第1話

9月22日、ぼくが下校途中に塩田と川縁を歩いていると、ちょうど塩田の住んでいる南黒町団地の辺りの上空がやけに黒々とした雨雲に覆われているように見えた。ぼくは塩田にそのことを言おうとしたが、ふと思いなおして口から漏れかけたその言葉を慌てて飲み込んだ。


その日の朝インターネットで確認した天気は快晴だったが、実際には一日中、空一面にどんよりと波打つ雲が広がっていた。そのモノクロ映画に出てくる暗い海原のような空の中でも一際、団地の上の空だけがまるでフィルムに開いた穴みたいに真っ黒く見えていた。


学校を出てから一切言葉を発さず、俯き加減で肩を落として歩く塩田の姿は、ホラー映画に出てくる生きた死体のそれと何ら変わらなく思えた。


「木下ゆうかの動画な、」


「うん。」


「おれは嫌いじゃなかったよって佐々木に言ったらさ、なんか不満そうな顔してたよ。」


「ははは・・・、そっか、すごくいいねって、言ってほしかったんじゃないの、あいつ恋してるからな、木下ゆうかに。」


「マジで!?あいつバカじゃないの!」


ぼくが大声を上げて笑うと、塩田が今日はじめて少しだけ笑顔をのぞかせた。しかしその直後に塩田の視線は自分の住んでいる団地の上の空に釘付けになっていて、そこに開かれている大きな暗黒の口に、その笑顔は吸い込まれていってしまった。


9月23日の午後、祖父の自宅兼鍼灸院に塩田と塩田の母親がやって来た。話の流れでぼくもその場に同席することになった。事件の直前にもぼくは塩田の母親と顔を合わせていたが、その日の彼女はまるで別人みたいに見えた。塩田の話によればあの日から彼女はほとんどまともに食事を摂っていないということだった。しかしその姿は単なる心労や食事云々の影響というよりは、何か異質なものが彼女の身体の中に取り憑いてでもいるような印象を受けた。


「お話は孫から伺いました。厄介なことが起きているそうですな。」


「はい、お忙しいところ申し訳ありません。」


「いやいや、近頃本業の方は大して忙しい日なんてないんですよ、はははは、お気になさらずに。それで早速なんですがね、はじめに少々確かめておきたいことがあるんです。お母様が亡くなられた後にですね、なにかそれに関連して、ご自宅あるいはその周辺で特別な儀式のようなことはなさいませんでしたか?」


「葬儀ということでしょうか?」


「いやいや、失敬、そうではなく、お宅は何か特別な信仰をお持ちですかということなんですが。」


「うちは仏教で、一応は曹洞宗だそうですが、とは言っても私自身がちゃんと信仰しているわけではないんで・・・。だから通夜と葬儀は普通にやりましたけど。」


「では、それ以外は?」


「それ以外と言いますと?」


「不躾なことを言うかもしれませんが、例えばあなたや、あるいはご亭主が何か仏教以外の特殊な信仰を隠し持っていて、今回のお母様の死に際して、その信仰に基づいて何か特別な行為をされたかどうかということですな。他人には言いづらいことかもしれませんが、もしそういったことがあれば、正直におっしゃっていただきたい。」


祖父はそう言って、一瞬だけぼくの顔に横目を流した。


「いえ・・・、私は特にそういうことはないし、主人もたぶんそんな信仰は持っていないと思いますけれど。」


「そうですか、わかりました。」


祖父はしばらく黙り込み、両掌を拝むように合わせて顎に引っ付け、視線だけを天井に向けて何かを考えているようだった。


「塩田くん、ちょっと聞いてもいいかな。」


「あっ、はい。」


「きみ、お祖母様の死後に、何か遊び半分で降霊術のようなことをしなかったかな?」


「コウレイジュツ、っていうのは・・・?」


「ああ、例えばコックリさんとか、カタブキ様とかね、そういうの知ってるかな。」


「あ、えっと、コックリさんは、コックリさんは名前は知っていますけど、そんなのやったことは・・・、」


塩田が目を見開いて言葉を止めた。


「母ちゃん・・・、佳子が。」


「佳子が何?」


「婆ちゃんが死んだ後、佳子がうちで友だちとコックリさんみたいなことやってたのおれ見たよ・・・。あの日だよ、地震があって家がすごい揺れてさ、おれ隣の部屋にいて、ずっと声が聞こえてて・・・。あれコックリさんじゃないかな、たぶん。」


「それ、もうちょっと詳しく話してくれるかな。」


「はい、えっと、妹が友だち二人と、なんだか紙に数字とか文字とか書いたものを使って何かしてたんです。コックリさんとは言ってなかったけど、なんか変な呪文みたいなのを三人で一緒に歌ってて、しばらくしてやけに大きな笑い声とか、たまに「キャー!」っていうふざけたような叫び声とかも聞こえて、でも時々、男の声みたいな笑い声も混じってて、三人以外にも男の友だちがいて変なことでもしてるのかと思って、おれちょっと部屋を覗きにいったんだけど、いるのは女子三人だけで・・・。」


