9th NUMBER『この愛を忘れないで』


 一日に数回換気するだけの窓に強めの風がびゅうと吹き付ける。すっかり乾いた冷たい空気。


 師走の頃。


 病床の上の僕は届いたばかりのふみに見入った。



 隔離状態になってから今までにも何度か届いていた。それは女性らしいしとやかな字面だ。恋敵でありながらも僕の身を案じてくれているらしい夏呼さんからのものだった。


 僕は自分の近況を当たり障りない文章に乗せて送り返していた。特に体調の優れないときは母に代筆してもらった。


 そして先日、僕の病が肺炎であると判明した。僕は病弱だ。そもそも免疫力に乏しい。予断を許さない状況に変わりはないけれど、あの不治の病とは違うことを出来るだけ早く彼女に伝えておこうと筆を取った。



 それに対して返ってきたのがこれだ。



 “帰ってきて下さい、春日様。出来るだけ早く”



 僕の全神経を根こそぎ奪ってしまうような言葉の数々が、ここに。



 “夏南汰様が貴方に逢いたいと仰っています”


 “貴方に心配をかけぬよう黙っておりましたが、幼子のように寂しがっては枕を濡らしているのです”


 “昨日も、その前も……私が知る限りでは毎晩です”


 “春日様。どうか早くお元気になって”



 “あの方のお傍に”




「嘘……でしょ」



 僕はしばらく瞬きを忘れていた。信じられなかった。あの日醜い獣と化した僕に、あんなにも滅茶苦茶にされた君が……君が、まだ僕に逢いたいと思ってくれているなんて。



――嫌じゃユキぃ! こんなの嫌じゃあ……!――



 何度となく脳内に響き続けた君の悲痛な叫びが



――ユキ……逢いに来て――



 柔らかく形を変えて、だけどまだ何処か切なげにして僕へ微笑む。そんな幻想が見えてしまって。



「どうして? 痛かったでしょう。怖かったでしょう、なのに……」


 ぎゅっとふみを抱き締めるようにして胸元へと寄せた。まだ痛む節々を震わせながら、僕は。


「君は……君という子は、どうして……っ」


 やはり嫌いになどなれない。そんなのはもう諦めざるを得ないんだと覚悟したんだ。




 そうは言っても衰弱した身体はなかなか本調子には戻れず、僕は結局、秋瀬にも夏呼さんにも逢えないまま実家で年を越した。


 この頃にはもう僕の気持ちもだいぶ落ち着いていた。相変わらず続けているふみによると出航は三月下旬まで延期になったそうだけど、そうか、秋瀬の意思はやはり変わらないのかと悟った。


(見送りに……行ってもいいのだろうか)


 閉ざされた空間ゆえなのか、僕は前向きと後ろ向きを何度も何度も繰り返す。秋瀬は僕を必要としてくれている。そんな彼をもう傷付けないようにしなきゃ……そう思ってはいても、いざ彼を目の前にしたらどうなるのだろうと恐れおののいた。


 君の心よりも何よりも、始末におけないのは己の方だともう知っているから。




 しかし僕はついに決意する。情けないことにそれは出航の当日になってしまった。


 ひとまずは向かってみた秋瀬の屋敷を前に、僕の心は再び揺れた。本当に情けなくて嫌になる。ところがそんなときに。



――春日様……!



 色とりどりの春の花が咲き乱れる庭から届いた。彼女の声だと気付いて僕は驚く。


「夏呼さん? どうして……」


「春日様、貴方こそどうしてここに。夏南汰様のお見送りにいらしたのではないのですか?」


 聞きたいことはどうやら共に同じらしい。僕からしてみたら彼女がここに留まっている理由だってわからない。秋瀬にとって最も近しい存在。それも今まで一度だって見送りを欠かさなかった彼女が何故、と。



 何故……



「…………っ」



 僕はそこで気付いてしまった。



 しばらく見ないうちに状況はここまで変わっていたのかと言葉を失った。無理もないと思う。だって……


「夏呼さん……」


 そのお腹。エプロンで隠しているつもりなんだろうけど僕にはわかるよ。あの頃からって考えれば納得もいく。



 ……秋瀬の子だね?



