第35話
時間は短いが、大河のように果てしない長さのように感じた。
リリーはその時湧き上がる全ての感情をかみしめるように目を閉じていた。やがてウールの唇から暖かな彼女の感触がゆっくりと惜しむように消えていく。見つめ合う二人の間には、互いが交わった透明な液がつり橋のように垂れ、廊下を照らす照明の下に輝いていた。
「…………」
沈黙。
そして沈黙。
騎士から恥じらう乙女へと変貌してしまったリリーを前に、ウールは痴呆のようにポカンと口を開けたままだ。対してリリーは体をもじもじと左右に揺らしながら震える人差し指を自らの下唇に添えながら、残ったキスの感触を目を泳がせながら確かめている。新緑のように潤んだ彼女の瞳は必死にウールの姿を捉えようと試みるも、何かに阻まれているかのように何度も明後日の方向を向いてしまう。
「そ、その……。今ならできると思って……。メアリスだけするのはズルいので……。」
「ああ、うん……。そうか……」
怒っているわけでも、かといって嬉しいわけでもない。思いがけないリリーのキスに圧倒され、ウールは体の内から流れる得も言われぬ感情を制御するのに必死なだけだ。
「で、では魔王様! わ、わ、わたしは先に戻ります!」
いつもの凛々しさはどこへやら、リリーは回れ右をすると、危うく転んでしまいそうなぎこちなさで去って行く。その様子を眺めていた見ていたウールはいまだに心ここにあらずといった面持ちだったが、ベルムが声をかけながら体を十秒ほど揺するとハッと気を取り戻した。
「なにやってるんですか魔王様。……もしかしてこうなるのをあの空気で分からなかったと?」
「あ、ああ……」
「ええ……、鈍感すぎますよ。これ二回目ですよ? 少しは学習してくださいって」
「わ、分かった……。というかメアリスもリリーもやるなら先に言って欲しいものだ。……こっちにも心の準備というものがな」
ウールは上の空でブツブツと独り言を繰り返しながら、ベルムと一緒にベン達のいる部屋へと戻って行った。その道中、館中に響き渡るような轟音が聞こえ何事かと思った二人だったが、それが恥ずかしさのあまり扉を勢いよく閉めたリリーによるものだと分かり肩透かしを食らってしまった。
♢
それからは奔走する日々だった。王国が攻めてくるまで二週間ほどしか猶予は無く、ウールは迎撃する準備のために街を東奔西走していた。それはベルム達も同じで、ただでさえ人間と魔族がこうして共同戦線を組むなど前例のない事で、急を要する現状だ。加えてポルーネは複雑に道が絡み合う街でありとにかく苦労が多い。ウール達は毎日ベッドに入るとすぐに夢の中へ行く始末だった。
それでもこんな所では死ねない、皆と共に生き延び、世界征服を果たすため。ウールはブーブー文句を言いつつも懸命に動き続けた。やがてその日々は、嵐の如く過ぎ去っていった――
♢
レッドゴブリンの住処にて
ウールが目覚めたのはまだ太陽すら昇っていない早朝だった。空はまだ紺色へと変わり始めた頃で、爛々と輝く星々が見て取れる。ウールはまだ眠気の残る目を擦ると、着替えながら窓辺へと近づき空を見た。
「そうか、いよいよか……」
着替える手が止まり、裾をギュッと握る。手は怯えきった子供のように小刻みに震えていた。ふとウールは窓に映る頼りない自分の姿に気づくと、いかんいかんと頭を横にぶんぶんと振って両手を腰に当てフンッと背筋を伸ばした。
「何をやっているんだ私は!」
まるで窓に映るもう一人の自分を叱りつけるように言う。その時、後ろで扉を叩く音が聞こえウールは「少し待て」と窓の外を眺めたまま言った。着替え終えると入るよう言い、直後、ベルムが入ってくるとウールは髪をなびかせながら振り返る。
「おはようございます。もう起きていましたか」
「当然だ、こんな日に寝坊するなどあってはならんだろ?」
