第一章「1936年 伯 林 ‐遠方より来たる‐」

 巨大な船の煙突からのびる煙が、鉛色の空へと吸い込まれてゆく。

 ドイツ客船シャルンホルスト号の甲板からその光景を眺めていた西は、身震いに襲われた。


 1936年、4月末。

 ベルリンオリンピックへ参加するため、他の日本人選手よりも一足早くドイツ・ブレーメン港へ降りたった西たち『日本帝国陸軍騎兵・馬術選手団』を出迎えたのは、真冬のような寒さであった。

 聞けば異常気象による寒波に見舞われ、今年の欧州各地は晩春とは思えぬほど気温が低いのだという。


 同行する部下らは寒さで赤らむ鼻をすすり、馬服を着せた参加馬の手綱を引いて粛々と船の桟橋を降りてゆく。

 それを地元住民の歓声が出迎えた。はるばるアジアより欧州へとやって来た人馬を一目見ようと押し寄せたドイツ人らの群れだ。


 しかし、どこか人影がまばらに思えるのは寒さのせいだけではあるまい。馬術の本場ヨーロッパからすれば、極東の島国である日本の人馬など取るに足らない存在と思われているのであろう。

 西はその評価が不当だとは思わない。だが、低評価に甘んじるつもりもない。


「何よりも結果だ。さすれば評価は後からついてくる」

 

 それこそが西の流儀だった。

 武者震いにも似た身の震えを覚えながら、西は寒さに首をすくませる。

 曲がりなりにも西は、四年前のロサンゼルス大会の馬術・障害飛越競技――『優勝国賞典プリ・デ・ナシオン』を愛馬ウラヌス号ともに制した金メダリストなのだ。

 欧米でも名の知れた一流の馬術家である西がこんな感傷にとらわれるのも、この寒さのせいに違いない。


「ひとまずベルリンに到着したら、真っ先に新しいコートを仕立てよう」


 洟をすすりながら下船する裏で、西はそんなことを考えていた。

 何事も一流でなければ気がすまないのが、西の性分である。

 帝国騎兵には、このような格言があった。


『一、服。二、顔。三、馬術』


 戦場では進軍ラッパと共に先陣をきり、式典では軍楽隊の演奏と共に行進する騎兵隊は、まさに陸軍の花形なのだ。

 かつては『騎兵の質を見れば、国王の器量が分かる』と言われた時代もあったほどだ。

 何よりも身だしなみに気を払うのは、騎兵にとっての責務といえた。


 なかでも西は生まれは華族、男爵家の当代なのである。よりいっそう外見を気にするのは当然だ。

 馬術に用いる乗馬靴や乗馬鞭はフランス・エルメス社製の特注品。身につける服も時計も、一流のブランド品ばかりを揃えている。

 さらには愛車のクライスラー、自家用ボートのウラヌスⅠ世・Ⅱ世号、西の周りにあるものは全てが一級品という自負がある。


 そんな西だから、コート一着といえどその場しのぎの安物を買って済ますなどといった発想はない。

 ベルリンに到着したら都市一番の洋服店を訪れ、欧州の社交界に出ても恥ずかしくない上等なコートを仕立てることに決めた。

 そして他の者が場末の店で安目のサマーコートを買ってゆくのを尻目に、西はただ独り、ベルリンまでの陸路を帝国騎兵の正装である軍服姿で耐え忍んだ。


 このやせ我慢が後から祟ったのか、あるいは長旅の心労が噴き出したのか。

 ベルリン入りを果たした数ヵ月後――よりにもよってオリンピック開会式当日の朝に西は夏風邪をこじらせ、開会式を欠席する羽目になってしまった。


     ***


 ベルリンの中心街から西へ20キロほどいった、エシュタールという村に選手村は造られていた。 

 

 オリンピック選手村オリンフェス・ドルフは、今大会のためにドイツが威信をかけて建設した施設のひとつである。オリンピックで本格的な選手滞在施設が用意されたのは、これが初めてのことだ。

 選手村には各国の選手宿舎のほか、世界中の料理を取り揃えたレストランや病院・サウナ・体育館・屋内プール、さらには選手たちの憩いのために小劇場や映画館まで用意されている。 

