7月28日 午後3時01分 官邸

 鷺野さぎの二尉と榊原政務官のパスは問題なかったが、やはり山川重五郎やまかわしげごろうのパスは駅の改札のようになっている入り口で官邸警護員に止められた。

「これは防衛省の官僚用文官用だ。あなたのような制服組の自衛官用ではない」

「なにっ、今は国家喫緊の事態だ。現役陸将補として憂国の士としてやってきた」

 憂国なんて言葉を生きた人間が発するのを鷺野は人生で初めて聞いた。

 これは一揉めするなと、鷺野は瞬間に思ったがゲートの向こうでわざと助けなかった。

 市ヶ谷でのPTphysical trainingの報復だ。

 これも自衛隊ではよくある、あるあるだ。なにかやられたら、ありとあらゆる方法で報復は誰がやったか公式には確認できない方法でおこなわれる。やられた本人は誰がやったかわかるが、これも自衛隊のルールでこのやった、やられたの時点で報復の連鎖は終わる。災害支援と行進をしている自衛官しかしらない人間は気をつけたほうが良い。

 酷くがっかりするか陰惨な話を自衛官と飲めば聞くことになる。

 鷺野が今まで見たこれ以上ないほどに山川が警視庁の警備局から出向している警護員を睨みつけた。

 人殺しでもこんな目をしないだろう。

 その後、一閃。山川はその警護員の胸ぐらを掴んだかと思うと、官邸の庭までどうやったのか誰もわからないスピードで投げ飛ばした。

 恐るべしレンジャー課程修了者。

 横にいた警護員のバディの目と口がOの字になって応援を呼ぶ前に堂々と山川はゲートを通った。

 が、ゲートセンサーが陸自の制服に反応するわけはなく通れるはずだったが、目と口がOの字の警護員が逡巡することなく訪問者には見えない位置にある黄色いボタンを押した。

 警告を示すボタンは黄色か赤と昔からどこの国でも決まっている。

 すると大きな音のサイレンが鳴り響き、見えない扉が開き、あちらこちらから警護員が飛び出してきた。

 細いゲートで停止バーがこれでもかというほど、すごい勢いでしまり山川の大腿部と腰のあたりを打ち付けたが、山川の大腿筋とハムストリングがバーに勝利した。

 だがこの戦いに勝者はいなかった。バーは両方共曲がった。山川は苦悶の表情を浮かべゲートを歩きだせなかった。

 痛みは精神の問題だと考えている山川でも無理だった。そこへ四方八方から警護員が襲いかかった。実際の人間相手に侵入者を制圧し抑え込むのは彼らとて初めてだった。

 山川は善戦したが、一人投げ、二人投げ三人投げまでが限界だった。

 ゲートをそろりと出たところで足元の鋭いタックルと背後からの羽交い締め、正面からの奥襟締めに耐えながら、床に組み伏せられた。

「助けなくていいんですか?」

 こういうときでも、榊原政務官は楽しめるらしい、半笑いだ。

「これが市ヶ谷を出るときからの陸将補が望まれた結果でしょう」

 鷺野は一応どころか、本当は同じ宣誓した仲間としてかなり心を痛めながら渋い表情を見せ、榊原に答えた。

 鷺野は初老を迎えようとしているいい年配の男性が大多数で床に押さえこまれているのも人生で初めてみた。

 山乗りの警護官の下からは

「ゆぅーこくのぉ」というくぐもった老人の声が漏れ聞こえていた。

 この状態では山川も所詮一介の初老の男性だった。

 警護官たちは、手錠だとか、縄だとか、叫んでいたが、それが必要だということは

山川がまだ戦っている証拠だった。

 ややもしないうちに、なんだ、なんだ、とセキリティゲートは大騒ぎとなった。

 肩に星をたくさんつけた陸自の偉そうな上級幹部が多数の警護官に抑え込まれているのだ。

 ゲートの外には報道陣が集まりだした。最近はスマホという便利な動画まで撮れる機械を一人一つ概ね携行している。

「まずいぞ」と一人の責任者らしき警護官が言うと、陸将補を台車とする山車だしが複数の警護官を載せたまま官邸の奥へと引きづられていった。

 山川重五郎陸将補も望みどおりに官邸の内部に入れた。  

 