「いやでもギリギリって感じですけどね」
ウッ! と痛いところを突かれたような反応をつい見せてしまう。ベルムはそれを面白がるようにニヤニヤと見ていたが、ウールがム~っと頬を膨らませて睨んでいるので余計に笑ってしまう。
「まあ寝不足よりはマシですからいいでしょう。それで魔王様、他の者は準備ができております。皆、あなたを待っております」
ウールは「そうか……」と握りしめた右手を見たまま答える。まだ震えているのを抑えるように炎を弾けさすと振り払うように腕を振り、ベルムと共に部屋を後にした。
廊下を出てからウールはベルムの前を歩いたまま無言を貫いていた。二人の足音、息遣い、普段は聞こえないような音が意識せずとも耳に届く。息詰まりそうな静寂の中、ベルムは不意に口を開いた。
「……怖いのですか?」
「そんなわけ……。いや、ベルムにはお見通しか。そうだな、死ぬかもしれないとつい思ってしまってな」
「魔王様がそのような事を考えるとは意外ですね~。むしろ『かかってこい人間共!! 後悔させてやろう!!』という気概なのかと」
「改めて言われるとひどいイメージだな……。まあ実際そうしてる方が自信は持てるが」
「ではそれで突き進みましょう! そして魔王様の願う世界を作る為に、世界征服を行いましょう!」
ウールはベルムが自分を励ましているのがすぐに分かった。だが彼の言葉は励ます為の言葉ではなく、本心からの言葉だと感じ取れた。するとウールは立ち止まり、カラカラと楽しそうに笑いながら振り向く。もはや夜のように暗い表情はどこにもない。
「そうだな。皆のため、もちろん私のためにも、世界を征服してやらねばな」
腰に手を当て、指をビシッとベルムに向けたままニヤリと笑う。迷いなどない。その指の示す先を望むようにベルムは「それでこそ魔王様です」とうんうんと頷いた。
「ま、成り行きで始まってしまったことだけどな」
「それもまた魔王様らしいですよ」
「はあ?! どういう意味だ?!」
「そのままの意味ですよ」
ギャーギャーと口やかましく言うウールをベルムがからかいつつ、二人は外へと向かって行く。そんな二人の足取りは重く、地に足のついたものだった。
♢
外には既にグルト達が隊列を組んで待機していた。グルトの後ろにはレッドゴブリン達が鈍い輝きを放つ武器を手に、彼らの隣にはメアリス率いる亡霊達も
空は茜色に染まり雲はその輪郭を見せ始めるが陽はまだ昇っていない。朝のひんやりとした一陣の風が吹くと、ウールはベルムから鞘に入った剣を受け取ると地面に突き立て、両手で柄頭を握る。
「さてお前達。知っての通りだがいよいよ今日、王国軍と相まみえる。期せずして、この戦いは始まってしまったがどうか迷いを持たないでほしい。これは単なる有象無象の戦いではないからだ。我々と、我らと手を取り合おうとする人間達が生き延びるための、世界征服という果てしなき道の第一歩となる戦いだ。その戦いでお前達は先陣をきる。そう、戦いの幕は、お前達が放つ一撃から始まるのだ!! 我々の世界征服は、お前達が光を灯す事で始まるのだ!!」
ウールは確かめるように彼らを見渡す。ギラギラと輝く、決意の灯った目が一面に広がり、どの目にも前を向く魔王の姿が映っていた。
静寂は続く。
森のどこかで朝を告げる小鳥のさえずりが風に乗って吹いてきた。
「みなの決意、しかと見た。ならば武器を掲げよ!!
雄叫びは大地を、空さえも揺るがした。天をも貫かんとする彼らの咆哮は、遥か地平の彼方に眠る太陽を呼び起こした。彼らの雄姿を昇りゆく太陽は加護を与えるかのように優しく照らす。高ぶる感情は、陽の温もりを一身に受け彼らを包み込む。
「では始めようか、我らの世界征服を」
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