妖精蒐集家(ショートショート集)

連野純也

妖精蒐集家

 休日は、都合よく晴天になってくれた。

 夏の盛りは過ぎたはずなのに、まだきつい日差しが降り注いでいる。

 蝉の声が聞こえる中、ぼくたちは郊外に引っ越すために荷造りをしていた。首にタオルをひっかけて。

「あなた、これって何?」

 古いポスターの裏側を使って厳重に包まれたを、妻がどこからか見つけてきた。贈答用のお菓子の箱のようなサイズで、軽い。細いひもでぐるぐると縛ってある。封印されてでもいるかのように。

 ぼくはそれをしまい込んだことさえ忘れていた。

「――ああ、標本と採集キットだよ。知ってるかい? 注射器と、謎の液体が入った赤いビンと青いビンがあって」

「知らなかった。あなたにそんな趣味があったなんて」

「子供の頃の話さ。今の今まで、そんなものがあったことさえ忘れてた」

「やっぱり蝶? 男の子だから、カブトムシかクワガタかな? まさかゴキブリじゃないでしょうね」

 ぼくは笑った。

「確かに山ほどいたけれど、そんなの標本にしてたら問答無用で親に捨てられていたさ」

「じゃあ何なの?」

 口をとがらせてみせる妻。

「信じるかい? それには、妖精が入っているんだ。なんだよ」

 そう言って、ぼくはにまつわる話を始めた――。


             *          *


 冬に蝶を見た。

 その頃のぼくは小学五年生で、塾の帰りだった。まだ雪が消えたばかりの、首元に冷たい風があたる季節。

 ぶるりと震えがきて、ぼくはダウンジャケットのえりを一番上まで閉めた。

 歩道に並んでいる、花が落ちて葉っぱだけになった植木鉢たち。それらをかすめるように、は飛んでいた。

 目の端でとらえた、いかにも弱々しく舞う白い蝶――けれど、ぼくがよく見ようと視線を移した途端、ふつと消えてしまった。


「ああ、きみ。だめだだめだ。そんなやり方じゃあ、たちを追えないよ。まともに見ちゃあだめなんだ。目の<端>で見るとはなしに見なくちゃ」


 急に後ろから声をかけられて、ぼくはすごくびっくりした。

 そこにいたのは――かなり年上のおじさんだった。そして、とてもおかしな、テレビでしか見たことのないような格好をしていた。

 手品師が着ているような黒い服に――のちにタキシードだったとわかったけれど――蝶ネクタイ、片手に古い革のトランクを下げていた。トランクには何か英語みたいなシールがべたべたと貼られていて、それだけでも十分に奇妙だった。極めつきはぴんと針のようにとがった口ひげ。

「おじさん、だれ?」

「私は蒐集家しゅうしゅうかさ。彼女らの」

 彼は古いトランクを開けると中をごそごそ探して、小ぶりな虫取り網を取り出した。柄は伸び縮みする金属製で、網の目の細かさといい、駄菓子屋で売っているようなぼくたちがよく見るものとはまるで違っていた。

「彼女って何? 蒐集家って?」

「うん? きみもさっき見ただろう。だよ。彼女たちはこの世界の住人ではない。だからこそ敬意を払わねばならんのだ。わかるかね? 私は彼女たちの美に惹かれ、その美しさをとどめるために標本にして集めているんだよ」

「おじさんは妖精を捕まえて殺すの?」

 ちっちっ、と大げさに彼は指を振った。ひどく芝居じみた仕草だったけれど、彼には不思議と似合っていた。

「彼女らはこちら側の世界では長く生きられない。空気自体がそもそも違うのだろうな。できることなら私も飼いたいとは思うのだがね、せいぜい一時間で命を落としてしまう――残念だよ」

 彼は笑った。

「私は彼女たちを愛している。だから私は蒐集家なんだよ。彼女たちを見つけられる、というのは才能だ。誰にでもできることじゃあない。君にも素質があると私はにらんでいる。さあ、先ほどの妖精を探そうじゃないか」

 しばらくあたりを捜索したけれども、もうあの蝶――彼に言わせると妖精――は、どこにもいなかった。あれだけ弱っている様子だったのだから、素早く逃げられるはずはないのに。

「非常に残念だ――向こうの世界に戻ってしまったようだな。きみには素質と才能がありそうだから、特別にこれを見せてあげよう。あまり他人に言いふらさないようにしてくれよ」

 と言って彼はそれを取り出した。

 しっかりと作られた木の標本箱。つやのあるきれいな茶色に塗られていた。ガラスがはめられていて、その中には――羽を広げた妖精がいた。羽は山頂で見る透き通った空のような青。縁取るように金属的な光沢があり、とてもきれいだ。