 不思議とそこで憎しみは沸いて来なかった。なんだか全身の力が抜けていくような感覚があっただけで、自分でも驚くくらいすんなりと受け入れられた。


 思えば僕が夏呼さんを憎んだことなんて無かったんだ。彼女に憎まれているのはひしひしと感じていたけれど、僕にそんな気は起きなかった。


 正々堂々なんてよく言うけれど、恋敵ってそういうのじゃないと思う。そんな綺麗じゃないと思う。抜け駆けなんて最初っから無いよ。奪った方が勝ちなんだから。



 何か感じ取ったのか、あえて正面をきって僕に向かい合う夏呼さん。膨らんだお腹を目立たせないようにする気丈な立ち姿。魅入る僕は思い出す。



 秋瀬を傷付けてしまったあの日、秋瀬を憎むと同時に僕は初めて心から彼女に同情した。恋のなんたるかもわかっていない男に抱かれるなんてあんまりだ。辛かっただろう。僕なら耐えられないよ、って。


 しかし彼女は僕と違う。何処までも強い。こんなに可愛らしい容姿なのに強い眼差しをして、ついには僕のぼんやりとした回想までをも打ち砕く。


「こんなことをしている場合ですか!」


 僕を怒鳴りつけたその瞬間に何かたがが外れたのか。開き直ったみたいに饒舌になっていく。そこに乗せられた信じがたい事実に僕は目をいっぱいに見開いた。



「そん、な」



 だって、信じられないよ。



 あの秋瀬が、僕を想って泣きながら自分を慰めていたなんて言うんだから。


 あの瑞々しい頰を染めながら僕の残した傷痕に爪を立て、寂しさを埋める為に華奢な肩を抱き、涙で濡れた手で敏感なところを探り当て。



 そんな光景想像するだけで、僕は、僕は……



「春日様、鼻血」


「えっ」



 ……そこは涙にしてよね、僕。



 こんなふうに、いくら美しい君の姿を思い浮かべても身体は呆気なく本能に支配される僕。夏呼さんの差し出してくれたハンケチーフに対して、すみまへんなどと言いながら鼻血を拭う無様な仕草。格好の悪い僕。


 それでも夏呼さんは何処か酔いしれた様子でこんなことを続けた。


「艶っぽいお声でしたわ。だけど本当にはしたないのは聞き耳を立てていた私。聞けば聞くほど辛くなるとわかっていたのに……」


「夏呼さん」


 本当に。この人の目には秋瀬のすることなら何もかも綺麗に映るんだなと少しばかり呆れた。何もかも許せるんだな、と。



 うっすらと涙を浮かべた彼女は自分自身を軽蔑するように顔を背けて笑う。薄汚いものを見るように自分の手元へ視線を落とし。


「私にはもう、勝ち目なんて」


 おもむろに懐から出したはさみで断ち切った。瑞々しい青い花がのひと束が僕の目の前へと差し出される。


「勿忘草……」


「届けて下さい。貴方の“真実の愛”」


 なんだかおかしい、こんなの。共に敗北を認めている恋敵同士だなんて。こんなのって……



「夏南汰様は、貴方を愛しています!」



――――!



 だけど確かに届いた。やっと届いた。



――ずっとずっと、繋がっとるけんのう!――



 無知で無防備な君の……切実な想い。



「…………っ、…………っ……」


 勿忘草の束を受け取った僕はもはや立っているのも精一杯だった。わかっていなかったのは僕の方だってよくわかったよ。あまりにも遅くなってしまったけれど。


「泣いている場合じゃないですよ、春日様」


「うん……ありがとう」


 そして心強い恋敵の言葉に微笑みで返す。しっかりと頷いて、これからどうするべきかをしっかりと考えた。



 僕の導き出した答えは、こうだ。



 出来ないよ、夏呼さん。やっぱり貴女とその子・・・から彼を奪うなんて出来ない。貴女たちが本当に愛し合ったのもまた事実だし、新しい命はこの世界への誕生を望んでいる。


 ちゃんと幸せな家族になってほしいって今は心から思える。だけどその前に。




「夏南汰……っ!」



 ザワ、と音を立てた春の息吹の方へと身を翻す。何処ぞから流れてきた桜吹雪の中へと僕は一目散に走り出す。青い花を握り締めて。


 どんなに期間を置いても色褪せはしなかった、愛しい真夏の響きを取り戻した僕にあと少しだけ時間を頂戴と。


 貴女の優しさに甘えることを許して。この想いを届けに行くことを許してほしいと願いながら。




 はぁ、はぁ、はぁ……



「ユキ……!」



 出発間近の船の前で、春の青空のもとで振り返った君が眩しい。


 辿り着いた港にて僕はひたすら息を切らすばかりだった。痛む肺から零れるそれはひゅうひゅうと乾いた音を立てるばかり。言葉を紡ぐこともままならない。君に届けたい一心でここまでやってきたというのに。



「ごめん、ごめん、ね……」


「ユキ。ああ、ユキ。もうええんじゃよ」



 それでも何か感じ取ってくれたのか、優しく僕の背中を撫でてくれる。勿忘草を花を受け取ったならなんとも不敵な笑みなんか浮かべて私も君も死なないと言ってのけた。


 やがて激しく咳き込んだ僕を周囲の人々が気味が悪そうに見つめた。


 あいつ結核じゃないのか?


