冬青の里のものがたり

花踏 芽々

ゆで卵


 夏空の下、クコは影のない農道をとぼとぼと歩いていた。左右に広がる田んぼの青さが目に痛い。喚く蝉の声。立ちのぼる陽炎。風もなく、日差しのみが肌に触れるいやらしさ。

 そんな夏真っ盛りの中、クコは一人歩いていた。目の前をすいすいと横切っていくとんぼを見て、羨ましいと思ってしまうのも仕方がない。


「私も飛べたら楽なのに」


 大きな翼を夢想するようにして両手を広げてみるが、下げていた紙袋が腕に食い込み、痛さで正気に戻る。紙袋には貰い物のじゃがいもが詰まっているため、なかなかの重量だった。非力な女の子になんてお使いを頼むんだあの人は、とクコは心の中で毒づいた。

 すうと大きく息をすれば、蒸した空気ばかりが体に入り、不快感が増していく。せめて風があればなあ。


 家まであと少しだ。自分の黒い影を踏みしめて、残りの帰路を辿っていく。

 家路の最後の難関は家の前まで続く上り坂。その威圧感に心折られそうになりながらも、クコはえっちらおっちらと坂を登るのだった。


「日差しが、重い……。湿気が、苦しい……」


 息も絶え絶えに登りきった坂の上。真昼の日差しを受け、ぎらぎらと照り返す屋根瓦がいっそう暑さを強調する。クコは首を伝う汗を拭い、やっと帰りついたと安堵した。玄関先に佇む百日紅が、真っ赤な花をつけた枝をゆらゆらと揺らし、炎天下の中出掛けたクコを労っていた。が、そんなことには気が付かず、クコは真っ直ぐ玄関へと向かった。


「深見さーん。帰りましたー」

「おかえりー」


 奥から声が聞こえる。クコは「まだやってる」と小さく呟き、サンダルを脱いで家の中へと上がった。

 台所では割烹着姿の深見が卵を茹でていた。髪を束ねて三角巾までちゃんと被り、夢中で鍋を見つめる男の姿は少々異様である。

 クコは訝しげな顔をしてそれを見る。

 朝目を覚ました時から、ずっとこうなのだ。顔を洗ってきても、朝食を食べていても、お使いから帰ってきても。深見はずっと卵の相手をしている。

 片手鍋の中の卵たちを箸でくるくると回し、時折タイマーを確認する深見の顔は楽しげで、まだかまだかという期待が、こちらにまで伝わってはくるのだが。

 クコは貰ってきたじゃがいもを片付け、深見の隣に立った。


「また失敗しますよ」

「それはどうかな。今回はうまく行きそうなんだ」


 台所の中央にあるテーブルの上に積まれている失敗作の卵たちを一瞥し、クコは深見に向かって言う。


「何回も言ってますよ、それ」

「前よりも出来がいい気がするんだ。ちょっぴりね」


 深見は、三角巾で抑えきれずに落ちてくる前髪を片手で払い、にこにこと笑顔で答えた。

 諦めの悪い──いや、研究熱心な深見を怪訝そうに見やると、クコはこの元凶であるレシピ本を手に取って眺め始めた。


 それは深見が朝方、家の近くを通った行商人から買ったものだった。スーパーもコンビニもないこの村には、さまざまな行商人が訪れる。販売する商品の種類は多岐にわたり、季節ごとに違ったものを売り出したりしているので、便利で面白いといえばそうなのだが、たまに、いや、そこそこの頻度で、ヘンテコなものを取り扱っている行商人が訪れる。それらの行商人から深見は好んでものを買うのだ。今回のレシピ本もそれで、表紙にはカラフルなフォントで『自家製コロンブスクッキング 奇跡の自立式卵!!』と書かれていて、見るからに怪しさ満点だった。

 胡散臭いより先に、そんなもの作ってどうすんだ、と世の凡人は思うだろうが深見は違う。そんなものを作れるのか、やってみよう。となるのがこの男の怖いところだ。

 深見は売り子からレシピ本を買い、早速その、自家製コロンブスとやらに挑戦してみた。が、上手くいかず。うーんと頭を捻ってレシピを再読するとやり方が間違っていたり必要な手順を省いていたり。と、普段から料理をほとんどしない深見は、そんなことをこれまで何回も何回も繰り返し、今に至っている。

 冷蔵庫の中の卵を使い切ると近所の人から卵を頂き、それでも足りなければ近くの養鶏場から購入し。結果、一日では到底食べきれない量のゆで卵が完成したのだった。


 そしてついに。


「お、これは」

「え!成功ですか!?」

「たぶ、ん……?」


 何度目の正直かも分からない中、深見はようやく自立式卵を誕生させることに成功したのだった。

 ゆで卵四つを流水にさらすと、ひとりでにヒビが入っていき、卵のとんがり──上半分の殻がつるりと剥け、卵の底の部分からは大豆ほどの大きさの足がぴょこんと飛び出したのである。


「うわ、足が生えてる……」

「可愛らしいね」

「えーそうですか?」


 自立式卵たちはわたわたと足をばたつかせて、器用に水中で泳ぎ始める。そうして鍋の中は狭いとでも言うようにふちに沿ってくるくると回り出した。クコと深見は顔を見合わせる。家の中で走り回られたら困るので、とりあえず庭に持っていくことにした。


 鍋を庭の真ん中に置き、二人は縁側から様子を見ていた。すると自立式卵たちは自力で水中から脱出し、身を振るって水気を落とし始めた。

 深見はこほんと一つ咳払いをすると、まるで魔術書のようにレシピ本を片手に持ち、最後のページに書かれていた号令をかけた。

 すると自立式卵たちは横一列に整列をする。クコは感心した様子でそれを見ていた。深見は満足そうな顔をして、続けて指示を出す。その場で回らせてみたり、ジャンプをさせてみたり、積み重ねて卵の塔を作ってみたりとしばらく遊んでいた。直射日光がどかどか注ぐ、サウナの如く蒸し暑い中で。


「んん、なんか臭いませんか?」

「そう?」

「これって卵から……ひっ!ふふふ深見さん!なんか膨らんでませんか!!?」

「お?」


 先程まで元気に命令に応えていた自立式卵のひとつが、じわじわと膨れ膨れ、震えて、


 パァァンッ!!!


 破裂音。クコは目をまん丸にして固まった。卵が破裂したのだ。卵の上部が張り裂けて、黄身と白身が四方に飛び散る。一方下半身はぴくりとも動かずに転がっていた。漂う臭気に耐えきれず、両手で鼻を覆うクコ。

 深見は庭に下り、転がる下半身をつついた。紫色に変色した黄身がぽろりとこぼれる。



「わ、わ、腐ってる……!!!!」

「ありゃあ。そうかー、夏だもんなぁ。時期が悪かったか」


 なんて、言っているうちにもふるふると振動し始める卵たち。のん気な深見は特に気にしていない様子だが、クコは違う。はっとした顔をしたかと思うと、震える卵を掴み、外置きのブリキのバケツに放り込んでいった。


「深見さん!突っ立ってないで手伝ってください!はやく!!また爆発したら、掃除が大変に……!」

「せっかく成功したのになー。自立式卵は冬向きなのか……なるほどなぁ」

「深見さあーーん!!!」


 クコの頑張りのおかげで自立式卵の回収は間に合ったが、爆発時に振りまかれる臭気はどうにもならず、しばしの間卵の腐った臭いが庭を覆うことになったのだった。

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