第三話 夕焼けセラピー

 本日最後のクライエントを送りだし、深緑色の扉に『CLAUSE』のプレートを掛けた矢先。閉じたばかりの扉がけたたましく連打されたかと思うと、ショートカットの小さなお嬢さんが駆けこんで来られました。


雪ノ下ゆきのした先生! 助けてっ!」


「おや。こんばんは。つぼみさん」


 彼女は、津雲つくもつぼみさん。わたくしのセラーピールームを毎月通ってこられる希有な小学五年生です。今夜は真紅のジャージがよくお似合いですが、サンドバッグのような黒のリュックには何が入っているのでしょうか。


「どうされました? こんな時刻に」


「それどころじゃないの! 急いで、ついてきて!」


「それはまた、なぜ?」


「早くっ! 理由は走りながら話すからっ!」


「お言葉ですが、これからいささか用事がございますので」


「いいから、来いっ!」


 かくして粗暴な少女に袖をつかまれて夜の都心をひた走るはめになりましたが。

 たしか以前にも同じようなことがありましたね。あのときはカピバラの群れから逃げたんでしたっけ。


 申し遅れました。わたくし、雪ノ下ゆきのした ひそかと申します。

 六本木のテナントビルで『夕焼けセラピー』というセラピールームを営んでおりますが、若干異界寄りに位置する関係で、クライエントの大半はあちらの方です。

 つい先程までカウンセリングルームでおはなしを伺っていた方も、通称「雨の日オバケ」と呼ばれる夜型の稀人まれびとでした。


 わたくしもどちらつかずの身でして、人の姿の折は和装を愛好しております。

 本日などは山鳩色の白鷹紬しらたかつむぎ単衣ひとえ利休白茶りきゅうしらちゃの博多織の角帯と煎茶色の薄羽織を合わせております。ひとつもお分かりになりませんか。いえ、どうぞお気遣いなく。


「すばピョンが、一人でお墓に入っちゃったのよ!」


 南青山の繁華街を駆け抜けながら、つぼみさんが叫びます。


「ええと。どなたか亡くなられたのですか?」


「死んでないよっ! お墓って墓地だよ!」


「なにひとつ分かりませんが」


「だからあ! テコンドー大会の打ち上げの流れでカラオケに寄ったら、すばピョンがいたから、追っかけたら、別の扉から入っちゃったの!」


「ええと。この謎はどこから解きほぐしたら良いものでしょうか」


「テコンドーは幼稚園からやってるの」


「そこはくとしましょう。まず、すばピョンとは、どのような生き物ですか?」


「うちのお兄ちゃんよ。中二の」


「なるほど。それで、なぜ追いかけたのですか?」


「そりゃ、逃げたからよ」


「ううむ。そうでしたか」


 おそらく、この少女は狩猟民族の末裔まつえいです。

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