 鷺野と榊原が通された官邸の二階に設置された緊急特別危機対策室は、とにかく混乱していた。

 人口密度との場の空気、精神的圧迫感はもしかすると、外の混乱を極める都心より高いかもしれなかった。

 情報を共有するための いくつものボードとモニターと化している大型TV。邪魔にならないように全ての椅子は壁際に設置され、そこに省庁の役人、専門家、あまり重要でない名ばかりの大臣が座らされていた。

 モニター類から離れてそれらがよく見えるところに会議用の大きな机が置かれている。その上には、電話が数台とびっしり文字が書かれたこぼれ落ちんばかりのA4のコピー用紙とプリンター用紙。

 この卓上の混乱こそが現在の日本の混乱を如実に示している。

 そしてその机には国会中継やニュースでよく見知った二人が肩を寄せあい老眼鏡片手に座っている。

 この二人こそ、総理が外遊中の今日本の行政を取り仕切る二人なのである。

 官房長官と元総理で副総理兼財務大臣。

 大型の机で二人からやや離れた場所に、女性閣僚の通信・放送を管轄する総務大臣、そして、もう少し離れた場所に穏やかそうな人柄の防衛大臣と、優秀そうだがもう一つやる気のなさそうな外務大臣。

 しかし、基本は、官房長官と財務大臣二人だけでごにょごにょ話し合い、取り決めている様子だ。

 机の端には、国家公安委員会委員長に警察庁長官。テロにしろ違法行為には違いないので、本来はこれは偽計業務妨害の犯罪で警察のマターである。


 部屋のすみで一番意気消沈し、小さくなっているのは、大手プロバイダーの専門家達。そして一番は光ファイバー回線を握る、旧電電公社の専門家とサイバーセキリティの専門家たち。

 どこから見ても、ひ弱で貧弱そうな彼らだが、大きな格闘技の大会で一回戦負けをしたようなていである。

 つい先刻も、失言が多く口が悪いことで有名な財務大臣に怒鳴られたばかりである。

 この副総理兼財務大臣は戦後の混乱の時期をまとめあげた大総理の孫であり妻も先の総理の娘、妹は皇族に嫁いでいる。

 自身も元総理で政治家としてのセカンドライフで大臣を奉仕しているぐらいの面持ちである。彼の中では彼より偉く尊い人間は天皇陛下以外存在しない。

 日本最強なのである、定義にもよるが。

 そしてもう所管官庁の総務大臣ですら、IT並びにサイバーセキリティの専門の彼らに目を合わせてくれていない。


 鷺野は入室するやいなや、誰かわからない官邸の仕えるスーツを着た官僚に電話帳のようになったA4用紙の束を渡された。

「これに一応全部目を通してください」

「無理だよ、明日の朝になっちゃうよ」

 榊原は微笑みながら反論したが、二人に押し付けるようにA4の束を渡すとその官僚は官邸の一部と化すべく消えた。

 鷺野は邪魔にならないように壁際の椅子に座る。これはルールらしい。

 どの国かはわからないが王朝の朝廷ってこんな感じだったんだろうなと鷺野はA4の束を持ちながら思った。

 日本の中心であるここに日本の全ての情報が集まってきているのはわかるが、榊原が正しく、こんなの全部読めるわけがない。 

 パラパラ斜め読みしながら、興味のあるところだけ、読む。

 しかし、それは概ね知っていることばかりだ。

 官僚のこんな短時間でまとめ上げる能力は買うが、どうしてこんな同じことやほんのちょっとしたこと大きく盛ってさも仕事をしたみたいに延々と難解な言葉で書き綴れるのか尋ねてみたい。