「妹さんがその時に言っていたことで、何か具体的な言葉は聞こえなかったかな、例えばお祖母様の名前を言っていたとか。」


「いや、ちょっとそれはわからないです・・・。」


「そうか、じゃあその時、声以外で何かおかしなことは起こらなかったかな?」


「おかしなこと・・・ですか。おかしいかどうかわからないけど、ちょうどあの大きな地震があった日で、妹たちがそれをやってる時に、ちょうど揺れたんです。でも揺れる前になんか爆発音みたいな音がして窓がバリバリ鳴ったんで、ビビったのは覚えてます。」


「えっ、それいつの話、地震なんかこのごろあったっけ?」


塩田の母親が話に割って入った。確かにここしばらく、この地域で地震が発生したことなどなかったとぼくも思ったが、その場ではそのことを口にはしなかった。そして後から調べてわかったことだが、塩田が地震があったと言っていた日には、やはり地震など起きてはいなかった。


「地震ねえ、地震かあ。」


「あとは、そうだ、あの日の夕方、母ちゃんも帰ってきてたから知ってると思うけど、妹の具合が悪くなって、気持ちが悪いって言い出して、トイレにこもってずっと吐いてるような声がしてました。」


「ああ、あの日かあ・・・。おかしなことって言えば、娘があの日の夜中に何だか夢遊病みたいにして私の寝てるところに来ましてね、わけのわからないことを口にしたってことがありまして・・・。」


「わけのわからないことを?」


「私には一体何を言ってるのかさっぱりわかりませんでした。日本語じゃないっていうか、聞いたことのない外国語みたいなことをずっとひとりで喋ってて。目は瞑ってるんですけど、時々まぶたを震わせながら目を開けると白目になってて。私ちょっと怖くなっちゃって、でもそういう時に話しかけると本人の体に悪い影響があるとか言うじゃありませんか。だからしばらく黙って聞いてたんですけど、途中で主人も起きちゃって、結局主人が娘を部屋に連れて行って寝かしつけてましたけど。」


その後、それぞれに下を向いたり上を向いたりして短い沈黙の時間が流れたが、その沈黙を払い去るようにして祖父が両手をピシャリと打ち鳴らした。


「さてと、本題というか、ちょっと一歩踏み込んだ話をさせていただきましょうかね。塩田さん、あなたは事件の日に、死んだはずのお母様の姿をはっきり目撃したと。その時お母様は人の首に噛み付いていて、そして体が異常に大きくなっていたということでしたね。」


「はい・・・、自分でもいまだに信じられませんが・・・、あれは確かに母だったと思います。」


「うん、まずそこですがね、それはね、死んでいる死んでいないは別にして、お母様ではないと思いますよ、たぶんだけれど。ちょっとまず前提の話をしますが、今見えているこの肉体っていうのはね、ちょっと複雑な構造の容れ物に過ぎないんです。そして私たちのほとんどは、この世界ではね、その容器の中に本体が入っていて、それが生きている状態だと言われている。本体ってのは、簡単に言えばまあ魂とか、あるいは霊体とか言われている、あれですよ。で、なんでそんな容器に入っているのかと言えば、ある存在に強制的に入れられているらしいです。ただこの容器の姿形は中身に、つまり本体に影響を受けてそれぞれ違ったものに変化を遂げるので、見た目もその人固有のものとなるんですよ。」


「はあ・・・、なるほど・・・。」


「はっはっはっ、普通の話ではないですな。まあ支障がない程度に余計な話はなるべく飛ばしましょうかね、出来る限り。でね、結論から言えば、あなたが見たのは、お母様の姿とそっくりの形の容器に入っている別の何かです。じゃあ何が入っているのかという話になるけれども、これも簡単に言ってしまえば、人間の上に位置する霊体です。上というのは支配者層とでも言うべきものですな。そして私たちから見れば、私たちの概念からすれば、それは圧倒的に邪悪な霊体とも言えるかもしれません。その中には、昔から神とか悪魔とか言われて恐れ崇められてきたような存在も含まれています。もっとも、人間が認識できている神とか悪魔とか言われるレベルのものは、そういった支配者層の中でも下層にいる者たちです。言わば下っ端ですよ。ただ現実にそういうものがいて、この世界はその存在の影響下にある、支配下にあると言ってもいいと思う。そしてもっと単刀直入に言えば、最終的なことで言えばだけれど、私たちの存在というのは、支配者層が食べるために育てている単なる食糧なんですよ。」


