〇〇〇九九号室 「アパートの外」に出る日 後編 ――第二部完結

「世界の果てまで、行く気でやすか」

「うん。考えてみたらわたくし、まだ行ったことがないし」


 あっしは考えた。多少心配なのは確か。とはいえいつも通りのお嬢である限り、連れて行っても、特に問題はなさそうでやす。例の人格も出てこないだろうし。


「じゃあ……行ってみやすか」

「えへへ。ハイキングだよね、世界の果てまで」

「まあ……そうとも言えやすかね」


 エントランスの扉を背に、あっしらは歩き始めやした。ふたり無言で、ただただ砂利の音を立てながら。


 暗いので転びそうなもんでやす。でも楡の木荘の外は幸い、平らな地面ばかり。それに足元がぎりぎりわかるくらいの明るさなんで、つまづいたりはしないっすな。


 それより厳しいのは風。アパートの周囲は比較的弱いものの、離れれば離れるほど、なぜか強くなってきやす。十分も歩くともう、お嬢が長い髪を押さえながら、前かがみでなんとか歩けるくらいに強い。風がびゅうびゅう唸ってやす。


 その風がまた冷たい。いえ凍えるほどじゃあないんですがね。今春なのに、普通に冬風。基本、無臭なものの、かすかにいがらっぽい香りがしやす。


 そのとき、足元の大地が揺れやした。


「地震……」


 立ち止まって周囲を見回すお嬢の呟きが、かろうじて聞こえやす。そう大きな地震ではないものの、割と長く揺れてやすな、今日は。


 揺れも収まった頃、あっしはお嬢に呼びかけやした。


「お嬢ぉ」

「なあに、コボちゃん」


 あっしもお嬢も、風にかき消されないように、かなり大声になってやす。


「まだ行くんすか。地震もあったし、風もかなり強いっす。それにもう二十分も――」

「ならあと十分じゃない。『世界の果て』まで」

「そうっすが……」


 振り返って見ると、楡の木荘エントランスの照明が、か細い沼蛍のように小さく霞んでやす。あとはほぼ真っ暗闇の世界なわけで。しかもモンスターのごとく唸る、風切り音の中でやすから。


「なら行こうよ。ほら、地震だって収まったし」

「……へい」


 またしても黙ったまま、それこそ十分くらい歩いたんでやしょうな。心細いんで、実際よりは長く感じやしたが。足元を見つめながらなんとか進んでいたお嬢が、あっと声を上げやした。


「見て、コボちゃん」


 目を上げると、前方はるか遠くに、ぽつんと灯りが見えてやす。針の穴のように小さく、黄色の照明が浮かぶように。微かに輝いているのは、営繕妖精の骸でやんしょう。


 そう、あっしらが見ているのは、遠く、徒歩三十分程度の距離にある、楡の木荘、そのもので。


「楡の木荘……」

「ここが『世界の果て』なのね」

「初めてでやすな。ここまで来たのは」


 頷いたお嬢と共に、しばらく遠い灯りを眺めていやした。


 そうなんでやす。アパート外の大地は、古くから多くの冒険家や科学者によって何百回も確かめられ、地形や構造が明らかになってるんで。


 楡の木荘を取り巻く世界は、標準的なヒューマンで徒歩三十分ほどの円で閉じている。そこが「世界の果て」。果ての境界を超えると、反転させられて体がエントランスのほうを向く。


 ええもう、どちらの方向に向かっても同じ。学者の推論では、世界の果ては亜空間になっており、踏み越えると瞬間反転するとか。


 実際、ここで振り返って、闇の方角に向かい一歩進むと、また楡の木荘を向いている。この壁を突破できた店子はおりやせん。壁の外側にはなにもない、虚無の空間があるだけってのが、学会の多数意見。どういう経緯で空間がねじれこんな構造になったのかは、諸説あってわからないっす。


「はあ……。やっぱりダメか」


 深く息を吐くと、お嬢があっしに、なんとも言えない悲しげな笑顔を向けやした。


「いやそもそも、外の世界では一日たりと生きられないっすよ。毎日食事と飲み物をアパートから運搬するとかしない限り。それにこんな真っ暗闇で暮らしたいなんて奇特な店子さんが、いるわけありやせんし」

「楡の木荘に、みんな依存してるのね」

「依存というか、助けてもらってるって話じゃないすか」

「そうかもしれないけれど、それでいいのかなあって気が、ちょっとだけする」


 ふっと思いを切るように、お嬢が大きく伸びをしやした。途端に巻き毛が風に煽られて、大きく広がりやす。炎のように。


「そろそろ帰りやしょう。管理人室は春でやす」

「そうね。いつまでも立ってても、仕方ないし」

「へい。……今晩は特にあったかい飯にしやしょう。ちょっと体が冷えたんで」

「わあ素敵」


 外まわりの日は、面倒な仕事も報告もしないでいい決まりでやす。


「ふたりのんびりと、蜂蜜酒でも退治しやしょうや、お嬢」

「うん、いいわね……。うん。素敵」


 そのまま進みやす。帰路はなにしろ簡単。ただただ灯りを目指せばいいんで。どんどん照明が大きく見えてきて風も収まってくるから、心理的にもかなーりほっとしやす。いえこれ、アパートの外に出た全員が、ほぼそう感じるんで。


 エントランスホールへの亜空間通路は、実は各フロアに完備されてるんでやす。多分、非常時の避難用とかでやしょう。ただ普段は使用許可が、大家からなかなか下りない。


 しかも外にはなにもない上に、この雰囲気なわけで。


 なのでほとんどの店子さんは、まあせいぜい一生に一度、外を覗く程度なのが一般的。成人の儀式で外に出たりとか、卒業記念で覗いてみるとか。だいたいそんな感じっすね。それなら許可も出やすいわけで。


