怖くて、コハクが失言しないかいつも不安ナリよ~」


 ルチルがアニメ声優のような可愛い声で捲し立てると、コハクが怖い顔でにじり寄る。


「ルチル、オメーは文句言う前に、そのムカつくしゃべり方をなんとかしろよ!」

「アイドルなのに、コハクは怖いナリね~! ねぇ、ラピスちゃん?」


 わたしは溜息をこぼす。


「あんまりコハクで遊んじゃだめだよ、ルチル」

「にゃはは! だって、コハクって単純バカで面白いからニャ~」

「ル~チ~ル~! テメー!」


 コハクがルチルにヘッドロックのような態勢で組み付くと、二人はきゃーきゃー言い始めた。最年少のヒスイが不安げにわたしの顔を覗き込む。


「ラピスちゃん、止めなくていいの?」

「大丈夫。じゃれてるだけだから。いつものことだよ」

「そっか!」


 安心したように表情を緩めるヒスイの前で、今年二十歳になった同い年の二人がやいのやいの言い合いを続ける。仕方のない子達だ。格闘中のルチルにわたしは声を掛ける。


「ルチル。時間あるときでいいから、今日の物販の値札、可愛いやつ作っておいてくれると嬉しいな。これ今日のリストなんだけど」

「了解ナリ~」


 ルチルは片手でコハクを抑え込みながら、片手でわたしに向かって敬礼した。彼女は美大生でもあり、可愛いイラストも得意なのだ。ルチルにリストを手渡したところで、ルビーが楽屋に返って来た。


「あー、もうみんな来てる! 今日もライブがんばろうね!」


 ルビーが可愛らしくガッツポーズを作ると、ヒスイが頷く。


「うん。頑張ろ!」


 未だにぎゅうぎゅう押し合っているコハクとルチルも手を上げて応える。


「お、ルビーはもう変身後かよ。今日もヨロシクな!」

「よろしくニャ」


 そんな四人を前に、最年長の二十三歳ゆえにリーダーを拝命してしまったわたしは、今日のスケジュールを伝える。


「リハ前に物販用のチェキ撮るから、ちゃんと準備してね」

『は~い』


 四人の返事がきれいにハモった。

 わたしを含めたこの五人が現在の「ハッピープリンセス」メンバーであり、この騒がしい風景がわたし達の日常なのだった。

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