 理系から官僚になった人間は認めるが、文系の連中を鷺野は認めない。偏差値を違う方法で算出すべきだとさえ思っている。

 理系で受験した鷺野からしたら高校で文系を選んだ時点でもう負け犬だ。

 受験を楽して通ろうとしている、世の中をナメている。世の中はそんなに甘くない。

 とその官僚が纏めあげたA4の束に影を挿す大男があっっていた。

 見上げると、山川重五郎その人である。

 額の包帯と腫れてキレた唇が露骨に痛々しい。

 がこの男も苦痛に打ち勝って官邸に入り込んだのだ。

「陸将補がここにいることに違法性はないのですか?」

 鷺野が言うと。

「井上のやつが通してくれたあいつもおとこだ」

 鷺野が見やると、どうやって追いついたのか、井上審議官が小さくなってこの対策室の壁際の椅子に座る官僚の一人になっている。

 井上は確かに官僚の一人だ。

 

 しかし場違いな自衛官の制服を着ている男性は鷺野と山川の二人だけではない、人目につきそうにない奥の角に、三軍トップの統合幕僚長の延岡海将のべおかかいしょうが胸に将軍の地位を表す4つ星と幕僚長章を付けている。

 そして陸自のトップの陸上幕僚長、海自の海上幕僚長、空自の航空幕僚長が脇と後ろに控える。

「挨拶しにいかなくていいのですか?」

 と嫌味半分に鷺野が尋ねると。

「全員、防大の後輩だ、あっちから挨拶するのがスジだろ」

 筋肉バカの山川陸将補は出世レースで軽く抜かれたらしい。このへんスマートそうな自衛官のトップ4人をみているとやはり、自衛隊という組織も最終的には首から上の勝負になるらしい。 


 だがその場違いな一人に頼ろうとしている名目上は副総理がナンバー2だが、真の行政上のNO2ナンバー2は官房長官である。ぶら下がりで総理に取材をするのは若手の政治記者だ。真の政治記者は官房室か官房長官に張り付く。すべての省庁の情報と命令はここに集まり、政府の意向は官房室から出る。日本では11時の定例記者会見だけでやたらTVに出る人となっているが、報道官を正式に置いていない日本のシステムのほうが近代民主国家として異常なのだ。