 それに楡の木荘は、家賃無料で賄い付き。だから働かなくとも、最低限の生存は保証されてるも同然なんで。そもそも外に出たいって意欲も湧かない構造っす。


 とはいえ病気に備えて貯金したいとか、うまいもんでも食って贅沢したい、社会や氏族の役に立ちたいとかで、多くの店子さんは、自主的に内部で仕事や商売をしてやすがね。


「ふう……」


 もうエントランスホールもかなり大きく見えてきた頃、お嬢が大きく深呼吸しやした。


「やっぱり気が滅入るけど、世界の果てまで行ってよかったわ」

「さいっすか」

「うん。わたくしたちは全員、この楡の木荘で生きるしかない」

「まあ……そうっすね」

「でも絶対、そうでない生き方だってあるはず」


 そうっすかね、そんな暮らし想像はつきやせんがと、あっしは返しやした。


「破滅的な災厄に世界が襲われたとき、太古の賢者が世界の片隅を封印し、みんなを受け入れた。地下に掘り進む形で『楡の木荘』を作り、自給自足のサイクルを回し始めた――。それが正史よね」

「へい。何千年か前からの言い伝えなんで、どこまで正しいかはわかりやせんが」

「賢者だって、わかっていたはず。いつかは楡の木荘を出る日を迎えると」

「あんまりそうは思えやせんが。……この荒廃し切った外界を見る限り」

「いえ、思ってたに違いない」


 お嬢は力強く言い切りやした。


「だってそうでしょ。そうじゃなかったら、エントランスホールなんか必要ないもん。出入りできる機能を持たせたわけだから、いつかは出入りするのよ」

「でも、出ても徒歩三十分の全世界ですぜ。店子さん全員が立って並ぶことすら不可能かと」

「あの封印ね。……あれだって、その時が来れば、解けるはず」


 あっしは黙っていやした。たしかに、そういう見方もあるとは思うので。


「この子達もそう」


 目前に横たわっている営繕妖精の骸を、お嬢は示しやした。


「その可能性があるからこそ、外をじっと見つめていたのよ。きっと、なにかの予兆を観察していたのかも」

「そう……かもしれやせんね」


 だが、それならなぜ、後継の妖精を手配しなかったのか。お嬢の説は、真実にかすりつつも、どこか大事なところで間違っている気がしやす。まあ……そこの指摘は避けやすが。あっしの使命のひとつは、お嬢の心の安定を維持すること。封印された過去を思い出しそうな「やばげな領域」での議論は、危険な気がしやしたので。


 営繕妖精のふたつの骸から、お嬢は、小さなカケラを拾いやした。捻じくれ曲がった、錆々の金属を。


「どうするんで」

「管理人室の、あのおだやかなお庭に、置いてあげるの。哀れな妖精が、せめても、幸せな世界の夢を見られるように」

「いいことでやすな」


 あっしとお嬢は、壊れかけの扉を軋ませて、〇〇〇九九号室に、また入りやした。さすがに風も感じず、ねっとりした濃密な安心感の満ちている室内に。


「さっ戻ろう。コボちゃん。戻って、おいしいものを食べなくちゃ」

「いいことでやす」

「そうよ」


 屈託のない笑みを、お嬢が浮かべやした。


「食べて寝て、働いて遊んで生きる。……それがわたくしたち人間の生き様だもん。わたくし管理人とはいえ、そこは店子さんと同じだし」


 あっしは笑いそうになったっす。


「いえお嬢。お嬢はエルフだし、あっしはコボルドで」

「人間でしょ」

「まあ……人型種族なのは確かではあるっすね」

「わたくしたち全部、人間だもん」

「はあ……」


 妙に言い張るお嬢の姿に、イェルプフ王女の影を見た気がしやした。「世界の外側」をただひとり目にし、大家に過去を封じられた王女の。


「まあいいや。飯んときは、あっしが泥棒時代の、とっておきの話をしてあげやす」

「それ、盗んだお宝を、恋人に持ち逃げされた話でしょ。それならもう何度も――」

「違うっす。お嬢にはまだ話していない奴。あっしと仲間がサイクロプスの要塞から、ドラゴンのゴブレットを盗み出したって奴。いやもうとっつかまって、あやうくまるごと串焼きにされそうになったんっすから」

「わあ面白そう。ねっ、早く帰りましょ。楡の木荘に」

「そうっす。お嬢も言うように、あっしらは楡の木荘で生きるしかない、しがない身の上っすからね」

「なら蜂蜜ソースの料理も作っちゃおうか。この際、貯蔵庫のごちそう、いーっぱい使っちゃって」

「さいっすな。大家にはネズミに齧られたとか嘘ついて、また大量に配給してもらいやしょう」

「そうよね。そのくらいの役得がないとね、管理人には」


 お嬢が無邪気に微笑んで、珍しく、あっしの手を握ってくれやした。暗い灯りに、瞳が力強く輝いて。さすが築数千年、数万室の迷宮アパート、「楡の木荘」を仕切る管理人でやす。


「そのくらいの役得がないと、やってられませんからね。あっしも、イェルプフおうじ……おじょうも」

「うふふふ」


 手をつないだまま、あっしとお嬢は、亜空間扉を開きやした。アパートの中枢、管理人室に戻るために。






(第二部 完結)


■第二部、読了ありがとうございました。

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