 誰かがそう言ったなら途端に引き潮の如くざあっと遠のく。無理もない。そう思いながらその場に崩れた僕の元へ一度は離れた君が舞い戻った。


「その人は結核じゃないよ」


 優しい微笑みを浮かべながら僕の頰へ触れ



「動かないで、ユキ」


 そっと触れた。しっとりと包み込んだ。


――――っ。



 可愛らしい桜の花弁が僕の吐息を塞いだ。なんということだ。



 されるがままの僕だったけれど、気が付けばいじらしく縋り付く夏南汰の身体の何処かにそっと触れていて……


(あったかい。小さな陽だまりを抱き締めているみたい)


 唇と唇が甘く重なり合う。今度こそお互いが目覚めた状態で。待ち望んだこんな瞬間に喜びを感じると同時に切なさの化身が僕の頰を伝った。



 愛してる……愛してるよ、夏南汰。いつか君とこうなれたらいいなって思ってた。出逢ったあの日から十二年間。ずっと、ずっとだよ。


 でもね。


 僕らはもう、一緒になることは出来ないんだ。



 その様子だと気付いていないんだろうけど、君は父親になったんだよ。こんな子どもに子どもが育てられるのか心配だけど、親だって最初から親な訳じゃない。一緒に育っていけばいいさ。


 だから……ね、凄く嬉しいけれど、僕を選んではいけないんだ。



 どよめく周囲にもはばからず君の髪を撫でた、その手が震える。そして実に滑稽なことを思った。



 ねぇ、夏南汰。僕ら恋人にはなれないけれど、この旅から戻ったら、友達でもいいから……



――友達でいいから、私の傍に居て……お願い……!――



 僕の傍に居て、お願い……!



 本当に滑稽だ。まるっきし同じじゃないか。人に説教できるクチじゃないよ、僕なんて。




 己を嘲笑う僕を残して君はついに旅立った。忘れられない一言まで残して。



「大好きじゃけんのーっ! ユキ!!」



 忘れられない。忘れられないよ。酷いよ、こんなのむしろ呪いだ。






 だってそれからわずか数ヶ月後に、僕は君を失ったんだから。




 陽だまりは消えた。小さく、白く、冷たくなった君はもう僕へ微笑んではくれない。



「嘘だ……嘘だよ……夏南汰、こんな」



 永遠に。



✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎



 春の嵐は唐突に

 花の香りは遅れて届くね


 春一番に煽られたときから

 おぼつかない足取り

 ふらり ふらり

 僕らは随分遠回りをしたね


 時に冷たく 時に暖かく

 その変動が怖かったね


 百花繚乱 魅せられたときから

 定まらない心

 ふわり ふわり

 僕らは互いの色を奪い合うように


 ……乱れて



 ねぇ


 あの頃に戻りたいって言ったら笑うかい

 それとも呆れるかい


 あんなに君を欲しがっておきながら

 変わらない方が幸せだったなんて


 今更なんてもんじゃない

 我儘にも程があるね



 だけど抑えられないよ

 声にもならない悲鳴が天へ懇願する


 ねぇ お願い

 時間を戻して


 何も要らないよ

 友達のままでいい

 気付いてもらえなくたっていい

 虚しくたっていい



 君さえ居てくれれば



 他に何も要らなかったのに



☆✴︎☆✴︎☆



 すれ違い続けていた想いがやっと重なった。やっと通じ合った。


 だけどもう遅すぎた。


 束の間の幸福を噛み締めるユキは甘い涙を伝わせ、なんにも知らない夏南汰は永遠を願ってその身体を寄せました。


 状況はやはりすれ違いっぱなしなのですが……


 人目もはばからぬあのシーン。どよめく周囲の人々、実は大きく分けて二通りの受け止め方があったようです。


 引いてしまう人と魅入ってしまう人。


 時代も時代。表向きには前者の方が大多数だったことでしょう。


 だけど一生懸命想い合う者同士の姿から何か感じ取った人も居たのではないかと。きっと否定的な人ばかりではなかったんじゃないかと、ふと思って描いたこちらを息抜きがてらに置かせて頂きました(現代で言うところの“萌え”もあったかも知れませんけどね)



 しかしながら、最後は不穏な言葉で締め括られております。


 言葉を交わすことも叶わない哀しい再会の日が訪れてしまうのです。

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