第87話 出て行け、渚沙 1

 三月十二日以降、渚沙には幾つもの面会や出版関係の打ち合わせの予定が入っていたが、震災のお蔭ですべてキャンセルになってしまった。


 十二日の夜、入院中の安江からメールが来た。三月十三日の日曜日、シャンタム・ボランティアセンターで震災のための奉仕活動が行われるという知らせだ。安江はボランティア好きなので、自分が参加できないけれど渚沙にしっかり勧めてきたのだ。安江らしい。

 ナータ関係の団体は日本にはないから、参加させてもらいたいと渚沙は思った。様々な日本人の問題を目の当たりにしてきたために日本にトラタ共和国の聖者の組織を作ることは憚られたし、渚沙が設立を試みたことはなかったのだ。


 翌日の日曜日、渚沙はちょっと出掛けるといって雪子のマンションを出て電車に乗った。センターの奉仕に参加するためだ。どっちみち日曜日は、晴臣が家にいるので渚沙が外出しなくてはならない日である。こんな災害時なので、家にいても許されたとは思うけれど。


 電車に乗って五分もしないうちに雪子からメールが来た。

「今の状態だと、余震で大地震が起こってまた私が帰宅できなくなるかもしれない。悪いけれど、晴臣と二人きりにさせるわけにはいかないからどこか別の場所に宿泊先を見つけて欲しいの」


 渚沙は、夫婦間の愛情がなくても、家庭崩壊を望まない雪子の気持ちが理解できた。泥棒を危惧する晴臣が、余震で揺れるマンションにいることを嫌がる渚沙のことを疎ましく思って、雪子に滞在を断るように頼んだのかもしれない。両者の意見が一致したというところか。

 渚沙は、地震にはえらく怯えていたが、日本での秘書時代とトラタ共和国で長年鍛えられ、多種の性格の人々と接してきたために他人の態度の変化くらいでは心が動じない。それまで親切だった友人のいささか冷たい対応が渚沙にショックを与えたり、傷つけたりすることはなかった。この流れが自然であり、予め決められていたことのように感じてさえいた。


 渚沙は即座に心を入れ替えた。東京のシャンタム・ボランティアセンターでは宿泊できると聞いたことがあったので、着いたら尋ねてみればいい。


 電車と歩きで目的地まで移動しているうちに、右膝の痛みがどんどん増して、あっという間に歩行困難になった。こんな状態で被災地に行ったら自分自身がお荷物になり、助けを必要とする立場になるのは間違いない。もとより、一般の奉仕団体はしばらく現地入りを許されていない。けれど、何かしらの形で奉仕は出来るはずだ。


 シャンタムのボランティアセンターに到着すると、宿泊先を探していることを一人のスタッフに相談してから、奉仕の会議に出席した。ほとんど知らない人ばかりだが前方に懐かしい顔を見つけた。自宅の地下と一階をボランティアセンターとして提供している、トラタ共和国生まれのアディだ。渚沙はしばらくセンターに顔を出していなかったし、人も多いのでアディは渚沙に気づかない。


 薄かった頭が今ではすっかり禿げてしまい、アディは随分老けて見える。話によると、アディは十以上も年が若い日本人女性と再婚して子供がいるという。

 渚沙はその女性を知っていた。昔、ナータを知る前のことだ。シャンタムの七十回目の誕生祭に行った時に彼女に会っていた。夜遅くまで渚沙とボランティア作業を一緒にしていた青年と二人で、アディに呼ばれて夜ご飯をご馳走になったのだが、そこで彼女はアディの秘書のように立ち働いていた。彼女は学生のようにしか見えなかったし、当時は男女関係ではなかったと思う。


 すでに自国の女性と一度離婚し、神一筋の道を歩んでいたアディは、シャンタムからこういわれたそうだ。

「彼女と結婚すれば、お前はまた生まれ変わらなくてはならないが、それでもかまわないなら結婚するといい」

 シャンタムはアディの再婚には少しも反対せず、ただ選択肢を示した。トラタ共和国では、神に集中すればするほど、死後、魂は神と融合しやすく、輪廻を繰り返す必要がなくなると聖者たちも聖典も教えているのだ。目に見えるものは幻影。真実は神のみ。アディは幻影の世界の誘惑に負けてしまい、彼女と結婚したと安江から聞いた。

 人の自由だからいいけれど、渚沙は勿体無いなと思った。神との融合を約束される人は少ない。今後の世の中で生きるのはそんなに楽ではないだろう。ナータは「これから世の中はどんどん悪くなる」っていってたし……。


 さて、シャンタムのボランティアセンターでは阪神大震災の時の経験から、災害のボランティア活動に慣れているようだ。渚沙は医療物資の調達に協力できると申し出た。ちょうど上京する前に、トラタ共和国での奉仕活動に協力してくれるという、医療関係機関で働く上役の人と話をしたばかりだったのだ。

 少しすると、渚沙のほうを見て責任者のアディになにやら囁いている人がいる。よく知っている顔だ。昔、ナータを知る前に、ボランティアセンターに通っていた時に親しく言葉を交わしていた、渚沙より一回りくらい年上の男だ。いつも笑顔で柔和な人だったけれど、今はやけに鋭い視線を渚沙に向けてくる。

 宿泊について相談した人にも、誰にも自分の名前は告げていなかったのだが、なんと、渚沙がナータの寺院の関係者であることを彼は知っていたらしい。シャンタム・ボランティアセンターでそのことを渚沙から聞いていたのは入院している安江だけだ。安江はナータにいつか会いたいといっていたし、センターにはなかなかの狂信者が多いので、他の人に話したとは思えない。


 名前は出していないが、渚沙のSNSの写真を見たり、著者として顔写真のついたナータの本も出版していたりしたので知っていたのだろう。SNSのひとつに、ナータとシャンタムが同じ生き神であると記していたことが気に食わなかったようだ。生き神本人たちがそれぞれ認めているのに。


 しかし、アディにはそれが許せなかったらしい。

「みんなが二人の聖者で混乱するから」と普通の調子で口にしてから、「あなたの協力などいらない。出て行きなさい、出ていかないとを呼ぶ」と大声で告げた。 

 その場には、五十人くらいの人がいただろうか。他の人は状況を理解できず、唖然として様子を見守っている。渚沙が宿泊先を探しているということを知っていた人や検討してくれていた人は同情するかのように、心配そうな顔をしていた。

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