 妖精は裸だった。長めの――彼女のサイズにしては――金髪が胸まで流れている。

 そして、乳房の間あたりをピンで止められていた。

 人形にしてはあまりにも精巧で、手や足の爪、乳首や恥部さえも――ぼくはひどく背徳的な気分に襲われた。けれども目を奪われずにはいられない、美術館で見る裸体の彫刻のような、独特の美しさがそれには確かにあった。

「気に入ったかね?」

「少し……残酷にみえる」

  ああ、と彼は首を振った。

「きみは博物館で剥製はくせいを見たことはないのかい? 恐竜の骨の展示は? あれは見方によっちゃ、大昔に死んだ骸骨を飾っているようなものだよ」

「それは屁理屈じゃないかなあ」

 普通、屁理屈をこねるのは子供の方だ。大の大人が大真面目に言いくるめようとするなんて、なんだかおかしいや。

「いや、だからだね、私が言いたいのは、ということだ。この場合は<美>だ。きみはこの妖精を美しいと思わないか?」

「――きれいだと思う」

 我が意を得たり、というようにうなずいて、彼は早口で囃し立てた。

「この標本と採集キットをきみにあげよう。虫めがねとピンセット、虫ピンはわかるね? 注意するべきなのはこの注射器と、二つの薬品だ」

 宝石のように鮮やかな液体、赤と青の二つの小さなビンを手に取ると、彼は説明をはじめた。

「順番を決して間違えないように。赤、青の順だ、忘れるな、赤、青だよ。まず赤い液をこのへん――に打つんだ。この薬は腐りやすい内臓をどろどろに溶かして外に出してしまう。中身を出し切ったら青を打つ。この青い液は水分と反応して固まる充填剤――接着剤の親戚みたいなものだ――……」

 話を聞いているうちに頭がぼうっとしてきて、ふと気がつくと彼はもういなかった。

 ぼくはしばらく、一人きりで立ちつくしていた。

 まるでが違う世界に帰ってしまったかのようだった。

 ぼくの手には、妖精の標本。そして怪しい採集キット。

 我に返ったぼくは誰かに見られないように、いそいでそれらをカバンの中に放り込んだ。


 彼とは二度と会えなかった。

 飛んでいる妖精を見たのさえ、その一度きりなんだから。


             *          *


「……とまあ、そんな話さ」

「中を開けてみてもいい?」

「もちろん」

 妻は面白がってひもをほどき始めた。中の標本を出してそれを見つめ――怪訝けげんな表情になる。

 まあそうなるだろうな、と予想はしていたけれど。

「ねえ、あなた……」

「どうかした?」


「これ、


 そう、確かに妖精の標本だった。絶対に。しかし翌朝見てみると、あの妖しい、触れただけで崩れてしまいそうな美しいは、何の変哲もない白い蝶に変じていた。

 どんなに落胆したことか。当時ずいぶん悩んだものだ。

 あの出来事自体が夢だったのなら、なぜ標本は存在する?

 それとも、に暗示をかけられて、ただの蝶を妖精のように思いこんでしまったのか?

 それとも、彼は見た目の通り手品師かなにかで、ぼくの知らないうちに妖精――その場合、精巧な作りものにちがいない――と蝶の標本をすり替えてしまったのだろうか?

 それとも、これはなのか?

 それとも、 ――。


「ああ、なぜこんなに厳重にしまってあるかわかった」

 妻の言葉に、過去に飛んでいたぼくは現実に戻ってきた。

「あの頃のあなた――ううん、あなたの一部を、大事に閉じこめたのね。戻しておくわ」


 ぼくはそれを聞いて嬉しかった。

「きみと結婚できて、ぼくは幸せだ」

 ぼくが言うと、妻はちょっと引いて答えた。

「なに急に、気持ち悪い」

「いや本当にね、そう思っているんだ。ちょっと休憩しよう。冷たい麦茶を持ってくるよ」


 蝉の声が、ツクツクボウシが、聞こえる。

 暑いけれども、秋が気配を殺して忍び寄ってきている。

 時は流れてゆく。ぼくは大人になり、妻と結婚して、ここにいる。子供はまだだが、二人くらいは欲しい。新しい家で元気に走り回るだろう。


 ――さようなら。

 思い出の中の彼に一礼した。ぼくは妖精蒐集家にはならなかった。

 ぼくには妖精を見る才能はなかった。

 平凡ではあるけれど、それでよかったのだ、と思う。


 ぼくは引っ越しの作業に戻るために、部屋を出た。






                    終

 

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