 その人が老眼鏡を下げて鷺野を見ていた。

 これほど怖い視線はない。

 鷺野も官房長官を見る。

 目が合う。

 日本で一番すごい副総理兼財務大臣は、呑気のんきに隣の優しそうな美人の総務大臣と談笑している。政治家はおしなべてみなルックスが良い。時たま悪いのも居るが。 

 官房長官が官房室の秘書官に耳打ちした。

 秘書官が文字通り飛んで来る。

「官房長官がお呼びです」

 鷺野は返事をせず、山川を見やる。

「穏便にな」

 山川から信じられない言葉が口からもれた。

 陸将補に噛み付いた、二等陸尉だ。穏便に済ますつもりなど毛頭ない。 

 鷺野はA4の束を山川にわたすと、テクテク誰も近寄らない。閣僚が数名座る大机に向かった。

 官房長官の、前で敬礼。これで済むから兵隊稼業は楽だ。名刺交換はない。

 わざと、大股を開き、自衛隊でいうところの”休め”の姿勢をとってやった。

 これは隊内ではアウト。

 官房長官は座ったままなのだ。気にする必要はない。この国は民主国家だ。

 副総理は鷺野など居ないかの様だ。

 官房長官が口を開いた。

「榊原君が君のことと君の部隊のことを言っていた」

「名前はなんちゅーんだ?」

 思わぬところから、質問が飛んできた。

 副総理である。皇室と親戚関係にある人物から話しかけられたのはこれまた人生初めてだ。

鷺野航輝さぎのこうきといいます」

 わざと階級は言わない。これも隊内ではアウトだが隊内では階級章を見ればすぐわかる。

 官房長官は白い一枚の紙を持っている。

 おそらく、鷺野の経歴書である隊員記録を見ている、いや見ていない、持っているだけだ。

「なんで、防大卒じゃないのに将校なんだ?」

 また思わぬところから、総理の孫からの詰問。

「それは高校時代の大学受験の志望理由を話せということでしょうか?」

 鷺野は小さな声だがしっかりと答えた。

「今は喫緊の非常事態だ。そういう小賢しいことはやめなさい」

 小賢しい?鷺野も少しカチンと来た。

 副総理の目の色が変わった。誰でも敵意だけは直ぐに気づく。副総理の唇が歪む。

 かなり間があり、官房長官が言った。口調は穏やかだったが副総理にはない明確な有無を言わせぬ意志が感じられた。

「理学部の数学卒?、工学部の電子工学とかじゃないのかね?」

 と副総理鷺野より頭のいいところを見せたいらしい。

「お言葉を返すようですが、電子工学についてはよく存じませんが、電子工学は物理的なパーツ、電子部品の精度を扱う部門だと思います」

「数学は?」

「極めたとは言い難いですが、理論上可能なことはすべて可能だと言う学問です。それはすべてを二進法に置き換えられて理論上すべてが可能になっているネットの世界と同義であります」

 官房長官が続ける。

「今の状態をどう見ているのかね?」

 我慢して答える鷺野。我慢するのも自衛隊の手当てのうちだ。隊員から将校まで全員知っている。

「自分が知っている情報では全くわかりません」

「君は、この部屋に入るときの守秘義務の紙にサインしなかったそうだね」

 と官房長官、もう老眼鏡は外して鷺野を値踏みするように見ている。

「はい、守れそうになかったので」

「どんな組織でも守秘義務みたいなものはあるだろ」

 質問がかなり乱暴になってきた副総理、流石に日本国で一番偉いらしい。

「しかし、普通サインまで求められません」

 鷺野の口答えにはもう相手しない様子。

「第505特殊電算小隊!?」

 わざと、返事をしない鷺野。

「この資料だと今年度から運用開始か?」

 副総理の質問は口調が荒い。

 それを楽しむかのようにわざと間を開けて返事する鷺野。予算が降りなかったのは上の方の責任だと言いたい。

「はい」漸く返事。

「あの連中はお手上げだったが、」

 そう言って、元総理にして副総理兼財務大臣は部屋の隅で小さくなって今でもノートPCを弄っている白シャツネクタイ軍団をみやりながら。

「何人でこの大規模サイバー攻撃にあたる」

「うちの小隊は自分も含めて3人で構成されております」

「3人?」

「はい、そのとおりです」

「”これ”は、だめですよ、副総理」

 官房長官が副総理に真顔で言った。とうとう、鷺野は”これ”と呼ばれる"もの"になった。

「対処できる自信はあるかね?」

 と官房長官。

 鷺野は上から見ているせいか、官房長官の頭髪の8-2分けはTVで見るより薄いそれに生え際が白い染めているらしい。

「情報を与えてもらわないとお答え出来兼ねます」

「外交上、安全保障上の国家機密が含まれる、全部は開示できない。あの連中もそうだった」

「ではこちらも、わからないとしか答えられません」

 鷺野にとってはお互いの長い沈黙。しかし閣僚はこの程度の現場の反抗は一顧だにうしない。

「第505特殊電算小隊に命ずる直ちにこの現在攻撃されているサイバー攻撃に対処したまえ」

 官房長官には優しい口調だった、厳しい雰囲気が伴っていた。

「お言葉ですが、自分のの部下をここまで装備とともに呼んでもらわねばなりません了承を得られるでしょうか」

「なんだ、君のようにヘリを用意しろというわけか?スパコンでも持ってくるのか?」

 副総理は口びりを片方歪めて喋る。

「いえ、我ら特殊電算小隊は万事に備えており自力で参ります。それと彼ら、」

 大敗した、専門家達を鷺野は顎で指す。

「と情報を共有したいのですが、よろしいでしょうか?」

「あぁ構わん、好きにしたまえ」

「了解、第505特殊電小隊、出動しかかります」

 "かかる"という自衛隊用語を最後に使ってやった。

 鷺野に頑張れとも、激励するような返事はなかった。

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