 

 日本選手宿舎の自室で療養する西のもとへ、意外な友人が訪れたのは、開会式より数日後のことだった。


 その前日から体調を崩していた西は、四十度近い高熱にうなされ、丸四日間も寝たきりで過ごしていた。五日目の朝にはいくぶん状態が落ち着いたものの、まだまだ体調万全とはいかない。

 馬術競技の開催日まであと十日。とにかく今は安静にして、一刻も早く体力を回復せねばならない。


 宿舎の窓から外を眺めると、近隣の町場から立ち昇る煙が見える。

 ドイツ人は昼近くになってからようやくかまどに火を入れる。あれらの煙の下では、今も多くの人々が賑やかな団欒を営んでるはずだ。


 まだ熱の残る頭でそんなことを考えていると、ふいに部屋のドアがノックされる。

 てっきり昼食を運んできた給仕係ハウスボーイだろうと思っていた西は、目の前に現れた二人に驚きを隠せなかった。


「久しぶりだね、バロン」


「ハロー、バロン・ニシ。ご機嫌いかが?」


 にこやかに微笑む恰幅の良い紳士はダグラス・フェアバンクス。隣には彼の妻であるメアリー・ピックフォードまでいる。

 彼らは共にアメリカの誇る映画俳優で、本国では名の知らぬ者がいないほどの有名人である。

 そんな二人がなぜここにいるのか、西には皆目検討もつかなかった。


「どうしたんだい、二人とも?」


「ベルリンオリンピックにバロン・ニシが出場すると聞いて、応援に駆けつけたら、君は病気だっていうじゃないか。心配になって様子を見に来たのさ」


 事も無げに言ってのけるダグラスに、西は思わず目頭が熱くなった。

 

 西が二人と知り合ったのは四年前、1932年のロサンゼルスオリンピックでのことである。

 愛馬ウラヌス号と共に最終日に行われる馬術・障害飛越競技に参戦した西は、人馬一体の堂々たる飛越で見事に金メダルを獲得した。


 快挙達成の報に駆けつけた日本人のマスコミ関係者はもちろん、地元ロサンゼルスの人々からも西は熱烈な賞賛を浴びて、後日開かれた祝賀会では市長から直々に金緣入りの名誉市民証を授与されるほどだった。


 その祝賀会にゲストとして招かれていたのがダグラス・メアリー夫妻である。その場で意気投合した彼らはすぐに親しい友人となり、西が日本へ帰国した後も交流が続いている。


「ありがとう。二人が来てくれて、こんなに心強いことはないよ」


「礼には及ばんさ、バロン。代わりに本番では豪快な騎乗で楽しませてくれよ」


 ダグラスのいう『バロン』とは英語で男爵位を意味する『Baron』のことだ。西が「自分は西洋貴族でいう男爵バロンだ」と自己紹介したのをアメリカの新聞社が記事にして以来、『バロン西』が通り名になっている。


「もちろんだとも、ダグラス。最高の飛越を披露するよ」


 ダグラス夫妻が遠路はるばる激励に駆けつけてくれたという事実は、異国の地で病に伏せる西にとって、これ以上ない励みであった。

 

 そもそも西という人間は、他者と会話するのが大好きなのだ。

 外交官として名をはせた父親の血筋か、生来の気質なのか、物怖じしない性格とコミュニケーション能力の高さで、誰とでも出会ってすぐ十年来の友人のように語り合えるのが西の特技であった。

 

 ここ数日は周りへ風邪をうつさぬよう、医者の他には日本人関係者はもちろん他国の選手とも会うのを避けていたので、すっかり人恋しい気持ちにとり憑つかれていた。

 だからダグラス夫妻の来訪に、西はこれ幸いと遠慮する二人を引きとめ、ついつい長話へ興じてしまう。


「ここに着くまでの船旅が、また大変だったんだ――」


 窓から望む民家の煙に、船の煙突からのびる煙の記憶を重ね合わせた西は、長旅の苦労話を二人に語って聞かせることにした。

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