塩田は石のように固まって祖父の話に聞き入っていた。けれどぼくには、祖父の言っていることのほとんどを、すんなりと鵜呑みにすることは出来なかった。


「ただね、そういったことを含めたより大きな世界にもルールが存在するんです。だから現状では、今回のようなことが目に見えて無闇矢鱈と起きているわけではないんですよ。支配者層側でもある程度の統制が取られているし、昨今に関して言えば直接的に、人間が感知できるレベルで関与してくるケースは少ないはずです。そして実は、こちら側、人間側にもそれに対するレジスタンス的な勢力が存在しているんです。と同時にやはり、支配者層の存在を知りつつも、それを崇拝する人間も少なからず存在する。とまあ、概略としてはね、やれやれという、まったく厄介な話ですよ。」


塩田と塩田の母親は、祖父を見つめたまましばらく黙り込んでいた。


「爺ちゃん、あのさあ・・・、その話が本当だとしてもさ、まあおれはあんまりそういうの信じられないけど、えっと、でも本当だとしてね、どうでもいい話かもしれないけど、なんで塩田のお婆ちゃんの偽物は、体がデカくなってるんだよ・・・?それってさ、偽物だってバレバレじゃん。」


「うん、そうだな、バレバレだな。まずなんでデカいのかって言えばな、中身のやつの容量がデカいからだよ、あるいは状況によって容量が変化するからだと思うよ、時間とか光にも影響されるらしいし、食糧を摂取している場合には、どんどん大きくなっていくらしいから。塩田さんが見たものは、中身も違うけれど、もちろん容器も違うんだよ。私たちが入っている容器と見た目は同じだけれど、その容器は言ってみれば特注みたいなもので、中身によって大きさが変化するようになっている。容量対応だけじゃなくて、人間の恐怖を煽るための機能として、大きさも含めてある程度の変形が可能だって、爺ちゃんは聞いたけどな。」


「えっ、誰に聞いたんだよ・・・?ってかさあ、それマジの話なの?」


「はっはっはっ、誰に聞いたかっていうのは、また今度な。それになあ、これは真面目にマジな話だよ。昔から小人とか巨人とかいう話があるだろ。それに、爺ちゃんこの前テレビで誰かが話してるの観たけど、“小さいおじさん”ってやつさ、あれも容器依存の話だろ。」


塩田が「小さいおじさん!」とやけに大きな反応を見せて声を上げた。


「まあそれよりも、前置きはこれくらいにして、今回のその塩田さんのお母様の姿をしているやつを、どうしたもんかってことだな。当然このまま放置するわけにもいかないし。」


「あの・・・、この今の話、私もどう信じていいか、さっぱりわからないんですが・・・、どうにか出来るんでしょうか?」


「そうですねえ、このくらいになってくると私一人ではちょっと対応が難しいのでね、そうだ、私の知り合いで専門の狩人をやってる人間がいますので、ちょっと連絡してみましょうかね。」


その日の夜、夕食を終えたぼくが再びYouTubeで木下ゆうかの動画を観ていると、Facebookのメッセンジャーに塩田からメッセージが送られてきた。


- 今大丈夫?


- うん木下ゆうか観てるだけだから大丈夫だよ。


- また観てんのかよ!


- なんか観てると癖になるんだよな、この動画。それよりどうだったの、今日の話し合いは、あれでよかった?


- ってか、お前の爺ちゃん何者だよ・・・?ただの占い師じゃねえだろ。


- だから占い師じゃねえし、鍼灸師だよ。


- いやいやいや、鍼灸師はあんなこと言わねえだろ、なんかすげえな。だって狩人に連絡するって言ってたぜ、あれホント?マジなの???妄想とかじゃないの?


- 人を襲う身長四メートルの死んだ婆ちゃんって話だって相当おかしいだろ。それにお前帰った後、すぐ電話してたぜ、狩人って人に。おれもあんな話はじめて聞いたし、ちょっと「はっ?」って思ったし、ぶっちゃけ信じられてないけどさ、爺ちゃん真面目だし嘘つきじゃないし、歳の割にまだ頭もすげえはっきりしてるから、たぶんマジなんだろうな。


- マジか・・・。


- あっ、そうだ、爺ちゃんお前のお母さんにもあの後電話したかな?


- いや、わかんないけど。


- 妹のこと、たぶん妹がやってたコックリさんの最中に婆ちゃんのことを何か聞いたんじゃないかって。お前の妹、たぶん特殊能力があるはずだって言ってた。で、その影響で、人を襲ってるやつのヴィジュアルがお前の婆ちゃんになってるはずだから、気を付けたほうがいいって。


- えっ・・・、気を付けるってどうするんだよ!?


- わかんないけど、明日爺ちゃんが直接お前の家になんか持ってくって言ってたから、その時にでも言うんじゃないかな。


- そっか・・・、わかった。まあじゃあ、今日はありがとう。母ちゃんもよろしくお願いしますって言っといてくれってさ。じゃあ、またな。


- うん、またな。

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